第85話 乳癌2

 てっきり弟子入りの話だとばかり思っていたけど、フォンはすぐに帰っていった。


「何の話だったの?」

「ちょっとね、女同士の秘密」


 そう言われるとそれ以上追及なんてできない。でもレナの表情からしてフォンの用事が全て解決しているかのようには見えなかった。

 ランチが終わるとすぐにレナは休憩室に向かった。その手には僕が書いた医学書が握られている。明らかにローガンよりもレナの方が数倍読み込んでいるに違いない。もともと魔法使いは魔導書をよく読むものだし、レナだって書いたこともあるだろう。文字を覚えたばかりの少年であるローガンとは読むスピードが雲泥の差だった。


「僕は人工血管のことでサントネ親方のところに行ってくるけど、レナはどうする?」


 僕が声をかけたときにもレナはまだ医学書を読み漁っていた。というよりも机の上に二冊ほど医学書があって、読み比べているようだ。


「うーん、ちょっと調子が出てきたところだから今日はいいわ」

「そう。それじゃあ帰りに晩御飯の食材も買ってくるね」

「分かった。今日はチーズとキノコのパスタの気分よ」


 それはレナの作る御飯の中でも僕の大好物である。晩御飯が楽しみになって、僕はこの時に何も考えずにサントネ工房へと出て行ってしまった。




 ***




 レナの手の中にはシュージの書いた二冊の医学書があった。それらはローガンへとむけて書かれたものであったが、もう一方にはシュージが自分のために覚書としてかいた紙の束がある。

 あきらかにローガンへとむけて書いたものと、シュージが覚書として書いているものでは違いがあった。それに知らない文字もある。いつどこでシュージがこの暗号のような文字を習得したのかというのは謎ではあるのだが、レナにとってそれはどうでもいいことだった。


 暗号を解読するのは簡単である。シュージはその暗号とでもいうべき文字の横に、一般的なレナにでも読める文字を書き込んでいたからだった。

 どちらかというと、暗号を解いたというよりも、もともとその暗号のような文字を知っていて翻訳したというのが正しいのではないかというような書き方である。不自然な直訳を読んでいるようだった。


 この覚書をシュージはレナに見せたことがなかった。レナがそれを見つけたのはたまたまである。執筆途中で寝てしまったシュージが机の上に置いたままにしていたのだ。それでも最初に見た時には何が書いてあるのかも理解できなかった。医学書というのは専門的な知識をある程度持っている人間でなければ、母国語でかかれていたとしても理解できるようには書いていない。

 シュージとともに診療をつづけてきたレナは、ようやくある程度の知識が増えてきた。それでもまだまだ全く足らない。背景とでもいうべきその莫大な知識は、いままで読んできた魔導書を全て合わせても足らないのではないだろうか。これほどの知識を蓄えているのはエルフの長老ですらいないのではないかと、レナは思う。


 謎が多い男だった。それでも信頼も信用もできる。今は、その謎はどうでもよかった。ここ最近は、シュージの診療の中で理解できないものがあると、このシュージが自分のために書いた覚書をこっそりと読むようになっていた。これを読むと、シュージがローガンに全てを伝えるつもりがないという事が分かる。省かれている部分があるのだ。


 いつか、全部を語ってくれる日がくるだろうか。勝手にこれを見るということに対する罪悪感を少し抱きつつ、レナはその謎を最初に語る人物が自分であればいいと、ずっと待っている。


「あった」


 ある項目で指が止まる。ローガンに対して書かれている医学書にはあまり詳しく書かれていないが、こちらにはレナの欲しい情報が書かれていた。


「乳癌……転移しやすい場所とその症状……」


 それは、治療が成功しなかった場合に患者におとずれる悲劇とでも言うべきものだった。




 ***




「人工血管はかなり出来がよかったです」

「おうよ、当たり前だろ?」

「でも、針糸の強度がちょっと……」


 驚愕の表情でサントネ親方の口があんぐりと開く。横で苦笑いのセンリが、あの針はミスリル製のものだったんですよと教えてくれているが、サントネ親方はショックでものも言えなくなったみたいだった。


「いつもはあんな硬い組織を縫ったりはしませんからねえ」

「でもちょっと太目の針糸でしたよね」

「そうだよ、アマンダ婆さんに使ったやつよりは随分と太いのを用意してもらったんだ」

「おかしいですね。それならばそんなに強度は落ちないはずですけど」

「ああ、むしろ切れ味がすぐ落ちるという感じかな」


 センリに詳しい情報を渡して、改良できるかどうかを検討してもらう。さっきまでシングの治療が成功してはしゃいでいたというサントネ親方は人工血管ではなくて針があまり良くなかったという所に落ち込んでしまい、工房の奥へと引っ込んでいった。


「意外とメンタル弱いんだね」

「ええ、そうですね。結構あんな感じですけど、御飯の時間になったら治りますから」

「心は少年か」

「ええ、身体は老人ですけど」


 要件も済んだことだし、魔装具制作の進行具合でも確かめようとルコルの魔道具屋の方へと歩き出したところで声をかけられた。


「シュージ先生」

「あれ? ソアラじゃないか。装備品の補充かい?」

「ええ、新しい腰当が欲しくて」


 そこにいたのはCランク冒険者のソアラだった。駆け出しのころに比べるとかなり良い装備を持っている。腰当は何度も依頼に行ったためか、それなりにボロボロになっていた。斥候業としてたくさんの道具を入れるために絶対に壊されてはならない腰当は結構重要な装備品の一つである。

 ソアラは狩ってきた魔物の毛皮をセンリに渡した。すでにどんなものを作るかは決めてあったみたいである。前回の依頼で狩ってきたのだろう。


「そういえば先生、フォンが先生のところに行きませんでしたか?」

「ああ、レナと何か話してたよ。内容は教えてもらえなかったけど」

「え? レナさんと? おかしいなぁ」


 ソアラが怪訝な表情をする。


「フォンは身体のことで気になる事があるって言ってたんですよ。だから先生のところに行くのをすすめたんですけど」

「身体のこと?」

「ええ、昨日冒険者ギルドの酒場でジャックさんたちと話してですね」


 ソアラたちのパーティーのところにジャックとシグルドが来たらしい。ギルドの関係者ということで新参者だったソアラたちのパーティーとも面識ができていた二人は、王都にいた時の話とシルクに拉致同然に連れ去られた時の話をしたそうだった。その後にまだ仕事が終わってなかったらしく、シルクに怒られていたらしいのであるけど、ジャックとシグルドが王都から戻される時の話にフォンがいきなり身体の事で気になるところがあると言ったらしい。


「ちょっと不自然な場面でそんな事言うから気になってたんですよ。だから、僕は朝になってフォンに先生のところに行ったらどう? って聞いたんです」

「うーん、僕には相談されてないからなぁ。レナとはそれなりに話し込んでたみたいだけど」


 そう言われてみればあの後レナも変な表情をしていたかもしれない。いつもならば僕と一緒にこの工房に来るはずなのだ。医学書を読むのは家に帰る前と帰ってからが多かったし。


「あとでレナに聞いておくよ」



 何事もなければいいのだけど、レナが相談にのったのなら大丈夫じゃない? 僕はこの時も深く考えてはかった。

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