第89話 ナットクラッカー症候群1

 クルミを割るその音が店内に響いた。

 たまにはギルドの酒場のような居酒屋的な店ではなくて、落ち着いた雰囲気のバーでお酒が飲みたいと思うというのは自然なことではないだろうか。

 特にここのところ本当に大変な事が続いていた。そのために冒険者たちもギルドの職員たちもストレスがたまっているのか、ギルドの酒場はめちゃくちゃうるさい。隣のテーブルで話していることすら聞こえないくらいだ。


 日本にいた時には激務ということもあって、よく深夜おそくまで営業しているバーに行った。酒でも飲まなければやってられない状況だったのもあるけど、いま思うと深夜一時まで飲んでたのに数時間眠って朝七時には出勤していたのだから、おかしな生活だったのだと思う。体や心を壊してもおかしくない。


「シュージはクルミとかナッツが好きね」

「ああ、栄養価が高いってのもあるけど、味が好みなんだ」


 薄暗い店内のカウンターの隣にはレナが座っていた。彼女もギルドの酒場ではめを外すこともあったけど、静かに飲むのも嫌いではないらしい。特に今日は上機嫌で大人しくしている。

 日本だったら、気の利いた音楽でも流れている状況だったけど、こっちの世界にそんな音響器械はないために、ピアノが置かれているだけだった。ピアノが置いてある時点でかなりの高級店なのだろう。普段ならば財布の中身がすこし心配ではある。


「何か、曲のリクエストはございませんか?」

「いえ、あまり詳しくないので。静かな感じの曲がいいですね」


 先ほどまではホールのスタッフをしていた痩せた少年、もしくは童顔の青年と思われる演奏者に声をかけられた。長めの銀髪を後ろでくくっており、その髪型のせいでますます彼は痩せ型に見えた。僕はにっこりと微笑んで答える。演奏者は分かりましたと言ってピアノの方へと向かった。


「なんか、慣れてるわね。こういう店って来たことあるの?」

「まあ、それなりにね」


 冒険者になってからはあんまり来たことはないはずだった。レナたちに出会う前のことはあまり話したことはない。レナもあまり深く追求してくることはないので、話すつもりもなかった。話したところで信じてもらえるかどうかも分からないし、信じてもらえたところで今の関係に影響があるわけでもない。


 もう一度クルミを割る。潰れたクルミの中から食べることのできる部分とそうでない部分をより分けていると、後ろで演奏者がピアノを弾き始めた。すこしもの悲しい、それでいて静かに力強い曲だった。


「いい音楽ね」

「そうだね」

「さあ、そろそろ仕事しようか」


「え? 仕事?」


「いや、一杯いただいたんだけど、こちらのマスターからあの演奏者の人の調子が悪いから診て欲しいって言われててね。本人にいくら言っても診療所に行かないからどうしてもお願いしますって」

「お、お酒を楽しみに来たんじゃなかったの?」

「ここ、高いでしょ。僕はギルドの酒場で格安で飲んでいるだけで十分だよ」


 演奏中ならばあの人をじっと見ていても不自然ではないだろう。それがマスターのたてた作戦だとか。なんとも回りくどいやり方だし、本人が治療をして欲しいとは言っていないのに、無理矢理というのはのちのちにトラブルになるかもしれないとも思うのだけれども。シングの紹介だったし、一杯おごると言われてしぶしぶ行くことにしたのだ。しぶしぶだ。…本当はこの店にちょっと興味があったのだけども、高いから敬遠してただけだったからいい機会だと思ったというのは内緒である。


「あー、なるほどねえ」


 遠くから心眼を発動させて演奏者を診察した。こうやって遠くからの心眼にもずいぶんと慣れた。


「何か、分かりましたか?」


 先ほどから僕らのことをずっと注意していたマスターが耐えられなくなったのか、僕のところに来て言った。


「すぐにどうこうなる訳ではありませんね。できれば診療所に来てもらってきちんと診察させてください。やはり、本人の許可がなければ治療はできませんから」

「い、命には?」

「今のところ別に。でも、悪くなると貧血になる人もいますので」


 マスターはずいぶんとあの演奏者を心配しているのだなと思う。演奏者である本人はどう思っているのだろうか。きちんと話をしたことがないために分からないけど、かたくなに僕の診療所に来ようとしないのはお金のせいではないかと思っている。


「診察代は私が出すと言ってもきかないのですよ」

「なるほど、あなたに恩義でも感じているのでしょうか」

「ええ、四年前にあの子を拾ってから一生懸命に働いてくれました。ピアノも独学で学んで演奏までこなすようになってくれて、もう私にとってリンクは息子も同然です」


 リンクというあの演奏者は夢中でピアノを弾いている。昔は演奏できる人間が他にいたそうだが、その人が辞めてからは誰もあのピアノを演奏しなくなったのだとか。リンクはこの店が少しでも良くなればと、独学でピアノの練習をはじめた。いまではユグドラシルの町でも随一の演奏者といわれているくらいだった。


「背中の痛みと、尿に血が混じる……か」


 店の負担にはなりたくない一心に、リンクは僕の診療所を訪れることを拒んでいる。ここはそれなりの高級店ではあるけれど経営状態がすごくいいわけではないのかもしれない。さあ、どうしようか。


「とりあえず、もっと食べて肉をつけてもらっててください。もしかしたらそれで治るかもしれません」


 僕は皿に残っていた最後のクルミを割った。




 ***




「ねえ、どうしたの?」

「別に」


 店を出てからというものレナの機嫌が悪い。僕はまた何かしてしまったのだろうか。


「もしかしてもうちょっと飲みたかった? だったら、もう一軒くらい行く?」

「うん」


 あれ? 今度はやけに素直にうなずいた。長い付き合いだけど、いまだに僕はレナのことが分からないこともある。まあ、それは仕方がないことなのかもしれない。


 しかしそうと決まればせっかくなので行ったことのない店でも開拓しようかといつもは通らない裏路地へと入る。すでに日が沈んでかなりの時間が経っていたけど、大通りには飲みにでている住民がちらほらと見える。さすがに現代日本の東京みたいに明け方まで何かしらの店がやっているというのはほとんどないけど、それでも遅くまでやっている店があるという事をしめしていた。そのほとんどは魔道具のランタンなどで店内に照明がある高級店である。一応、ギルドの酒場にもある。


「たしかこの先にお店があったような……」

「シュージ」


 僕が前方を指差しているとレナが服を引っ張った。後ろに誰かいるようだった。


「ねえ、先生?」


 青い服に身を包み、その手には杖が握られている。僕らが来た道にいたのはヴェールだった。薄暗い路地の両隣の建物の屋根にはいつの間にか人よりも大きな二匹の鳥の魔物が降り立っていた。おそらくはヴェールが使役しているのだろう。ただ、ヴェールも含めて敵意は感じない。


「ヴェール……」


「王都に近寄ってはいけない。それと、獣と竜に気を付けて」


 それだけを言うとヴェールは鳥の魔物たちにとりつけられたロープに足ををひっかけて空へと飛んでいった。その顔が悲しそうだったのは、何故だろうか。

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