第41話 十二指腸乳頭部癌5

 なんだかんだ言って、こっちの世界の人間の寿命というのは短い。ほとんどは病気にかかっても薬も効かずにそのまま死んでいくか、治安の悪い場所で殺されるかなどで早逝するものがほとんどである。


 だからこそ日本ではかなり多いけどこっちでは少ない病気というのがある。一般的に「癌」といわれる病気だ。それは高齢になればなるほどに発症しやすいために、若くして死んでいくことの多いこの世界では癌は一般的に広く知られた病気ではない。特に、呪いの名にふさわしく原因の分からないままに回復ヒールも効かずに死んでいくという病気である。


 癌の早期症状というのはほとんどない。だからこそ早期発見の重要性を知っている現代日本ではさまざまな方法でもって病気を診断し、何も症状がないうちに手術を行うことも少なくないのである。



 末期になってしまっては治療の施しようがないという事と、次々に転移してしまって手術をしたとしても完治できなくなるという癌の特性からすると仕方のないことであった。徐々に分子標的療法などを始めとする画期的治療も開発されてきてはいる。しかし、こちらの世界では化学療法すらできないだろう。


「えっと、どういうことでしょうか」

「詳しい話をさせてください。サーシャさん、診療室へとお連れして下さい」


 イーネさんを半ば強引に診療所の中へと入れる。彼の病気について詳しく説明しなければならない。黄疸おうだんが出ているならば、治療は早めにした方がいいだろう。だけど、これは準備もなしに行えるようなものではなかった。それだけ、高難易度な手術となる。


 僕の顔が真剣そのものだったこともあって、ローガンたちにもその想いが伝わったらしい。マインがあわててどういう事なのか説明を求めてきているけど、それを落ち着かせてくれている。これから、ゆっくりと話すつもりである。


「シュージ」


 ブラッドが僕を咎めるような、それでいてイーネさんを心底心配するような声を出した。彼はイーネさんのことを慕っているというのがそれでよく分かる。いきなりこんな事になってしまったけど、イーネさんの第一印象は悪くない。おそらくはブラッドの事すら気を遣ってくれるような人なのだろう。だからこそしっかりと説明しなくてはならないと僕は思った。


「ブラッド。イーネさんはもともとはもっと肌が白かったのではないかい?」

「ああ、言われてみれば最近はちょっと黄色いかもしれないな」


 娘のマインは透き通るような白い肌なのである。そしてイーネさんは色黒というよりは黄色い。眼瞼結膜がんけんけつまく、つまりは目の白い部分を観察しても黄色がかっており、完全に黄疸おうだんが出ていた。だけど、あまりマインは父親には似ていないのだなとも思う。


 僕は診療室の中にイーネさんを入れると聞いた。


「今から話す内容は許可がなければここの従業員にすら話さないということを誓います」

「そ、そんな……」


 診療所を構えている僕がそんな事をいきなり言い出すのだ。悪い予感しかしないのだろう。黄色がかったイーネさんの顔が青くなる。だけど僕はそれに同情して言わないというわけにはいかなかった。


「お一人で聞きますか? それとも、誰かに一緒に聞いてもらいますか?」

「……ブラッドと一緒に聞きます。マインには話の内容を聞いてから判断させてください」


 意外であった。執事として雇っているブラッドはいわば他人のようなものである。そんなブラッドと共に聞くというのは、ブラッドが信頼されているという事なのだろうが、数か月でそんな信頼を得ることができるだろうか。もしかしたら、ただの執事や護衛だけではなく、この二人には共通した目的というものがあるのかもしれない。


「分かりました。ブラッドもそれでいいかな」

「ああ、かまわない」

「では、説明します」



 イーネさんの黄疸おうだんの原因は、閉塞性黄疸へいそくせいおうだんである。それは肝臓で作られた黄色い色の素であるビリルビンという物質が排せつされることなく過剰に血液の中に溶けだし、体中に蓄積してしまうために黄色の色素となって見えてくるというものだった。


 肝臓からビリルビンは胆汁たんじゅうという液体に混ざり排せつされる。一次的に肝臓のすぐ下にある胆嚢たんのうに貯めこめられるが、食事などの刺激で胆嚢が収縮して、胆管という管を通って十二指腸じゅうにしちょうにある出口から消化管の中に排せつされるのだ。胆汁には他にも脂肪分などを分解する酵素が含まれていて、食べ物を消化するのに役立っている。


 排泄物うんこが茶色なのも、この胆汁の中にビリルビンが混ざっているからである。



 しかし、この排せつのために通る胆管たんかんが塞がれていたらどうなるだろうか。胆汁は十二指腸じゅうにしちょうへと出て行かず、胆嚢や肝臓で渋滞を起こす。そのうち、血液の中にもしみ出して全身にまわってしまうというわけだった。

 その原因は様々である。中には胆石という胆嚢の中で結晶化してしまった結石が胆管へと転がり落ちて胆管を塞ぐということもある。しかし、イーネさんの閉塞性黄疸へいそくせいおうだんの原因はそうではなかった。



 診断名は十二指腸乳頭部癌じゅうにしちょうにゅうとうぶがんである。



 胆管から十二指腸への出口にはファーター乳頭にゅうとうという盛り上がった筋肉で逆流を防がれていた。それは胆管の出口には膵臓でつくられた酵素がふくまれた膵液を分泌する膵管という管も合流するからであり、それらがまざりながら十二指腸を通ってきた食べ物と混ざり合うようになっている。それで食べ物は脂肪分やタンパク質を消化して栄養とするのだ。


 人間の体も脂肪やたんぱく質でできている。そのためにこれらの消化液が逆流してしまうと胆管炎や膵炎となってしまう。それを防いでいるのがファーター乳頭にゅうとうだった。



 イーネさんは、この乳頭の部分に癌ができている。そしてそれは周囲のリンパ節へ軽度であるが転移を始めていた。



「癌、というのはなんなのですか?」

「癌はもともとは自分の細胞、つまりは自分の体の一部です。しかし、その機能が狂ってしまって周囲の組織ごと不規則に増え続けてしまい、周りの組織を壊しながら増えていくものです」


 癌は『遺伝子の変異で細胞分裂の制御を失った細胞の集団の中で外界と体の境界を覆う細胞である上皮細胞から発生した細胞集団』と定義される。

 ひらがなの「がん」は悪性腫瘍の総称、漢字の「癌」は上皮細胞由来の悪性腫瘍と言葉としては使いづらい。そのために悪性腫瘍だとか悪性新生物といった言葉が適格なのだろうけど、一般的には「がん」と言われ続けてきた。


 言葉の定義はともかくも治療方針としては変わらない。制御をうしなって勝手に増え続ける細胞の集団を放っておくと命に関わるということである。癌の末期には全身に癌細胞が転移して、最終的には様々な臓器がその機能を保てなくなり、死に至る。


「よく分かりませんが、つまりはこれを放っておくと死んでしまう呪いという事ですか?」

「その解釈で間違っていません」

「それで、この癌を治す方法があるのですね?」


 イーネさんは僕をまっすぐに見た。頭の回転の速い人である。これだけの説明で分からないところは分からないままに、見失ってはいけない所だけを的確に質問してきた。


「はい、しかしかなり難しいことは事実です」



 癌の治療というのは基本的に完全な切除が原則である。そのためには転移しているかもしれない部分を含めて全てを切除し、その機能を失った部分をどうにかして再建する。言葉では簡単であるけど、実際にそれができないことも多いために癌の治療はできるだけ早期に腫瘍ができるだけ小さい時期に行うのが望ましい。


 そして僕がこれから説明しようとしている「膵頭十二指腸切除術」は、その周囲に重要な臓器が多く、切除も難しければ再建も難しいというかなりの高難易度の手術だった。自分がこんな世界で行うことになって初めて、日本ではこの難易度の手術を一般的な総合病院でも行っているということに感心するばかりである。


 十二指腸の切除、膵臓頭部の切除、胆管の再建、膵管の再建、消化管の吻合など、やるべきことは非常に多く、それらの臓器の周囲には沢山の血管が走っており少しでも傷をつけると大出血を起こす。さらには十二指腸から栄養を吸収するリンパ管とそれらが行きつくリンパ節への癌細胞の転移の可能性を含めて、周囲の脂肪組織ごとリンパ節を摘出(これを郭清かくせいと言う)しなければならない。もちろん、血管が張り巡らされている。



「つまり、治療を受けても助かるかどうかは分からないということですね」

「そうです」

「おい、シュージ……」


 あまりにもはっきりと僕が言ったためにブラッドがつい口をはさんでしまったようだった。その気持ちは分からないでもないけど、イーネさんは自分の事を冷静に見ている。


「概ね、内容は分かりました。ですが、私はまだこの町に来たばかりで貴方のことも良く知らないのです。ですので、治療をうけるかどうかの猶予をいただけませんか」

「もちろんです。ですが、すでに黄疸おうだんの症状がでている。回復薬である程度は症状を減らせるかもしれませんが、早くした方がいいというのが私の判断です」


 そう言いつつも、今のこの診療所では膵頭十二指腸切除術を行うだけの準備ができていない。技術不足も器材不足も甚だしいのだ。しかし、そんな事はイーネさんには伝えない。


「分かりました。数日ください。それまでにどうするかを決めます」

「分かりました。気持ちの整理も必要でしょう」


 数日考えるということで、その間に準備を行うことを決めた。イーネさんが手術を受けないと言っても、いつかは必要になる設備の補充が主体である。大発生スタンピードの御礼金が入っている今の時期でなければこんな事も行えないだろう。


「ブラッド、帰ろうか。マインには言うな」

「分かりました」


 イーネさんはマインを連れて帰っていった。マインには何と言ってごまかすのだろう。それともあえて何も言わないのかもしれない。僕は居たたまれない気持ちになったけど、どうすることもできなかった。



 ***



「アレン、ひっかかったみたいだぜ」

「ふむ。偽の噂ですぐにひっかかるというのはむしろ偽物かもしれんがな。本命は別にいるかもしれん」

「さすがにそれはないんじゃないかと……いえ、可能性があるならそのつもりで動きましょう」


 馬車の中では少女に扮したミリヤを護るようにして、髭などで変装したノイマンが剣を抜いた。髭の変装が気持ち悪かったのか、すぐに外して捨てている。可能性があるつもりで動こうと言ったばかりじゃないかとミリヤが抗議の視線を送った。

 そして執事の恰好をしたアレンはその馬車を追ってきた集団を睨みつけた。


「いーっひっひ、この短時間で追いつくとはたいしたもんさね」


 御者に化けているのはアマンダであった。後方の集団への攻撃はいつでもできるように御者台に忍ばせてい置いた杖を使って、三人に補助魔法をかけていく。


「殲滅するか?」

「いや、一人は捕縛しよう。尋問すれば本命がいれば分かる」


 襲ってくるのは馬に乗った四人である。それぞれに得物を持っていたが、弓が最も厄介だとアレンは思った。魔法使いがいないのが幸いである。もしいたのならば真っ先にそれを殺す必要があった。

 実力のほどはAランク相当はあるかもしれない。ノイマンやミリヤが苦戦するかもしれず、アレンは自分が対応する相手は瞬殺する必要があると考えている。


「弓を持った奴は任せろ。一矢はなんとかしのげよ」

「分かったぜ」


 馬車の両側へと回り込むようにして襲撃者は襲ってきた。一番最初に剣を振りかぶってくる襲撃者の馬を奪って残りの襲撃者を追うのだ。アレンは弓を使っている者へ短剣を投げつけると、反対の手に握られていた長剣で襲撃者の剣を迎えうった。




 ***




「なんでよ!? なんでお父様が……、イーネが死んじゃうかもしれないのよ」

「マインお嬢様。御父上のことはお父様とお呼びください」


 泣き叫ぶマインをなだめ、ブラッドはその頭に手を置き、なでた。その言葉とは違って、まるで保護者のような態度に対してもマインは何も咎めるようなことはしない。部屋の中にはイーネとブラッドとマインしかいなかった。

 イーネはシュージの前ではマインには話さないと言っていたが、帰ると全てをマインへ伝えた。


「マイン、大丈夫だ。私は死なないよ。この治療を受けるつもりでいる。数日待ってもらうのは準備が必要だからだよ」

「旦那様、万が一の場合には……後はお任せください」


 ブラッドの言葉は執事のものであるが、その視線は主人へ向けたものではなく仲間への信頼を示すかのようなそれだった。そしてそれにイーネは満足したように頷き返す。


「まだ襲撃もない。もしかしたら平和に暮らせるかもしれないんだ」

「そんなの分からないわよ。それにもしそうだったら本物が……」

「お嬢様」


 それ以上は言葉にしてはならないとブラッドはマインを止める。マインもそれを指摘されて言葉を止めた。


「旦那様がこんな状態ですので、もし何もなくてもあまり派手に行動はできません。しかし、もしかしたらランスター=レニアン領主がなんらかの手をうってくれているのかもしれませんよ」

「そうだぞマイン。何も心配しなくていいんだ」


 少ししてマインは泣くのをやめた。覚悟はあったはずであると自分を鼓舞する。


「分かった。私は決めた。これ以上は狼狽えない」


 二人はそんなマインを見て微笑んだ。だが、その胸中は微笑むことができるようなものではなかった。



 誰がこんな作戦を考えたのかと罵りたくなる感情を抑えてブラッドは思う。


 自分がこの少女を護ると、そして万が一があればイーネの意志も受け継ぐと。




 身代わりの、偽の王女。あえてほんの少しの情報を漏洩し、あえて襲撃者がほんの少しだけ手掛かりを掴めるように逃走し、あえて権力から遠ざかろうとすることで疑わせない。逃走に成功したと思い、この地で平民として生きる王女を演じる。


 マインという孤児に課せられた役目はそれを演じること。この子は襲われてはじめて自分の役割を果たすことができ、そうしなければならない理由があった。

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