第2話 急性虫垂炎2
魔法使いはその魔力の流れを読み取ることができる。
ほとんどはかなり大まかな流れを視ることで魔法の発動や、魔力を帯びた道具の鑑定などに使うくらいのものであり、人体に流れる魔力を繊細に読み取ることのできる者はほとんどいない。
検査器具など全くない世界である。しかし、この眼が超音波検査やCT検査の代わりになるほどに研ぎ澄まされ、病気の診断に使えるほどになった。
「先ほどの冒険者は腸の一部が腐ってしまって化膿している。早くお腹を開けて腐った部分を取り除かないと、命が持たない」
「え? ちょっと? どういう事?」
「レナ、いまからあの冒険者を救いに行く。僕がやろうとしているのはそういう事なんだ。君の力が必要だ。手伝ってくれるか?」
僕は荷物の中から魔力を回復させるポーションを取り出してレナに渡した。レナはここに来るまでの
食べ切れなかった料理をそのままにして支払いだけ済ませて酒場を出る。ちょっともったいなかったけど、それどころじゃなかった。
「治癒師の診療所はこっちだったね」
都合のいいことに冒険者ではない治癒師が町の中に診療所を開設していることは多い。冒険者として危険と隣り合わせであるよりも町で安全に治療を行うことを選ぶ治癒師が、拠点として開設しているのだ。
すでに冒険者が担ぎ込まれた診療所では治癒師が回復魔法をかけていた。だが、どんなに
「やはり、呪いか……」
魔力を使い果たした治癒師が項垂れた。呪いに対して治癒師は無力であり、治癒師が無力なものが呪いと呼ばれる。だが、それは呪いではないという事を示さなければならない。多分、僕がこの異世界に転移したのはこのためだろうと思う。
「治療を代わってくれ」
治癒師が
「いくらあんたが凄腕の治癒師だとしても、呪いは無理だろう」
汗をびっしょりかいた治癒師が僕に場所を譲ってから言った。その口調には純粋に悔しさが含まれている。僕も癒し手として彼の気持ちはよく分かった。
「シュージ、本当に大丈夫なの?」
「ああ、手伝ってくれるよな。レナ」
「も、もちろんよ」
ノイマンという名前の冒険者は腹を抱えてうずくまっている。これは筋性防御と言ってあまりの痛みに腹の筋肉に力が入ってしまっている状態だ。
「ごめんよ、上を向いて。……そう、頑張って力を抜いて。抑えるよ、痛いよ……こうやって押した時と、放した時とどっちが痛い?」
「は、放した時……」
「だろうね、じゃあよく聞いてね」
ノイマンの右下腹部を押すと、かなりの痛みがあるようだった。押したときよりもその手を放した時の方が痛みが強いというのは
「これは呪いじゃない。腸の一部が腐っているんだ。だけど安心して、僕ならこれを治すことができる」
「ほ、本当か!?」
仲間の冒険者が叫んだ。最初に酒場の入り口で治癒師を集めた戦士風の男である。
「うん、だけどそれは僕を全面的に信用してもらわないことには治療できない。何故なら、治療のためにはお腹を切って開いて腐っている腸の一部を取り除く必要があるんだ」
「は……腹を?」
手術なんて聞いたことのない世界である。ほとんどの傷は回復魔法で治ってしまうためにわざわざメスを入れる必要などなかった。さらには病気の知識もほとんどないために治療のために体にメスを入れるということを理解できない人も多い。
「……やってください」
腹を痛がるノイマンがそう言った。
「まだ、俺は死ねないんです」
「分かった。全力を尽くすよ。他の人は今から言うものを揃えて欲しい」
「わ、分かりました!」
仲間の治癒師が答えた。ミリヤという名前らしい。ミリヤに市場まで行って必要な薬草を買って来てくれるように言う。
「さて、レナ。この人眠らせちゃって」
僕はレナに
***
全ての金属の道具と針が熱湯で熱せられていたために持つだけで大変なことになる。少々冷ましたところでそれを持つ手が火傷するのではないかと思うくらいだった。ギリギリの温度のそれを握り直しながら手になじませる。次にやる時はもうちょっと準備に力を入れようと反省だけはしておいた。
持っているのは熱湯消毒を済ませた器械である。器械といっても手術道具専用のものではなく、なんとなく使えそうなものを持って来ていただけのものだった。メスのかわりになる小さなナイフにハサミ、
設備が整っていない状況というのがこれほどに難易度を上げるものだとは実感できていなかったのは事実だろう。だから、やりにくい。単純に言えばそれだけである。
「レナ、本当に目を覚まさない?」
「大丈夫よ。手足がもがれたって起きないわ。たぶん」
つくづく黒魔術師とは厄介な人種だと思う。これほどまでに人の意識を刈り取っている魔法を唱えることができるというだけで近づきたくないと思わざるを得ない。レナは
急造したマスクが顔に張り付いて気持ちが悪いが、ないよりはマシだろうと思うことにした。今はそれどころではない。
「本当に大丈夫か?」
「百パーセントなんてものはない。だけど、勝算はあるし自信もある。安心して見てろ」
診療所の治癒師の無粋な物言いにイラっときた。道具がショボいくらいで僕がこんな事もできないとでも思うのかと。だけど、こいつらにしてみれば仕方のないことなのだろう。
両手をアルコール度数のやけに高い酒に突っ込む。簡易的な殺菌とは言え、こちらの保護は全く考えていない。ゴム手袋がない状況というのが未知の感染症に対してどれだけ危険なのかというのを実感するが、頭が痛くなるだけでどうしようもなかった。やらないという選択肢はすでにない。
「手術を開始すりゅ…………開始する」
盛大に噛んだところで、僕は手にナイフを握った。
左手で皮膚を押さえつけるようにして右下腹部の皮膚を切る。虫垂がある場所は魔力の流れで確認済みだった。
皮膚が切れたところで左手に
診療所の中に肉の焼ける臭いが立ち込める。最初にこの臭いを嗅いだ時は学生の時で衝撃を受けたものだった。その時に使われていたのは電気メスだった。
すぐに
現代日本であろうが、異世界の冒険者であろうが、人の腹の中を見た者というのはそれほど多くない。ましてや手術時いう状況でゆっくりと観察するなんて事はほとんどないだろう。
傷口を手が入るほどに広げた。腹腔のなかに手を中に入れて大腸を掴む。それをたどっていくと小腸との境目に盲腸があり、その先が虫垂だ。紐状になっているのだが、虫垂炎の場合は周りの腸にくっついていることもある。
周りで診ている人間と言ってもノイマンの近くにいるのは診療所の治癒師とレナだけである。しかし遠目から人間の腸が出てくるという光景を見て、数人の気分が悪くなったのだろう。誰かが外に駆け出していく音が聞こえた。
「やっぱり、危ない所だった」
虫垂は化膿してぱんぱんに腫れあがっていた。もう少しで中身が破れるところである。中身とはつまりはウンコであり、ウンコは細菌の塊なのである。こんなものが破れて腹腔の中に中身がばらまかれでもしたら、もう大変な事になるのは明白だ。
虫垂を栄養している血管を糸で縛る。現代日本では消毒した絹糸を使っていたが、こっちの世界では糸を精製する蜘蛛の魔物のものを使うことにした。全て一度熱湯消毒してあり、裁縫に使うような針を使って血管をしばっていく。そのうち、手術専用の道具をつくらなければならない。
最後に虫垂を糸で縛ったあとに切除し、切った断端を腸の内側に縫い込むようにして埋め込んだ。
「
そして回復魔法をかけた。異世界であり、魔法があるのだ。
腹の中に直接かけられた回復魔法は腸の傷を完全に癒した。腹腔の中を殺菌したあとに濃度を調節した食塩水で洗う。切った筋肉と皮膚を簡単に縫い合わせた後に回復魔法をかけて傷を治癒させた。
魔法のない現代日本ではできない手術である。おかげで傷口は全く分からないほどに綺麗に治るし、腸の
この世界に来て、傷の治療を回復魔法で行って初めて気づいたのである。手術に応用できると。
やったことはなかったけど、本当にうまくいった。外科手術の中で怖いのが手術手技が未熟だったり、患者本人の回復力が弱かった事が原因で縫合不全になること、つまりは傷が治らないことである。
皮膚の縫合不全も厄介であるが、腸の縫合不全は中身が漏れてしまい命の危険が伴うこともある。それがないことを確認しながらできるのだ。日本でやるならば、数日は様子をみなければ分からないし、検査にも造影検査など大掛かりなものが必要になる。そしてその治癒にもかなりの日数がかかる。
これは、チートというやつだな。誰にも理解してもらえないかもしれないけど、一番心配な部分が確実に治っているというのが外科医にとって心の負担をものすごく減らしてくれる。
僕はマスクの下でニヤリと笑った。
「手術終了」
僕がそう言うと、診療所は歓声で包まれた。
「な、なんて治癒師なんだ! 呪いを治しちまった」
ノイマンのパーティーの戦士がそう言った。
「治癒師? 違う、僕は治癒師じゃない」
「え?」
「僕は…………」
こっちに来てからは名乗ったことがなかったけど、これからはこう名乗るつもりだ。
「僕はシュージ=ミヤギ、医者だ」
***
あとはノイマンの回復力次第であるが、もう大丈夫だろう。本当はこのあとに抗菌作用のある薬を飲ませるなどしなければならない。手術は完璧に行えたし、回復魔法もあるから感染は問題ないと思うけれども、念には念を入れるのが外科医である。
「でもなぁ……」
これは非常に悩む。道具を片付けながら悩んでいるとレナがそれに気づいたようだった。
「シュージ、どうしたの?」
ノイマンの仲間たちは手術が成功して大喜びしていたが、僕がすこし考えこんでいたのをレナが見て言った。レナも初めての手術を見て、少し興奮していたようで耳がちょっと赤い。
「ああ、本当は必要な薬があるんだけど」
実はこれが僕がユグドラシルの町へと移住してきた理由でもあった。
「え? 何が必要なの?」
先ほどミリヤに託けたものの中には入っていないものである。というよりも簡単には手に入らないのは分かっていた。
「えっとね、世界樹の雫」
「…………それって第七階層以上に登らないと出てこない、世界樹の樹液よね」
「ああ、そうだね。僕らが昔に採りに来たあれだよ」
「貴族の依頼で採りに来た、依頼料の高かったあれよね」
「そうだね。めちゃくちゃ高くて数週間は何もせずに過ごすことのできたあれだね」
世界樹の雫の中に、抗生物質が混ざっているのを発見できたのは本当に幸運だった。だけど、それが世界樹の雫の中で発見されたというのは不幸な出来事だったのである。何せ、貴重で手に入りにくい。
「まあ、いいか。多分なくても大丈夫だろう」
細菌が傷口に入り込むことはなさそうである。回復魔法というのはそれだけすごいものだった。だけど、回復魔法は完璧ではない。治せないものが存在し、それを呪いと呼ぶ。
いつかは世界樹の雫が必要になることもあるだろう。そして、他の薬だって必要だ。
だから、僕はここユグドラシルの町で病院を作ろうと思った。他の町では世界樹の雫は手に入らない。あれを薬に加工するためには採取してすぐに高度な精製魔法が必要となるし、それを冒険者に頼もうとおもうと輸送費も含めて莫大な依頼料になってしまう。
睡眠回復の魔法を使うと、ノイマンは起きた。
「あ、あれ? なんだ、…………痛くない」
ノイマンが起きるなり自分の腹に手をやって傷すらないことを確認する。
するとミリヤがノイマンに抱き着いた。
「よかった! 本当に心配したんだからっ!」
「すまない、心配をかけた……」
僕は診療所の治癒師に声をかけた。
「半日は少量の水しか飲ませないでくれ。明日の朝にでも消化によさそうなお粥でも食べさせてみて、腹が痛くならないようなら大丈夫だ。少しずつ柔らかい食事から普通のものに戻しておけば数日で完治するよ」
「ああ、分かった。任せてくれ」
ノイマンとミリヤ、そしてその仲間たちから感謝されつつ、僕とレナは診療所を出た。あとはあの治癒師に任せておいても問題ないだろう。宿の場所は伝えたし、何かあれば連絡をくれるようになっている。
「レナ、食事の途中だったね。またあの酒場にもどる?」
「うん…………そうだね」
どうしたんだろうか。レナの顔がさっきからすこし赤い。そしてあんまり元気もない。
「だ、大丈夫? さっきの手術中に気分でも悪くなったのか?」
「そうじゃないわよ……」
おかしい。いつもうるさいくらいに元気一杯なレナの調子が悪い。これは何かの感染症か、それとも……。
「手術ってやつ、すごかったね。シュージ、もう一度言うわ」
「な……なに?」
「私はシュージについていくよ」
「う、うん。ありがとう」
「…………」
「…………」
え? 何? なんで急にそんな不機嫌な顔になったんだ? お腹すいたのか?
「馬鹿っ! シュージの馬鹿!」
背中を蹴られた。痛い。なんて理不尽な。意味が分からない。
こうして僕のはじめてのシュジュツは成功で終わった。
ここユグドラシルの町でどれだけの事ができるか分からないし、僕一人が頑張ったところで世界を変えることができるとかは思っていない。けれども、目の前で死にそうになっている人を救いたいという、医者を目指したときに想った気持ちがまた湧き上がってきた。
「明日から、病院を作る場所を探して、手術の道具を作って、薬を作って…………やる事が沢山だ」
酒場に帰ってエールを飲むと美味かった。そう言えば、日本でも手術が終わって帰ったあとに飲んだビールは美味かったな。
これから、ここで病院を建てる。そして「呪い」ではなく「病気」で苦しんでいる人たちの助けができたらいい。レナと部屋の前で別れて、ひとりベッドの中に潜り込むと宿の天井が見えた。なんとなく上に手を伸ばした。何かを掴めるわけでもないのだけども、明日から頑張らねば。
そして、つぶやく。
「異世界に転移した僕は魔法で手術を行う病院を建てるんです」
その日はよく眠れた。
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