それでは若様。御時間で御座います
人には得意不得意がある。彼女はそう思う。
誰にだって、好き嫌いは存在し、許容出来、許容出来ないものもある。
彼女にとって得意とは、侍女としての役割。
彼女にとって不得意とは、年相応の佇まい。
彼女にとって許容出来るのは、主の利益。
彼女にとって許容出来ないのは、主の不利益。
そこに主としての自分は無く、侍女とは第一に主の利益と、日々の快適性を追及するべきだ。
それが侍女として、最も得意であるべき事であり、最も不得意であるべきではない事である。
しかし、その中にもやはりと言うべきか。得意不得意というものは存在する。
「ですから、何度も申しています」
「……も、申し訳ありません」
それが常には無い業務、新人育成だ。彼女は侍女であり、主の為にその身その心を磨いてきた。だが、最近は違う様だ。
彼女が指導する新人、本家の紹介からこの屋敷で育成をと、そう聞いていたのだが
「何度も申し上げた通り、こちらは若様の居室です。……貴女は入る必要はありません」
「ですが……」
「貴女の給金では、とても払いきれない額の品々が、この部屋には御座います」
それでもかと問うてみると、すごすごと引き下がっていく。あれだけ派手に転んだというのに、怪我一つ負っていない。
しかし一体、これはどういう事なのか。本家に問い質そうにも、電信回線は完全には、まだ繋がってはおらず、手紙も時間が掛かり過ぎる。
「あれ、どうしたの?」
「あぁ、若様。……いえ、何も御座いません」
「そう?」
「はい」
「あれでも?」
「……失礼を致します」
背後から聞こえてきた叫びに、何時もの義腕の軋みを残し、彼女はその叫びの元へ駆ける。
静かな屋敷だったが、あの新人侍女が来てからの数日、何かと賑やかになった。これなら、あと一人二人ぐらいなら、迎え入れても大丈夫かもしれない。
「ん、あれ? そう言えば」
この部屋に彼女を近寄せないのは、何故だろうか。疑問に思いながらも、少年は電信回線開通の祝辞の原稿執筆の続きに戻った。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「……何度申し上げれば、御理解頂けるのでしょうか」
「す、すみません……」
さて、このやり取りも今日一日で何度目になるだろうか。主の居室の方角を背にし、彼女は少し考えた。
だが、それを考えた所で、今の状況が変わる訳ではない。
しかし、それにしてもちぐはぐだ。襟は糊を効かせ、シャツには皺や汚れ一つ見当たらず、裾も乱れは無い。髪も見苦しさを感じない様に纏めてある。
服のサイズが、少々合ってない様にも見える事以外は、身嗜みは侍女として十分なのに、それ以外が足りていない。
その場で急遽間に合わせた。そんな印象が深い。
「……あの、何かまた……?」
「何か自覚がおありで?」
「い、いえ……!」
はて、何やら怯えた様な様子だが、怯える様な何かがあったのか。ここには二人しか居らず、怯えを得る要素は存在しない。
「何か意見があるのでしたら、遠慮無く」
「あ、いや、何も無いです……」
「……解りました。では、本日の業務はここまでとします。……ゆっくりと体を休めなさい」
「……はい」
小さな体だ。恐らく、本家でも用意出来た制服が、あれしか無かったのだろう。
「はぁ……」
彼女は珍しく、溜め息を漏らし、義腕を軋ませる。
時刻は夕刻、今の季節ならもうすぐ日が落ちる。夕餉の支度は滞りなく、あとは最後の仕上げと盛り付けのみ。
彼女にしてみれば、やろうとすれば片手間で出来る仕事だ。
「…………」
しかし、彼女はそれをしない。己の侍女としての役割は、決して片手間で済ませるものではなく、ある一定以上の緊張と、十分以上の猶予を以て行うべきだ。
前菜を盛り付け、スープを適正な温度に、パンは既に籠に盛り、メインはソースのみ。
少年は酒を嗜まないので、食前酒ではなく飲み易く、搾り滓を濾し取った林檎果汁を、炭酸水で割ったものを。
デザートは、少年が力を入れている、酪農業の試作品をと要望通りに、クリームチーズを使ったティラミスと、西方から輸入した上質な珈琲を。
食事全体をあっさりとした味付けにし、重く濃厚なティラミスの味をはっきりとさせ、上質な苦味と淡い酸味の珈琲で締める。
少年は食事の終わりに、冷えた水を欲しがるので、その準備も忘れず、全て万事滞りなく。
「…………」
そこまで準備し、あとは主の元に料理を運ぶだけとなった時、また一度、似合わぬ溜め息を吐き、彼女はキッチンを後にした。
向かうのは主の居室ではなく、そこから見える庭園。日が落ち、闇に沈み始めた庭に、一つ小柄な姿があった。
「……猶予は与えました」
「…………」
無言、何時かと同じ返答。彼女の外套から、鎌刃の義腕が滑り出て、月明かりに妖しく反射する。
あと少しだけ、軽く振れば相手の首を絶てる。そこまで刃を突き付け、次の行動を待つ。
「さあ、どうぞ返答を」
「……何時、気付いた」
「最初から、と言いたい所ですが、気付いたのは、数日前に貴女を助け起こした時です」
相手、新人の反応が驚愕に固まった。逆手に持つナイフの柄が、握り締められ僅かに軋んだ。
「手指に癖が、あと手首の返しと、ナイフの扱い長けた者特有の柔らかさと強さ。そして、全体の身の軽さ……」
鎌刃が空を薙いだ。薙いだ軌跡には何も無く、体ごと回し、周囲を撫でる。背の伸びた植木の頭を僅かに刈り、左の義腕を頭上に掲げる。
甲高い硬質な音と火花が飛び散り、彼女の足元に小さな姿が着地し、その着地の反動で、伸び上がる様にして、彼女の脇腹から胸までを、斜めに裂こうとナイフが迫る。
「投げナイフ以外は、少々、分かり易過ぎますね」
掲げた左義腕が戻り、手刀でナイフを根元から割り砕く。人間の関節構造を無視した動きだったが、相手に驚きは無い。
生身ではなく機械の腕なのだ。その程度は想定済みだと、再び彼女の懐に入り込み、肘を打ち込もうとする。
だが、何か軌道がおかしい。
この軌道では、肘はこちらに届かず、空振りするだけだ。何が目的なのか、それを判断する前に、彼女は右義腕の手指を固定し、振り抜かれる腕を狙う。
「っ……!?」
だが、その義腕が弾かれ、鋼の指先が飛ぶ。何が起きた。それを考える前に、彼女は鎌刃を手繰り、相手を刈り取ろうとする。
しかし、その刃は止まる。
「あんたの隙だ」
「…………」
鎌刃は強力だが、その形状から振れる位置が決まっている。義腕の内側に入り込まれれば、その凶刃を振るえない。
極至近距離で、独楽の様に回転し、下腕上腕それぞれの袖を引き裂き、飛び出した仕込み刃で、彼女の義腕に傷を刻み続ける。
「……お忙しい中、大変失礼ですが、一つお聞きしても?」
「何さ」
「若様に何か御用で?」
「は、分かってんだろ。消せって……」
そこまで言った時、独楽の様に回転していた体が、突如として止められた。見れば、両腕を掴む義腕がある。理解が遅れた。
右義腕は五指の内の四指が破損しており、他にも刻み付けた損傷がある筈なのに、仕込み刃をものともせず、自分の両腕を掴む義腕には傷一つ無い。
「貴女には選択肢が御座います」
「選択肢?」
「一つ、雇い主を吐き、このまま当屋敷の侍女となる。そして、もう一つ」
雲に隠れていた月明かりが、自分を拘束する義腕の正体を露にする。
「このまま捻り潰され、斬り裂かれ、誰とも知れぬ肉塊となるか。私としては、前者をおすすめ致します」
獲物を絞め殺さんと、大蛇の如く鈍色にうねる長大な義腕と、鎌首をもたげる刃。そして、いまだ身に触れる事を許さぬ鋼の義腕と、笑わぬ笑みを湛えた侍女。
「降参……、やってられるか」
溜め息を吐き、新人は抵抗を止めた。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「いや、緊張するね」
「心配は無用かと」
「そうは言ってもね」
ステージ脇にて、少年は執筆した原稿に目を通しながら、珍しく緊張した面持ちだった。
「何時もの若様であれば、この程度の事、何の事がありましょう」
「ははは、信頼されてるね。あ、そう言えばさ、あの新人の子、どうしたの?」
「……身嗜み、身のこなしは及第点でしたが、他があまりにお粗末でしたので、本家に戻し一から出直させております」
「そうなんだ」
頷けば、歓喜に沸く広場に鐘の音が鳴り響いた。そろそろ、少年の出番だ。
「それでは若様。御時間で御座います」
「うん、それじゃ行ってくる」
胸を張ってステージへと赴く少年を、恭しく頭を下げ、どこか誇らしげに、彼女は見送った。
それでは若様 逆脚屋 @OBSTACLE
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