それでは若様。どうか御自愛を
あの〝御渡り〟以来、彼女を取り巻く環境は変わった。気味悪がっていた住人達は、徐々にではあるが、彼女に歩み寄りを見せていた。
「どう、最近?」
「問題無く過ごさせて頂いております」
何時も変わらぬ、少年以外には解り辛い表情。今の表情は、こちらに不満は無いと示す笑みだ。
この解り辛い表情も、今は住人達の賭けの対象にもなっている。
あまり気分の良い話ではないが、住人達からしてみれば、仲間内の賭博は数少ない娯楽だ。規制する意味は無い。
「そういえば、電信回線が明日辺りに、繋がるみたいだね」
「左様で御座いますか」
住人達はしきりに、その話題で盛り上がっている。大都会かその近郊の町でしか聞けないラジオ、それをこの町で聞ける様になる。
実は、少年も少し楽しみだったりする。
「君はどう? 楽しみだったりする?」
「私、ですか」
その問い掛けに、彼女は少し考える。確かに、電信回線やラジオは大都会の住人か、一部の富豪に軍部のみが、所有していた技術だ。
こうして、民間に広がる事は、非常に喜ばしい事だ。
「情報の早さは、命に繋がります。とするなら、非常に喜ばしい事かと」
「ああ、うん。そうだね」
常時臨戦体制な彼女、真面目なのは良いが、主としては少しぐらいは、緩んでくれても構わない。だが、彼女はそれを是とはしない。
少年がそう命じれば、彼女はそうするだろうが、それは命じられたから、そう振る舞っているだけで、彼女の意思ではない。
少年は彼女自身の意思で、もう少しだけ楽しみを見付けてほしい。
「若様?」
「ん? ああ、ごめん。少しボケてたみたい」
「若様、あまり根を詰めすぎるのは、御体に障ります」
「うん、今日から早く寝るよ」
少し隈の目立つ目を擦り、少年は手元の譜面に視線を落とす。
初めは趣味の延長だったが、今はそうではない。漸く、ここまできた。後少し、後少しで完成する。
「それにしても、いい天気だね」
「誠に、その通りで御座います」
穏やかな陽射しの中、少年が呟き、彼女が頷いた。
テラスから見える風景は、枯れ葉を舞い散らす風と冷たさ以外に、冬らしいものが見当たらない。
「小春日和、って言うのかな。今日みたいな日」
「そうだったかと」
穏やかな、平和な日々がそこにあった。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
それは一通の手紙だった。
鋼の手指が摘まむそれを、彼女は冷たい目で読んでいた。
「…………」
無言で読み進め、読み終えると細かく千切り、吐き捨てる様にゴミ箱へと捨て去った。
主である少年以外には、いまいち解り辛い表情に、はっきりと落胆の意思が浮かんでいた。
「……ああ、お茶の時間ですね」
時計が鐘を鳴らし、時刻を伝える。示す時間は昼過ぎ、午後の小休止の時間帯、その少し前だ。
彼女は急がず、少年の元へと向かう。主は最近、この時間帯に、眠っている事が増えた。つまり、茶を用意しても、タイミングを誤れば味も雰囲気も、何もかもを損ねてしまう。
少年の侍女たる彼女は、その様な不手際を許さない。
最高のタイミングで、最高の品質を提供する。それが侍女たる彼女の誇りだ。
なればこそ、眠りに入られるなら、穏やかな安眠効果を、目を覚まされるなら、爽やかな目覚めを、そして作業に集中されているなら、リラックス効果のある品を提供する。
最高を最適で。その為には、主の状態を把握しなくてはならない。
「若様」
主の部屋の扉を軽くノックし、静かに呼び掛ける。返事は無い。なので、主は今眠っているか、作業に集中しているかのどちらかだ。
彼女はゆっくりとドアノブを回し、室内を伺うつもりだったが、爪先分の隙間が開いた時、強烈な違和感に襲われた。
何かがおかしい。隙間から見える部屋は、朝に掃除をした時と変わりない。だが、何か違和感がある。
彼女は警戒を強め、主の部屋へと入る。
「若様……?」
誰も居ない。
彼女は周囲を見回しながら、主が使っている机の側に立つ。譜面と筆記用具はそのまま、几帳面な彼にしては珍しい。
彼女は乱れていた紙とペンの位置を正し、部屋の違和感を探る。調度品の位置にも変化は無く、変化らしい変化は主の不在のみ。
僅かに義腕を軋ませ、彼女はふと窓に視線を向けた。
「っ!」
瞬間、窓から飛び出した。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
簡単な仕事、その筈だった。自分達が貴族の子息を拐い、依頼人がその家に要求を通す。
その筈だった。
それなのに、今自分達は次々と倒れていく。
「クソッ! こんなガキ一人の為に、何が起きて……?!」
男が一人弾き飛ばされ、意識を刈り取られる。
暗い森の中、薬を嗅がされ眠る少年を運ぶ男達は、斬り裂かれ、打ち砕かれ、撃ち抜かれ、既に半数以下にまで減っていた。
腕利きの傭兵、最近の平和続きで食い詰めて、仕方なく選んだ仕事だったが、自分達の過ちに、この時初めて気付いた。
「御客様、我が主を連れて、何処へ行かれるのでしょうか?」
あの〝フードの女〟の口車に乗らなければ、こんな事にはならなかったのに。
男は迫る様々な鋼の義腕に、意識を刈られるその瞬間まで、自らの不運の原因、そして禍々しい義腕を幾つも、その身を隠す外套から生やした侍女を呪った。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「……あれ? いつの間に寝て……?」
「お目覚めで御座いますか、若様」
少年は自室の机の前で、目を覚ました。
確か、作業中だった筈だが、いつの間に眠っていたのか。
「御疲れが溜まっていたのでしょう」
「そうかな?」
「若様、どうか御自愛を」
言われて、肩に重さを感じる。彼女の言う通り、疲れが溜まっている様だ。
少年は軽く体を伸ばすと、立ち上がる。
「気分転換に散歩でもしようかな」
「お供いたします」
少年に続き、部屋出る。その姿は普段と変わらぬ、野暮ったい外套を羽織った侍女姿であった。
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