第21話 六条院からの脱出
暗闇に目が慣れると、更にひとり、白くぼんやりと光る人影が現れた。
どことなく幼い柔らかな雰囲気の女性だ。
「この方も紹介しなければならないな。彼女は『夕顔の君』だよ」
……それって、変態プレイの彼女じゃないか。何となく目を合わせるのが憚られる。いや、本当に可愛らしいんだけど。
「え、それじゃ幽霊なんですか?」
夕顔の君は恥ずかしそうに、小さく会釈した。
「あうんっ♡」
光源氏の足元にしゃがみこんだ若紫ちゃんが甘い声をあげた。光源氏の手が胸元へ差し入れられている。身体を震わせながらも、唇は男のものを捉えて離さない。
その隣では六条御息所が、先が二つに割れた舌で光源氏の耳たぶを執拗に舐めまわしているのだった。
わたしは一体なんでこんなものを見せられているのだろう。
この場合、どういう反応をするのが女子として正解なのだろうか。まさか、わたしも混ぜて、とは言いにくいし。
光源氏がそんなわたしを見て、部屋の隅にいる女性に声をかけた。
「末摘花どのが手持無沙汰のようだぞ。
それは全力でお断りします!
あの人、セミだし。
☆
「あのー、若紫さま。そろそろ帰りませんかー」
彼女はちらりとこっちを見たが、また顔を伏せて行為に没頭している。
これは困った。
「いい加減、物語の続きを書かないといけないんじゃないですか」
薄暗いなかでも、わたしを睨む凶悪な視線は感じられた。どうやらこれは若紫ちゃんにとって禁句だったらしい。
ぎりっ、と歯ぎしりする。
「うおうっ!」
光源氏が悲鳴をあげ、椅子から転げ落ちた。
背後にどす黒いオーラを纏い、若紫ちゃんが立ち上がった。
ぺっ、と何かを吐き出す。
「あ、あの。それ、もしかして…」
「物語ぃ? そんなもの書いて何になるっていうの」
まずい。紫式部のアイデンティティ、全崩壊だ。
目が、若紫ちゃんの目が怖いよぅ。
「私はこれから、物語じゃなくて彼との愛に生きるんです!」
いや、だから。いまその一部をかみ切っちゃったんじゃないかと……。
うわー、それが床の上でうねうね動いてるし。なんて気持ち悪いんだ。
お願い、こんな悪夢はもう勘弁して。
☆
「ここか、犬娘」
「わん」
光源氏の屋敷、『六条院』の前で藤原道長と安倍晴明、それに小野
道長は扉を手で押す。動かないとみるや肩から体当たりした。
「おそらく、強力な『
跳ね返され、肩を撫でている道長に晴明は言った。
「お主の力で開けることは出来ないのか」
「光源氏のみならず、あの常陸宮の姫が中におられるために、呪の力が増しています。私の力では如何ともできませぬ」
「戸が開かぬなら、越えればいい」
小野 篁が平然と言った。だが、その塀は大人の三人分はある高さだ。
「われらには無理ではないか、篁どの」
三人で肩車をしても上まで届くかどうか。しかも晴明以外は結構恰幅がいいのだ。
「そうだな。だがこの娘ならどうだ」
三人の目が犬君に集中した。
「?」
犬君は可愛く小首をかしげた。
「きゃ、きゃ、きゃうーーーん!!!」
篁は彼女の両脚を掴むと、体ごとぐるぐると振り回す。勢いがついたところで思いっきり放り投げた。今でいうハンマー投げの要領だ。
狙い通り、犬君の小さな体は塀を越えていった。
「おお、さすがは篁どの。稀代の知恵者であられる」
「なんの道長どの。まあそれ程のことは有るがな。ほほほ」
「ですが、上手く着地出来ればよいのですが」
「え?」
篁は目を見開いた。どうやら、そこまで考えていなかったらしい。
同時に塀の向こうで何かが壊れるような大きな音がした。
「おーい。大丈夫か、犬娘!」
慌てて篁が声を掛ける。
「だ、……大丈夫だわん」
あまり大丈夫ではなさそうな声だったが。
「渡したものはちゃんと持っているか?」
「うん晴明さま。この玉手箱だね。じゃあ行ってくるわんよ」
少女が走り去る音がした。
☆
まずい。身体が動かなくなってきた。
長時間にわたって光源氏の放つ薫りに晒されていたせいだろう。
「やめろ、光源氏……若紫ちゃんを、放せ……」
光源氏に喉元を掴まれ、若紫ちゃんの足は床を離れていた。
「貴様、ふざけた真似を。縊り殺してくれる」
擁護するつもりはないが、彼が怒るのも分からないではない。
喉に食い込む源氏の指を引き離そうとしていた彼女の手が、力なく落ちた。
「あ、ああっ」
わたしは思わず目を閉じた。
その時、障子を突き破って小さな影が部屋に飛び込んできた。
「お姉ちゃん。助けに来たわんよ」
もちろん、犬君ちゃんだった。
「どうしたの、傷だらけだよ犬君ちゃん?」
「えへへ、平気だわん。そんな事よりこれ、晴明さまから。玉手箱だって!」
犬君ちゃんは持っていた小さな箱を差し出した。
玉手箱。なんで?
この前カメを助けたからかな。でもあれはゾウガメだったけど。
「お姉ちゃんにしか開けられないんだって、早く!」
お、おう。
綺麗な
この小さな箱のどこに、と思うほどの煙が立ち上った。その白い煙は、たちまちのうちに部屋中に拡がっていく。
あ、待てよ。浦島太郎は玉手箱を開けて、その後どうなったんだっけ。これ開けてよかったのか?
「貴様、これは何だ」
「く、苦しい。ああ」
声に気づき振り向くと、光源氏と六条御息所はもだえ苦しみながら、みるみる皺だらけの老人になっていた。
驚いた拍子に思い切り煙を吸い込んだわたしは、犬君ちゃんを胸に抱きしめたまま、意識を失った。
☆
「おい、起きろ。不細工な娘」
揺すぶられてわたしは目を開けた。男が覗き込んでいた。見覚えはあるが、どうしても名前が思い出せない。
「えーと。……珍皇寺 六道さんでしたっけ」
「小野 篁じゃ。なぜそんなとこだけ覚えておる」
いつの間にか夜が明けていた。どうやらわたしは、あの煙の影響は受けなかったらしい。ひとまずほっとした。
周囲はあの広壮な邸宅の面影を残してはいたが、廃墟といっていいほど荒れ果てていた。壁も、屋根もほとんど落ちてしまっている。雲の浮かんだ空が見えた。
「なぜ、こんな事に」
これも玉手箱のせいなのか。
あ、それより。
「若紫ちゃんは無事ですか?」
小野 篁はわたしの向こう側を見た。首だけ曲げると、若紫ちゃんと道長さまが抱き合っているのが見えた。よかった、大丈夫だったみたいだ。
わたしは安堵のため息をついた。
それにもうひとりだ。
「犬君ちゃん、あの子は?」
「ああ。やつも元気だぞ」
篁さまは立ち上がる。背を向けると、そのお尻に犬君ちゃんが嚙みついていた。
こっちはいったい何があったんだろう。
わたしはどうにか体を起こし、犬君ちゃんの体に手をかけた。
「えい」
思いっきり引っ張る。
「うおうっ」
篁さまはお尻を押えてうずくまった。
「お姉ちゃん。大丈夫だったか」
「うん。ありがとう、犬君ちゃん」
えへへ、と笑う彼女の頭をなでてやる。
☆
「これは玉手箱ではない。
晴明さまに訂正された。その名の通り、この世ならぬものを滅尽する時に使うようだ。これが現代に伝わり、台所の害虫駆除に使われるようになったのかどうかは定かでない。
若干不安を覚えるのは、あわよくば、わたしまで駆除してしまおうという晴明さまの意図を感じるところだが。
とにかくこれで光源氏はこの世から姿を消し、物語の世界に戻っていった。
「あれ、これは?」
わたしの足先に何かが当たった。
そこには古筆が一本、転がっていた。穂先が少し
「これが光源氏の成れの果てでございます」
安倍晴明はそれを拾い上げ、懐に収めた。
わたしたちは、一夜にして廃墟と化した六条院を後にした。
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