第20話 紫式部の失踪

 若紫ちゃんのつぼねに立ち尽くし、わたしは周囲を見回した。

 そこに彼女の姿はなかった。


「どこへ行っちゃったの、若紫ちゃん」

 これから使おうとしたのだろう、出したままの筆や硯はそのままに、脱ぎ捨てられた上着だけが乱雑に放りだされていた。


 他の女房に聞いてみると、昨夜、何かに取り憑かれたように部屋を走り出て行ったらしい。最近思い詰めている様子だったから心配だ。

 大丈夫だろうか、どこかで虎になっていなければいいのだけれど。


 そうだ、気はすすまないがあの人に相談してみよう。

 清少納言さん。あんな態度だが、どこか若紫ちゃんを気に掛けている風だし。やはり宮廷内のことは、ああいう古株に聞くべきだろうと思う。


「おや、末摘花さま。どうしたのです、そんなに慌てて」

 丁度いいところに事務担当のお兄さんがやって来た。

「大変です、若紫さまが昨夜から行方不明なんです。何か心当たりがないか清少納言さまに訊いてみようと思うのですが、局の位置が分からなくて」


「清少納言さま、ですか……?」

 彼はいぶかし気な表情になった。あれ、まさか知らないのだろうか。


「もちろん存じ上げております。ですが、あの方は女房を辞めて実家にお戻りですよ。もう、けれど」

 ぞわぞわ。

 じゃあ、誰だったんだ。わたし達に悪態をついていたのは。


 ☆


「よし、じゃあこの匂いを覚えて」

 わたしは若紫ちゃんの上着を差し出す。

「わん」

 犬君いぬきちゃんは足で耳の後ろを掻くのをやめて立ち上がった。

「うわあ、いい匂いぃ」

 ふがふが、とその中に顔を突っ込んでいる。大丈夫かな、この子だけが頼りなんだけど。それに名前が犬君だからと云っても、彼女も鼻が良いとは限らないし。


「この匂いを辿っていけばいいんだね、お姉ちゃん」

 心配をよそに、犬君ちゃんは勢いよく駆け出した。おお、これは期待できるぞ。


 内裏のなかを駆け廻る彼女は、ある部屋の前で足を止めた。

「この部屋から、匂いがするんだわん」

「あのね、喋り方まで犬に寄せなくていいからね」


 からり、と障子を開ける。

「なんだ末摘花ではないか。珍しいな、こんな処まで」

 部屋の中では藤原道長が文几に向かい書き物をしていた。初めてこの人が仕事をしているところを見た気がする。


 犬君ちゃんは部屋に入ると、這うようにして床のにおいを嗅いでいる。そのまま部屋の中央まで進み、動かなくなった。

 しばらくそのままの姿勢だったが、やがて困ったようにわたしを振り向いた。

 顔が真っ赤になっている。


「あ、あー」

 やだ。そういうことか。もう、何日たっても痕跡が残ってるなんて。どれだけ激しい事してるんだよ、この二人。


「どうも失礼しましたっ!」

 わたしは犬君ちゃんを抱え、道長さまの執務室から逃げ出した。

「エロ親父だ。あれ、エロ親父だよ。お姉ちゃん」

「分かった。分かったから、指差さないで」

 うわー、変な汗かいた。


 ☆


「ここなの、犬君ちゃん?」

「間違いないんだわん」

 どうもこの喋り方が気に入ったらしい。自慢げに、耳がぴくぴく動いている。

 だけど……。


 何て豪邸なんだ。

 下手したら内裏より大きいんじゃないだろうか。

 はあーっ、とため息をついてその門を見上げる。


「いったい誰の邸宅なんだろう」

 表札なんか無いし。まあ、名前を聞いても分かるとは思えないが。

 くんくん、と犬君ちゃんが鼻を鳴らす。

「あたしの入ってた箱と同じ匂いがするよ。このお家」


 間違いなく、光源氏の屋敷だ。


 ☆


「ここに入るの、お姉ちゃん?」

 不安げな顔で犬君ちゃんがわたしの顔を見上げている。

「うん。どうして?」

「やめた方がいいと思う。だって、すごく嫌な匂いがするから」

 どんな匂いだろう。でも犬君ちゃんは表現する言葉を思いつかないみたいだ。考え込んだまま、悲し気に眉を寄せる。


「お姉ちゃんの大事な友達が、この中にいるかもしれないんだ。犬君ちゃんは、……」

 どうしよう。お婆さんたちじゃ当てにならないし、犬君ちゃんは晴明さまを知らないだろうし。

「そうだ、さっきの道長さまに知らせて。若紫ちゃんを見つけた、って」

「さっきのって? エロ親父?」

 う、うん。

「わかった。行ってくるわん」

 しっぽを揺らしながら、犬君ちゃんは駆けて行った。


「さて。行ってみようか」

 わたしは扉を開け、屋敷内に侵入した。


 ☆


 屋敷内は全く人気がなかった。

 わたしは静まり返った中を、ひとり彷徨い歩いていた。

(犬君ちゃんがいたら良かったかな……)

 そう思ったが仕方ない。こんな怪しい場所に、子供と入る訳にはいかない。幸いすぐに手掛かりが見つかった。


 この匂いは……。

 わたしは服の袖で口元を覆った。下手に吸い込むと、どんな成分が含まれているか知れたものではない。

 匂いの元をたどって、屋敷の奥の部屋に行き着いた。中から何か話し声が聞こえている。やはり光源氏の声のようだ。


「若紫ちゃんを返せ、光源氏!」

 叫びながら、勢いよく障子を開けたわたしは、そのまま凍り付いた。

 全身にまとわりつく瘴気のような香りの所為もあったが、何より目の前に広がる光景によってだ。


「これは常陸宮ひたちのみやの姫。いきなり男の寝室を開けるとは、礼をわきまえない方だな」

 玉座のような椅子に腰かけ、薄笑いを浮かべた光源氏はわたしを見た。艶っぽい視線がクモの糸のようにわたしに絡みつく。

 その彼に寄り添うように、巨大なぬえはべっている。

(六条御息所……)

 妖艶な美女と妖怪が二重写しに見え隠れしていた。

 そして部屋の隅には、頭から衣を被った女が控えている。その顔は伺えないが、布の奥で翅を持つものが蠢き、時折ジジ、ジジと音をたてている。

 正直、鵺よりこっちが怖い。


 源氏は薄物を一枚羽織っただけで、その前も大きくはだけられている。そしてその投げ出された両脚の間にうずくまっている小柄な女性。


「若紫さま!」


 彼女は虚ろな眼でわたしを振り向いた。

「みさきさま……」

 小さく呟いたようだった。しかしすぐに淫蕩な笑みで光源氏の顔を見上げる。そして喘ぎ声をあげながら、再び、屹立する男のものに舌を這わせはじめた。


 それを軽蔑しきった目付きで眺めやると、六条御息所は立ち上がった。

 そして一声、鵺の声でく。


 わたしの後ろで障子が音をたてて閉まり、部屋は闇に包まれた。



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