第15話 鵺(ぬえ)の啼く夜

 闇の中に怪しい啼き声が響いた。

 いや、それを啼き声と言って良いのか。啼き声だとすれば、それはどんな生き物なのだろうか。あの気味の悪い声は。


「ああ。あれはぬえだ」

 光源氏は紅い唇の口角を少しだけ上げた。


 ぬえ?


「顔は猿、胴体は虎。そして尻尾は蛇という、実に美しい姿をしているよ。末摘花は見た事がないのかい?」

「そんなもの、ある訳がないでしょ」

 動物園にもいないだろうし。

「そうか。だったら、そなたにもお目にかけようか」

 え、ちょっと。そんなの余計なお世話なんですけど。


 光源氏は唇をすぼめ、鋭い音を発した。


 開いたままの障子の向こうに、影のようにそれは降り立った。

 ぶわっ、と生腥なまぐさい風が吹き込んでくる。


 月明かりに浮かんだその姿は、さっき光源氏が言った通りだ。

 現代でいうキメラだ。まさに悪夢の産物だった。

 グルル…、と小さく唸っている。牙を剥き、目を紅く光らせている。

 そうだ、これは吸血鬼モードの光源氏と同じだ。


「まさか、これ。……光源氏のペットなの?」

 うん? と彼は首を傾げた。

 そうか。ペットって言っても分らないか。


 もぞり、と鵺が身じろぎした。

「光源氏さま、今度はこの女でございますか」

 妖艶な声がその妖怪の口から聞こえた。

「それにしてもずいぶん面白い顔ですこと」

 ぺろり、と舌なめずりする鵺。


「そんな事あなたに言われたくありません」

 だって、あなた猿だもの。

「ほう、恐れを知らぬブスじゃな」

 鵺の声が固くなった。背中の毛が逆立っている。びりびりと緊張感が漂った。


 ぼんやりと、鵺の輪郭が霞んでいった。

 見る間にそれは女性の姿になった。

 十二単じゅうにひとえすがたの凜とした女性だった。わたしより、やや年上かもしれない。


わらわとて、好きでこのような姿になったのではないぞ。この男と情を交わすたび、次第に人ならざる物になっていったのじゃ……」

 その女性は涙を流しながら、光源氏を睨み付けた。

 だが、当の光源氏は素知らぬ顔で月に照らされた庭を眺めている。


「あの、あなたは」

 おそるおそる、わたしは問い掛けた。

「このような姿になった妾に名前などある筈もない」

 その女性は自嘲するような笑みを浮かべる。


「だが、かつては六条御息所ろくじょうのみやすどころと呼ばれていた……」


 ☆


「憎い、この男が憎くて堪らぬ。なのに離れることができぬのじゃ」

 六条御息所の声は低く響いた。

 強い血の匂いが漂う。

 彼女は唇を噛み切っていた。

 つーっと、あごに血が伝う。


「これが嫉妬だと知りながら、あの古い屋敷で、女を呪い殺したこともある」

 風も無いのに、彼女の長い黒髪が揺れていた。乱れた髪が顔にかかり、壮絶な雰囲気になってきた。


 あ、でも。

 あれは特殊なプレイをしていたからだと、光源氏が白状していたけれど。


「違う! 妾が祟ってやったのじゃ」

「ま、まあ、その辺はどちらでも構わないのですが」

 慌てて取り繕う。


 六条御息所は音も無く部屋に入ってきた。

 逃げる間もなく、わたしの前に座る。

「あ、あの……なにを」


 すっと顔が近づく。

 瞳が、紅く淡い光を放っている。

「ふうん」

 六条御息所は小さく声を洩らした。意外そうな響きがある。


「なんじゃ、つまらぬ」

 とん、とわたしの肩を突いて立ち上がる。

「お主も、とり殺してやろうと思うたが、まだ手がついておらぬのか。……命拾いしたな、小娘」


 衣裳をひるがえすと、彼女は再び異形の姿に戻った。

 風を巻き起こし宙に舞い上がると、そのまま溶けるように夜空に消えた。


 ☆


「ちゃんと反省して下さい」

 わたしは、縁側で所在なげにしている光源氏に声をかける。

「しているとも。あの女とは、もっと早く別れていれば良かった、とな」

 いけしゃあしゃあと光源氏が答える。

「それは反省じゃなく、ただの後悔です!」

 しかも身勝手な。


「あの女に罪を犯させたのは私の責任だ」

 光源氏の口調が変わった。苦い物が混ざっている。

「だから私が殺したようなものだ」


 だからそれは特殊な性癖が原因だと。


「あの娘のことだけではないよ。死んだのは……」


 私の妻、葵の上だ。

 光源氏は目を伏せ、微かな声で言った。

 



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