第12話 セミの脱け殻は夏の想い出
深夜、わたしは人の気配に目を覚ました。
どんなに足音を忍ばせていても、縁側の板がきしむ音は消すことが出来なかったようだ。
様子を伺っていると、障子が少しだけ開いた。
わずかな隙間からまたあの匂いが漂ってくる。
藤原道長さまではない、あの男の匂い。
『光る源氏の君』
だが、今日は以前のように妖しい匂いはしなかった。身体が痺れる事も無い。
障子が、がたっと鳴る。そしてもう一度。
やがて。
がた、……がたがたがた。
「うるさいっ、光源氏!」
わたしは我慢の限界に達した。こんなんじゃ寝てられないでしょうが。
「仕方あるまい。この障子は建て付けが悪いぞ。早めに直した方がいいな」
光源氏は申し訳ないという素振りさえ見せず、目の前に下がった御札を迷惑そうに手で払いのけると部屋に入ってきた。
「ちょっと、なに平気で入ってくるんですか。そこ御札があったでしょ」
はあ? と光源氏は振り返った。
「ああ、これか」
こともなげに、手に取る。
「なんのおまじないだ、これは」
何てことだ。わたしが半日かけて書いて、部屋の周囲に貼り付けておいたのに。全く効果がないだなんて。
「
光源氏の奥さんは『葵の上』という方で、彼女には光源氏も頭が上がらないのだそうだ。だから魔除けならぬ光源氏除けになると思ったのだが。
光源氏はそれをじっくりと眺め、首をひねった。
「いや、これ。唐草模様かと思ったぞ」
そうです、わたしには絵心もありませんでした。
☆
「いったい何のご用ですか。こんな夜更けに」
訊きながらちょっとドキドキしているのはなぜだろう。
「決まっている。わたしの恐怖体験を聞いて欲しかったのだ」
おい。
「まずは、これを見てくれ、そこのブス」
ブスは余計だ。
光源氏が握った手を差し伸べてくる。わたしも思わず受け取る格好で手をだした。
なにか軽いものが、わたしの手のひらの上に落ちてきた。
「……?」
ぎやーーーーーっ!!
あわてて払いのける。
「な、な、な何を持たせるんですか、いや、いや、いやーっ!!」
床に転がった、薄茶色いもの。
「ああ、蝉の抜け殻だ。まさか見た事がないのか?」
平然と答える光源氏。
「な、無い訳じゃありませんけど」
わたしは昆虫、特にセミとかバッタが大嫌いなのだ。
「どこで拾ってきたんですか、こんなもの」
「聞いてくれるか、わたしの哀しい話を」
はあっ、と光源氏はため息をついた。めずらしく落ち込んでいるようだ。
「わたしには、以前から思いを寄せる女がいてな。一度だけ、旦那がいない隙に関係を持ったことがある。どうもそれ以来、その女から避けられているようなのだ」
涙をうかべ、俯いている。
「やはり、しびれ薬を使ったのがまずかったのだろうか……」
うーん。わたしは考え込んだ。これは迂闊に答えられない。
どうやらこの男は、しびれ薬で動けなくなった人妻を無理やりに……。
警察に通報すべき事案だよね、これ。
「それは、避けられるのは当然だと思いますけど」
「実は、先程もその女の元へ忍んでいったのだ。打ち掛けを被って震えているのだと思ってそれをめくったら」
そこには大量の生きたセミと、その抜け殻が……。
わたしは、しばらく意識が飛んでいた。
「おい、しっかりしろ。……えーと、末摘花!」
おお。
「下手な怪談より怖いです。寄らないでください、セミ臭いですっ!」
よく見ると服のあちこちに、まだ幾つもセミの抜け殻がくっついている。
「ああ、これはお前への手土産のつもりだったのだが」
「どんな嫌がらせですか、それは」
まったく、なんて奴だ。
☆
ごほっ、ごほっ。
朝起きると、喉が痛かった。
少し熱っぽい。
「これは風邪でございますね」
婆1号が顔をしかめた。
「夏風邪はなんとかが引くと申しますが」
と婆2号。
「いやいや、皆のもの。これは風邪ではないぞ。なぜなら昔から『ブスは風邪をひかない』と言うではないか」
婆3号が言うと、おおそうじゃった、そうじゃった、とか三人で爆笑している。
相変わらずひどい連中だ。
「まあ、冗談はともかく。これをお飲みなされ」
そう言って婆1号は、椀に入ったお茶らしきものを差し出した。
「喉の薬でございますよ」
一口すすってみる。
若干焦げ臭いような匂いはするが、まあ、薬だと思えば飲めないことはない。
「これは光源氏さまから頂いたものです」
ほう、喉の薬を。匂いからすると漢方薬だろうか。
「その通り、これは漢方の『蝉退(せんたい)』という煎じ薬でございます」
三婆はそろって頷いた。
へえ。あの光源氏がくれたものか。……きっと高級品なんだろう。
ああ、それは。と婆1号が教えてくれた。
「原料はセミの抜け殻でございます」
……光源氏、いつか殺す。
☆
朝から邸内が騒がしい。
人相の悪い男たちが大勢入ってきては、わたしの部屋の障子を外していく。
「ちょっと、何してるんですか。借金の取り立てにしても酷すぎます!」
夏の終わりとはいえ、さすがに夜は寒いんだぞ。
「なんだ、このブスは」
男たちはわたしを一瞥すると、外した障子を庭に持ち出した。
すでに庭の雑草は刈り取られて、
その上で男たちは障子の上下を丁寧に削り、調整をしているのだった。
「おい、これでどうだ、嵌めてみろ」
棟梁らしき男が他の職人に命じている。
「大丈夫です、引っかかりはありません」
見ると、障子がスムーズに動いている。昨夜はあれだけ、がたついていたのに。
「これって、まさか」
棟梁がわたしを見て、にやっと笑った。
「わたくしどもは、光源氏さまに雇われた職人でございます」
光源氏。さっそく直しにきてくれたんだ。
ちょっと光源氏のことを見直した。頬がゆるんでしまう。
「だから代金は、あの女の身体で払うといっておるのじゃ」
「阿呆か。只でもいらねえ、あんなブス」
「そうとも。あれなら、まだお前らみたいな婆ぁの方がましだ」
「ほうほう。まあ、なんと正直な男どもじゃ」
ちょっと不愉快な会話も聞こえてくるが。
今日のところは光源氏に感謝しよう。
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