第10話 末摘花、宮仕えをはじめます。

 わたしは藤原道長さまの要請で、宮廷に出仕する事になった。

 藤原 彰子しょうしという方は道長さまの娘で、中宮ちゅうぐう(天皇のお妃)なのだと云う。わたしは彼女付きの女房になるのだ。


 これは、野放しになっている光源氏対策の一環だと云うのだが、詳細はまだ教えてもらえなかった。


 でも彰子さまに会う前に、まず直属の上司と対面しなくてはならない。

 それは意外なほど若い女性だった。ほとんど少女と言っていい。

 その小柄な女性は緊張した様子で頭を下げた。


「あ、あの、初めまして。彰子さまのもとで物語の作成を担当しています。…え、と。若紫むらさき、とお呼びください。どうか、よろしくお願いします」


 彼女が今書いている物語のタイトルからそう呼ばれているのだそうだ。

 見た感じでは、わたしとほぼ同年代のようだ。心のなかでは若紫ちゃんと呼ぼう。


「こちらこそ。新人の末摘花すえつむはなです。どうやらわたし、常陸宮ひたちのみやという方の娘なんだそうです。みさきと呼んでください」

 若紫ちゃんが怪訝そうな顔になった。怪訝、というより不審者を見る目だ。


 あれ、わたしの自己紹介って、どこか変だっただろうか。

 そうか。この時代は本名を名乗る女性はほとんどいないのを思い出した。


 たいていの場合、女性は親族の役職や何かで呼ばれているのだ。例えば清原氏の少納言の娘だと『清少納言』とか。


 だから、この若紫ちゃんのように、自分の書いた物語の名前で呼ばれるのは、ちょっと珍しいのではないかと思う。


 おや。でも『若紫の物語』を書いた人……って。


 じゃあ、この子が紫式部さん?!


「みさき様は、わたしの仕事を手伝っていただけるとか……」

 控えめな声でいう。少しそばかすの浮いた顔に、くりっとした瞳。これにメガネをかけさせたら文学少女そのものだ。大きめの前歯とあいまって、小動物っぽくてすごく可愛らしい。もう、ずっと観賞していたい。

 

「あの、わたしの顔に何か……」

 さすがに不安そうに、わたしの様子を伺う。

 おっと、これはしまった。

「すみません。若紫さまって可愛いな-、と思って」


 すると若紫ちゃんは真っ赤になった。

「や、やめて下さい。わたしなんてこんな醜女です。からかわないで下さい…」


 そうかな。確かにこの時代の基準からは、ちょっと外れているかもしれないけど、こんなに可愛いのに。


 ざわざわ、と衣擦れの音が近付いてきた。


「あれをご覧下さいな、清少納言さま」

「まぁなんと、下には下がおるものじゃ。よかったの、式部どの。そなたより不細工な女がおって。おほほほ」

「ほんに、いったい何処から捜して来たものやら、あんな……」

 通りすがりの女官たちが、わたしたちを見て笑いながら去って行った。


 そうだった。わたしもこの世界では相当なブスだった。


「おのれ、清少納言め。いつか見返してくれる……」

 若紫ちゃんの唇は固く結ばれ、目に炎が燃え上がっている。こ、怖い。


「ああ、ごめんなさい。あの女の事は気にしないで下さい。でもわたしはともかく、みさき様まで悪く言うとは、本当に失礼な人たちです」


 我に返った若紫ちゃんは、わたしを見てすぐに怒気を消し、弱々しく笑った。

 可愛いだけでなく性格も良いようだ。これは仲良くなれそうな気がする。


 こんな彼女が藤原道長のエロ話を無理やり書かされ、あまつさえ手取り足取り実演させられているというのだ。

 きっと、あんな事や、こんな事までしているに違いない。ぐわー、えっちだ。大人の世界だ。


 いけない。その恥態を想像したら、若紫ちゃんを直視できなくなった。


「どうしました。顔が赤いですよ……」

 心配そうに彼女がわたしの顔を覗き込む。

 やめて、そんな純真な瞳で見ないで。


「い、いえ。わたしなんて、少しでもお力になれればそれだけで満足です」

 だから、身代わりになるのだけは、勘弁してくださいっ。



「ところで、みさき様。早速ですが、手をお見せいただいても宜しいですか?」

 あ、はい。わたしは両手を差し出した。するとなぜか若紫ちゃんは困惑した表情になった。おろおろと、わたしの手と顔を見比べている。


「どうしました? わたしの手相って、そんなに悪いんですか」

 そうだ。昔、生命線が短いって言われた。


「いえ、あの。悪いのは手相じゃなくて、おつむの方では……ああ、いえ、何でもないです。失礼しました」

 うん? なにか今、さらっと酷い事を言われたような気がする。


「あの、ですね。手、というのはお書きになったものの事で……」

「ああ、手紙とかですね」

 若紫ちゃんは、ほっとしたように何度も頷く。

 なんだ、最初からそう言ってくれればいいのに。あ、でも……。それはまずいかも。


「…………」

 沈黙は長く続いた。


「で、では、歌はお詠みになりますか」

 やっと気を取り直したのだろう、額を押さえながら、若紫ちゃんが訊く。

「はい、それなら自慢の歌があります」

 そこで自信満々、あの婆さんたちに披露した歌を詠んで聞かせたのだが。


「…………」

 返ってきたのは、やはり沈黙だった。


 若紫ちゃんが、そっと顔をそむけた。

 空耳だと思うけれど、なんだか小さな声が聞こえた。


(どうしよう。このひとに何をさせればいいのか、分からない……)


「そ、それでは、みさき様のご都合が良いときで結構ですから、ここにいらしてください。本当に、本当に無理される必要はありませんから」

 若紫ちゃん。なんて優しいんだ。アルバイトをしていても、こんな言葉を掛けてもらった事はないぞ。

 

「でもわたし、邸にいても暇なんですよ。まわりはお婆さんばかりなので話も合わないですし。毎日でも全然、大丈夫です」

 正確には座敷童くんもいるが、彼にも怒られてばかりだからな。


「そ、それは。まあ……で、でも、お年寄りの相手をするのも若者の務めでございますよ。ぜひ一日中、お相手をして差し上げてください。お願いです」

 すごく必死に訴えている。あんな婆さんどもにまで優しいとは、本当にいい人だ。


「分りました。でもうちのお婆さんたちは放っておいても大丈夫な人たちですから。では、明日からよろしくお願いします」

 は、はい……。

 やっと若紫ちゃんは笑った。なぜだか少し涙ぐんでいるようにも見えたけれど。


「では、中宮さまには明日、一緒にご挨拶に伺いましょう」


 ☆


 これはどうやら迷惑がられているのではないか、と気付いたのは床について眠りにおちる寸前だった。頼まれると断れない人だったらしい、あの若紫ちゃんって。

 む、これは悪いことをしたかもしれない。


 でも、まあ仕方ない。明日は明日の風が吹く、と言うし。

 どんな方かな、彰子中宮って。








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