第8話 手に入れたのは未来の思い出
掃除をしていると、卓の上に置いてあるそれに気付いた。
漆塗りで
「これ、おじいちゃんが好きだった時代劇の…」
そう、水戸黄門が番組の最後に出していた、あれだ。
思いがけず、ぽろっと涙が落ちた。
「帰りたいよ……」
言葉にしたら一気に感情が込み上げてきた。胸が痛くなる。
帰りたい。おじいちゃんと、おばあちゃんの所へ。元の世界へ。
わたしは、懐かしいそれを抱きしめて泣いた。
☆
「もういいのか」
涙を拭うわたしを見下ろして、座敷童くんは言った。ずっと黙って見守ってくれていたようだ。
「ごめん。うん、もう大丈夫」
やっと諦めがついた、とは言えないけれど、でも、きっと大丈夫。
まさか、こんなものでホームシックになるとは思わなかったけれど。
「それは貰っておけ。誰も文句は言わないだろう」
わたしは胸に抱きしめたそれを見下ろした。
「そっか。……じゃあ、もらっておくね。このインノー」
座敷童くんの頬がぴくっ、と動いた。
「おい。今おまえ、何て言った」
「え、このインノーはもらっておくって言いましたけど」
「それは、
えへへ、何を言っているんだろう、
「知らないの? これはね、インノーって言うんだよ。小さい頃、おじいちゃんに教えてもらったんだから」
このインノーが目に入らぬか、って。
「だから、女子がそんな言葉を口にしてはならんと言っているのだ」
なぜか童くんがうろたえている。
「なんでよ。インノーを口にするのは、いけない事なの?」
「おい。まさか、全部わかって言っているのではないだろうな」
おやおや、座敷童くんが何を怒っているのか分らない。
「ところで、インノーって何だっけ?」
「知りたければ、光源氏に見せてもらえ」
座敷童くんもあきらめ顔になっている。
「うちの三人のお婆さんたちは持っていないのかな」
「アホか。あいつらが持っているはずがないだろう。ババアだぞ、あれは」
そうかー、やはりお金持ちの人しか持っていないのかな。
「しかし、年端もいかぬ孫娘に卑猥なことを言わせて悦に入っている、おまえの祖父どのは変態ではないのか」
まさか。失礼なことを言う座敷童くんだ。
あ、そうだ。もしかしたら……。
「おじいちゃん入れ歯だから、発音が悪かったのかもしれないけどね」
でも、これは時代劇では無敵のアイテムではあるが、……残念ながら平安時代の、しかも光源氏に対しては、さすがの徳川将軍の威光も通じないだろうな。
わたしは苦笑しながら、それをふところにしまった。これ、大事にしようと思う。
☆
「なんだ、おまえ。琴を弾きたいのか」
掃除を終えて居室に戻ると、まだ部屋の真ん中には琴が置きっぱなしだった。
「そうだね、この世界で生きるなら何か特技があった方がいいかな、と思って」
ふむ、と座敷童くんが腕を組んだ。
「オレが、琴を弾けるようにしてやろうか」
それは天からの声に聞こえた。すごい、そんな能力があるんだ、座敷童って。
「は、はいっ! お願いします!」
やった、異世界最高。
「だから、そうではないと言っただろう。どこを押さえているんだ、このブス」
細い木の棒で手を叩かれた。き、厳しいぞ、座敷童くん。さっきまでとは別人みたいになっているし。
……何で? 魔法かなにかで、日本一の琴奏者にしてくれるんじゃなかったの。
「バカか、おまえ。そんな都合のいい話があってたまるか」
うーん。最近はそういうのが主流になっていると聞いたのに。
「だが、最初よりだいぶマシになったぞ。前の娘は教え甲斐のない奴だったが、おまえは少しは見所があるようだ」
はあ、そうですか。わたしは少しふて腐れながら琴を弾いた。
☆
闇のなかに香りが漂う。
これは藤原道長さまの匂いか? わたしは、ぼんやりと思った。
(いや、違う。似ているけど別物だ)
道長さまよりも、もう少しくっきりと鮮烈な香り。そしてその奥に、かすかに血のにおいがした。
「随分、待たせてしまったようだね」
道長さまに似た低く渋い声。
そして夜目でも長身なのが分る。安倍晴明さまによく似た感じのスタイルだ。
間違いなく『光る源氏の君』だ。
ちょっとドキドキしてきた。だけど、あれ?
身体が、……動かない。
どういう事だ。目だけは動かせるが、手も、足も動かない。
「驚いたかい? 常陸宮の姫君」
笑いを押し殺した声で、彼は言った。
「この衣装の匂いは、しびれ薬を含んでいるんだよ」
なんだ、その仕掛けは。
彼、『光る源氏の君』はわたしの顔を覗き込んだ。
わたしは思わず息を呑む。
もちろんその顔の美しさに、は確かだったけれど。
だけど。それだけでは無かった。
闇のなかで瞳が赤い光を放ち、薄く開いた唇からは太い犬歯が二本むき出しになっている。これはまるで。
(き、吸血鬼……?)
平安朝に君臨する魔王、光源氏はわたしの身体のうえに覆い被さってきた。
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