第3話 これが光源氏との初夜?

 闇のなかにかぐわしい匂いが漂っている。

 それは、男が動く度にふわりと鼻をくすぐった。この男は平安貴族らしく、衣服にお香の薫りを焚き染めているのだ。


 だがもちろん、わたしはそんな匂いに気を取られている場合ではなかった。

 だって柱に縛られたまま、見知らぬ男に襲われようとしているのだ。これじゃ、まるで魔王か何かへの生け贄じゃないか。


 いや、まさにこれは生け贄に違いない。あの婆さんども、わたしの身を光源氏へ捧げる事で、自分たちの安楽な生活を確保しようとしているのだ。


 その男は静かに、わたしの前に立った。わたしは、ふと違和感を覚える。あれ、光源氏って、こんなだったの……?


『光る源氏の君』は膝をつき、片手を伸ばすと、わたしの頬を撫でた。意外と優しい仕草だ。手慣れていると言ってもいい。  


「おう、こんな姿になって。なんとおいたわしい」

 それなのに決して縄を解こうとはしない。これはもしかすると、ちょっとヤバい奴なのかもしれない。


「まず雨戸をあけて、その縛られた姿をとくと観賞させて頂こうかな」

 笑いを含んだ声で男は言った。その声は低く渋くて艶っぽい。決して嫌いじゃない。でも言っている内容はただの変態だった。


 やがて、部屋に月の光が差し込んできた。それを背に、光る源氏の君が戻ってくる。すごく絵になる光景のはずだった、のだが。


「こ、こんなの絶対、光源氏じゃない……」

 わたしは思わず叫んでいた。


 近くに寄った時にも感じたのだが、こうやって月明かりで見ると、その恰幅の良さは瞠目ものだった。胴回りは優にわたしの二倍以上はありそうだ。


(しかも、暑苦しいし)


 顔を覗き込まれ、わたしは呻いた。

 男の額は浮いた脂で輝いている。……これは光る源氏じゃなくて、テカる源氏だ。


 しかしその男は不思議と爽やかな笑顔を見せた。

 この世界基準ではとんでもなく不細工なはずのわたしの顔を見て、だ。


「ほう、これは何と……。そなた、異国の血が入っておるのか?」

 え?

「うむ、美しい顔じゃ」

 わたしは耳を疑った。なんだか久しぶりに聞いたその言葉に、ちょっと泣けてきた。


「では、まず、この縄を解いて下さい……」

 そういうわたしに、男は首を振った。

「いやいや。この方が趣があってよいではないか。のう、そう思わぬか?」

「全然、思いません!!」

 やはりただの変態だった。


 ちょっと、やめろ。着物から手を離せ。


 すでに、わたしの着物の裾は大きくはだけられていた。男は袴を脱いで、わたしの脚の間に身体を進めてくる。

 嫌でも裸の男のモノが目に入る。うわー最悪だ。


「そうか、姫はこういう事は初めてなのか」

 うんうん、とひとり頷く男。

「心配はいらぬ。痛いのは最初だけとも聞くからな。全てをこの道長に任せるがよい。……では、参るぞ」

 ああ、もう駄目だ。わたしは目を閉じた。


「お待ち下さい、道長さま」


 涼やかな声が庭先で聞こえた。

 見ると、そこには長身の男が立っていた。薄く靄がかかり、月の光に照らされたその姿は、かつてわたしが死ぬ間際の幻覚で見た姿だった。薄闇のなかで、瞳が妖しい光を放っている。


 そうだ、きっとこの人が本当の『光る源氏の君』に違いない。


「なんだ、晴明。こんな所までついて来なくても良いのだぞ」

 時の最高権力者、藤原道長の怒気を含んだ声に対し、その青年は優雅に頭を下げた。


「お楽しみの邪魔をして申し訳ありません。ですが、その姫に手を出してはなりませぬ」


「何故だ。こんなに佳い女なのだぞ。ぜひ儂の女にしたい」

 だが、青年は首を横に振った。


「なりません。……なぜなら、その御方は死人しびとにございますゆえ」


 平安朝最強の陰陽師、安倍晴明はわたしを指差してそう言った。


 ☆


 やっと縄をほどいてもらい、わたしはしびれた腕を撫でていた。

「あの、今夜は『光る源氏の君』がおいでになると聞いていたんですが。あなたがそうなんですか、道長さま」

 そう言うと、道長と晴明は困ったように顔を見合わせた。


「ああ、源氏の君なあ。やつは時々雲隠れするのでな。儂が代わりに手紙を受け取ったのだ」

 ほれ、といってわたしの書いた手紙を差し出した。わたしは思わず赤面する。


「読まれたのですよね、当然……」

「もちろん読んだぞ。そうか、やはりまずかったか。そうだな、光源氏に宛てたものだったろうからな。これは、すまぬ事をした」

 道長は頭を下げた。


「いえ、そういう事ではなく。あんな物を見られたなんて、恥ずかしくて」

「ふむ。面白い手紙だったぞ。個性的というのか、まあ、あまりに……あれだったが」

 やはり、あれだったんだ。


「ところで、この姫が死人だというのはどういう事だ、晴明」

 彼なりに気を遣ってくれたのだろうか、本題に戻った。

 そうだ。わたしもこの世界で自分の立場が知りたい。二人の視線が晴明に集まった。


「この方は『光る源氏の君』と同じなのです」

 晴明は、そう言って目を伏せた。


「つまり、この世のことわりから外れた、人ならぬものにございます」

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