第18話「異世界でも圧倒的な力の前にやる事は一つしかない」
突如としてそこに現れた、否、殺気を放つまで気配を殺していたような甲冑は、ただそこにあった。
そこにあるだけで、ガレイスとケイの精神を摩耗させていった。
「…………っ!」
「…………」
人は動く事よりも、ずっと同じ体勢で居る事の方が遥かに難しい。
臨戦態勢のままがいつまでも続けられる筈がない。
ガレイスもケイも、それを頭では理解していたが、目の前の甲冑に対して、身体が気を抜いてはくれない。
汗が止まらない。
しかし、相対する相手は、まるでそれが尋常とでも言うかの如く、殺気を微塵も緩めずに、何処か気の緩んだ雰囲気さえ見せたままに立っている。
お互いに睨み合って幾分か経つと、甲冑の頭部が動いた。
僅かな金属音と共に、振り返るように後ろに頭を向ける。
気分は袋小路の鼠であったガレイスとケイの二人は、敵の意識が僅かにでも逸れたその瞬間を、好機とでも言わんばかりに動き出す。
それは、逃走。
遁走、または、敗走と言っても差し支えない。
何もせずに、敗北を認めた。
何をするまでもなく、死を確信した。
故に、戦略的撤退などと綺麗に纏めるつもりは、二人にはさらさらない。
今はただ、この化け物から逃れたいと、一心に足を動かした。
飲み込む空気は喉を割り、肺は膨張と収縮を繰り返して崩れるように動き、灼ける様な痛みを絶え間なく与え続ける。
如何なる苦痛を与えられようと、決して絶やせぬ存在に、生き物の惨たらしい執念を感じながら--否、そんな事を考える余裕も無く、ガレイスは一目散に逃げる。
変わらず纏わりつく殺気に、鬼気迫る勢いを止めず、後方の様子を目で伺う。
するとどうしたことか、甲冑の騎士の姿はとっくに見えなくなっていた。
逃走は最早、不要に思えた。
--しかし、身体がそれを許さない。
ここで止まってしまえば、取り返しの付かないことになる、予感がする。
意志とは裏腹に動き続ける両足が、そのことを雄弁に語っていた。
幸いにも、ケイは後ろの様子に気付いていないのか、ガヴェインの姿のまま、必死な形相で隣を並走している。
ガレイスの視線さえ気にもせず、という具合で疾走する。
されど人の体力は然程も持たず、足が泥に掠め取られたように、ガレイスは盛大に転けた。
立ち上がろうとも、脚が動くのを嫌うかのごとく、微塵も筋肉に力が入らない。
気付けば、息も絶え絶えであった。
ガレイスが転げ倒れたのを目撃したケイは、そこで我に返ったのか、追っ手の居ない事を把握し、ガレイスに駆け寄った。
その呼吸には、一切の乱れが無かった。
「がほっ……!ぜぇ……はぁ……だいっ、じょ、ぶで、っす……っ……!」
ガレイスを日陰に寄せ、ケイはガレイスの首に手を当てる。
「落ち着いて、深呼吸して。息が乱れたままだと、もしかしたら一生走れなくなるかもしれないから」
そう言い、詠唱を始める。
「万象の乱れを正す奔流に、彼の生命の輝きを以て、癒しの力をあらわさんこと希う」
首に当てた手からは灰白色の光が流れ出し、それは瞬く間にか細い光の線となり、ガレイスの身体の表面を走りだした。
それはまるで、体表に浮き出た銀色の血管であった。
言われるがままに平静を取り戻していく呼吸とは対称に、その光が強さを増す。
やがて、ガレイスは以前よりも身体が軽くなったと思える程に快復し、代わりに、灰白色の光の糸は消えていた。
「さあ、立って。もう少しだけ別方向に逃げよう」
ケイに手を引かれたガレイスは、羽根のように軽く立ち上がる。
そして、再び茂みを掻き分けて、今まで走って来た方向とは全く違う方向へと、早足で歩き進める。
それから暫くして、二人は、十人ほどが手を繋いで輪になったような太さの切株を見つけ、そこに腰を下ろした。
ガレイスは、普段の気付かぬ疲労さえも無くなったような己の体を見つめて、少し逡巡する。
しかしすぐさま、決意の面持ちで、ガヴェインの皮を被ったままのケイへと切り出した。
「身体を強制的に落ち着かせ、リラックス状態にする魔法……これは、ガヴェインが使える魔法じゃない。あなたのものですね?」
その問いかけに、ケイの瞳に戸惑いの色が入るが、すぐさま諦めたように、目を閉じた。
「……そうだね。誰の中に入っていても、ガワのステータスがいくら変化しようと、ボクの存在自体が根底に深く関わる魔法だけは、いくら能力(チート)でも、そういうものでない限り模倣は不可能だ」
一拍置き、何かを言おうとしたガレイスを右手で制して、ケイは口を開く。
「……もちろん、君の欲しい解答が、こんなものじゃないということも、分かってる」
「そうだ……この魔法は、ヤミ魔法……主に、人体内部の活動に直接打撃を与えることの出来る、外道の魔法だ」
ケイは、少し休憩、と言い、ガヴェインの皮を上半身だけ脱ぎ、休憩中の着ぐるみスタッフのような状態になる。
「ボクの転生先の話でね……その家は、人を人とも思わない所業が、近くを通った山賊から、近くの里から攫ってきた子供にまで、連日連夜、ボクの父と母の手によって行われていた」
「人体実験……彼ら一族はそうやって、魔法の精度を高めていったらしい」
「何かに没頭し、技術を磨き上げる、その事自体は尊重されるべき考えだってのは、何よりも理解している」
「だけど、それも、社会倫理の範囲において研ぎ澄まされるべきスキルに留まる話なんだ」
「……国が変われば、倫理観も変わる」
「外国には、人殺しなんかも一々裁く事もない程に、日常茶飯事な地域だってある」
「……もう、世界から変わったんだ」
「何から何まで変わったんだ」
「前の世界に縛られる事の無い事をしようと」
「一族代々継承されてきた、由緒ある家業を手伝おう、と」
「……だけど、やっぱり無理だったよ」
「一時期は心を殺してまで、魔術の向上に執心していた」
「幸か不幸か、ボクにはその才能があった」
「だから、家族からは手を叩かれた」
「希望の星だと言われた」
「……勿論、そんな事には何の悦びも覚えない」
「ただひたすら、命乞いをする人間を眠らせては、悪行の償いだと刃を入れ、材料を入れては、傷を縫い付け、牢獄の中に入れて経過を観察し、時に死なせてしまっては、材料の配分を考えた」
「途中で死ねる奴は幸運だったと思う」
「ヤミ魔法の恐ろしさは、人体内部に如何にダメージを与えようと、当人を殺さないという目標地点にあるからね」
「配合比を間違えて素体を死なせてしまった時は、酷く叱られ、そして慰められた」
「次で結果を出せば良い、と」
「……実はボクの家は、その町では有名な医者、のようなものでね」
「ヤミ魔法は人体に害の無い範囲で扱えば、並の治癒魔法よりも後遺症の残りにくい治療が可能になる」
「だからこそ、ヤミ魔法の碩学たるボクの一族の行為を国は黙認していてね」
「攫われてくる子供たちなんかも、両親を戦乱で失った孤児や、孤児院の満員が原因で引き取り先の見つからない子や、不治の病に侵されて、殆ど希望が無くとも、それでも一縷の望みに賭けて連れてこられたような子たちばかりだった」
「如何なる傷を負っても、傷痕すら残さない、それほどの治癒能力を持つ魔法を、彼らの身体にかけた」
「……だから許される、なんて事は、絶対にないと分かってる」
「彼らが如何なる背景を持ってようと、子供に見せるべきは刃ではなく、未来なんだって」
「目隠しをして、猿轡を噛ませるべきではないんだって……分かってた」
「だけど……ボクは彼らの未来が絶たれる事よりも、それを理由にして、自分の将来を棒に振る勇気が無かったんだ」
「……臆病さ、どうしようもなく」
「如何に人の役に立とうと、その為に無辜の人間を犠牲にするのは、間違ってるって」
「だけどそんな間違いが間違いじゃない社会で、反旗を翻す勇気もない、臆病な奴なんだ、ボクは」
「ボクの望みが何もかも綺麗事なのも理解しているんだ」
「けれど、ボクはまた……」
ケイがその先を言おうとしたところで、ガレイスが手を振って遮る。
「今までの罪も、反省してるなら、俺はそれで良いと思います。それでも納得出来ないって言うなら、さっき俺にしてくれたみたいに、誰かを救い続ければ良い、そうじゃないですか?」
その言葉を紡ぐガレイスの真っ直ぐな瞳に、ケイは軽く笑みをこぼし、「ああ、そうだよね」と返す。
ガレイスもその反応に、満足気に頷く。
そして、双方共に、現在へと意識を戻し、顔を険しくする。
「ところで……彼は誰だったんだろうか」
ケイの言う「彼」とは、言うまでもなく、あの鎧姿の人物の事だろう。
「思い出しただけで寒気がするよ……」
それはガレイスも同じであった。
まるで心臓を鷲掴みにされているような恐怖。
あの鎧と対峙していた間、逃げている間は、まるで生きた心地がしていなかった。
「どころか、今も、なのかな……」
そう言い、ガレイスは震える己の手を見つめる。
どうしても、暫く震えは止まらなさそうだった。
「……とりあえず彼は避けるとして、ここからどう動こうか?」
それに対しての答えは、ガレイスが持ち合わせていた。
「向こうに水流の音が聞こえました。恐らくは、川があるかと」
今逃げてきた方向とは真逆の方向、つまり、この先に進めば水源へと辿り着くという。
ケイも、耳を澄ませて音を認めた後に、ガレイスを見て頷く。
こうして両者は共に、緊張と疾走で渇いた喉を潤す為に、歩み始めた。
「あらら、逃げられちった……」
兜をぽりぽりと掻きながら、フルアーマーの鎧に身を包む、小柄な男が呟いた。
彼の身長こそは子供と大差ないものの、発された声は低く嗄れたような、渋いものであった。
「うーん……僕はただ、道を尋ねたかっただけなんだけどなぁ」
自らの倍ほどの長さもある槍を地面に突き立て、懐から地図を取り出し、細かく読み込む。
「やっぱりなぁ……こんな森はうちの近くには無かったもんなぁ……」
地図を懐にしまう。
首だけで後ろを振り向く。
「君は何か知ってるのかい?」
そして、誰の姿も見えない背後へと、そう言った。
騎士の言葉に応えるように、大地を揺らし、太い木々をへし折りながら、赤い腕を持つ巨漢が現れた。
「君は何か、知ってるのかい?」
蒼い鎧は顔だけを巨漢に向ける。
兜の隙間からは、紫紺の眼光が覗いていた。
漢は灼熱のように燃え立つ髪を掻き、溜息をついて答えた。
「はァ………まさか、ほンとになンも知らねェたァ思わねェが……さてはテメェ、"はぐれ"か?」
その言葉に、背の低い男は首肯する。
「……あー、実はそうなんだよ。気付いたら知らない森でさ、話を聞く前に、出会った人みーんな逃げてくの。もう、気が狂いそうなくらいさ」
大漢は、先程より大きな溜息をつき、鎧姿に背を向けて立ち去ろうとする。
去り際に顔だけを向けて、
「……おい、オッサン。悪いこたァ言わねェから、早めに死んどけ。"はぐれ"が花を持ったところで、取り上げられるンがオチだ。テメェは、ハズレくじを引かされたンだよ」
と、言い残して、その巨躯を森の影へと消していった。
蒼い鎧の男は、兜の頬の部分をぽりぽりと掻きながら、
「……………………競争相手に『死ね』って言われてもなぁ」
と、ため息をついた。
「とりあえず、今まで通りに歩いてみるしかないかなぁ」
そう呟き、丁度突き立てた槍が倒れた方向へと、ひょこりひょこりと歩いて行った。
面白い。
興味が尽きない。
楽しい。
悦ばしい。
--その男にとって戦いとは、そのようなものであった。
自分は産まれてからの化け物であり、平和に息を吸えど、戦地にて恍惚の溜息を吐く。
強敵の発する殺気を一心に受け止めることが、愛娘の抱擁に等しく嬉しい。
妻の「行ってらっしゃいませ」が、死にゆく敵の「くたばれ」と同じ程に心地好い。
上辺には平和を享受すれど、心の奥底には血を求める意志が絶えず燃え上がる。
炎の腕を持つ、金の獅子。
さらに、叡智に恵まれた軍師。
そして、いずれ一国を預かる王子。
それが彼--イスクバ=ゼイデンであった。
「……チッ、クソッタレが……ッ!」
悪態と共に、傍にあった樹を殴り砕く。
彼は今、初めて抱く感情に戸惑っていた。
或いは怒り、或いは屈辱。
しかし、知らぬ。
知らぬ、識らぬ、存ぜぬ、理解出来ぬ。
生まれてより、味わった記憶の無い、背筋の凍るような、感情。
ふと、彼の脳裏を過ぎったのは、自らに殺されゆく兵士の顔顔であった。
「…………そうか、コレが」
「コレが……"死にたくない"というコトか…………」
得体の知れぬ、小さき鎧。
それと戦うまでもなく、敗北を喫した大男は、冷や汗で重くなった衣を背負い、泥にとられたような足取りで、森を掻き分けて去っていった。
「うーん……それにしても、何とかならないのかなぁ」
蒼き鎧は再び立ち止まり、獣と相対した。
獣は、その獅子のような頭部に生やした黒い角を、真っ直ぐに鎧へと向けている。
その瞳には、些かの知性も理性も感じ取られなかった。
鎧の十数倍はあろうかという体躯の魔獣は、暫く睨みあった後、鎧男の身長の倍はあろうかという前肢を、握り拳を先に付けて振り下ろす。
拳の大きさは、鎧男のそれと、ほぼ大差無いように見える。
そんな質量が、驚くべき速度で、鎧男へと叩きつけられる。
「グガァァァァァッ!!」
魔獣の咆哮と共に叩き込まれた鉄槌が、辺り一帯をぐわんと大きく揺らがせる。
打ち砕かれた砂が舞い上がり、攻撃の壮絶さを、揺蕩いながら物語る。
「フゥ……!フゥ……ッ!」
砂埃が霧散し、割れた大地が現れる。
しかし、魔獣の足元には、鎧の姿は一切見られなかった。
魔獣は首を動かして辺りを見回すが、逃走の痕跡も、臭いさえも嗅ぎ取れない。
あまりに唐突な消失に、魔獣は僅かに混乱するが、すぐに考えを切り替える。
今までそこに居た脅威が、勝手に消えてくれたものだと、安堵さえした。
そして、踵を返して、森の中へと--
「ッ!?」
--その目の前には、小さな鎧姿があった。
否、魔獣は森の奥深くに住むため、鎧という物を理解していない。
自然の掟は、喰うか喰われるかの淘汰のみ。
故に、彼が目の前のそれを把握するならば、きっと、こう換言するべきであろう。
--その目の前には、小さな捕食者が居た。
「御免ねぇ。なるべく痛くしないから」
人間の鳴き声が何を意味するのかは知らないが、それより確かな殺気に死を覚悟するよりも速く、魔獣の前肢は動いていた。
それは、空気ごと引き裂くような殴打の一撃であり--
--それよりも速く、鎧姿の男が持つ槍は、魔獣の腕から胴までを、真っ二つに両断していた。
「今夜の晩御飯は確保出来たね」
そう呟き、すぐに魔獣の肉を解体し、下処理を始める。
「うーん……これは食べれない、こっちは食べれそう、臓器は……分からないな。未知が過ぎるけど、まあ、胃袋以外は食べられるかな」
肉の硬さや色味、臭いなどを吟味しながら、食用にする肉を手早く血抜きして、懐から取り出した袋に詰めていく。
「……あぁ、こんなものかな」
一通りの解体を終え、人の頭ひとつ分くらいの大きさになった麻袋を背負う。
「……さて、火を起こせる木材と、寝床を探さないとな」
そして、進みだす。
ひょこり、ひょこりと、小さく跳ねるように歩く。
それは、鼻歌でも歌っているような、気楽さを醸し出していた。
「今日は夢に招待してくれるかな?」
まるで遠足を待ち焦がれる子供の帰り道のように、軽くスキップをする。
本人のそんな暢気さとは裏腹に、彼の進みゆく周囲の生物は、獣から蟲に至るまで、まるで存在を感じなくなるでに、息を殺していた。
異世界でも平々凡々なら無理ゲーに変わりはない しぐま ちぢみ @chizimi_B
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