閉ざされの部屋

鷹山 涼

第1話

 しばらく疎遠になっていた友人から電話があり、遊びに来ないかというので彼の部屋を訪ねることにした。唐突な話だったから何か重要な用事でもあるのかと思ったがそうではなく、ただ久しぶりに会って話をしたくなっただけということだったから、どういう風の吹き回しなのか分からずに困惑したのは確かだった。

 五年ぶりに会った友人は、以前と変わらない様子だった。彼の部屋は不思議なくらい物がなく、あまり生活感のないところだった、そこでいろいろと近況を話したり、ゲームをしたりして過ごしていたが、一段落ついたときにちょっと唐突な感じのタイミングでこれを読んでくれないかと言ってノートを差し出してきた。なんだろうと思いながら開くと小説のようなものが書かれていたので、違和感を覚えながらも読み始めた。


「本当にこの部屋でよろしいのですか?」

 不動産屋にそう言われた時には全く迷わなかったわけではないが、それでもこの部屋をあきらめる気にはならなかった。部屋の造りが気に入っていたのはもちろんのこと、家賃がどう考えても格安だったから逃すのはもったいないと思った。そして、店員の言葉からこれがいわくつきの部屋なのは間違いないと推測できたので、前々からそういうところに興味がある自分にとってはもってこいの物件に他ならなかった。

 この部屋にまつわる事情については、あえて聞かないでおくことにした。先入観があると何でもないことを大げさにとらえるかもしれないし、どうせおかしなことが起きるなんてあるはずがないのだから、余計な情報を知る必要はないと思ったのがその理由だった。だいたい幽霊なんていないというのが信条だから、自分にとってこの部屋は格安の物件でしかない。そんなおいしい話をみすみす逃すなんて、馬鹿げているとしか思えなかった。

 入居してからは当然のように何事もない、ごくありきたりな日々の積み重ねで過ぎていった。不動産屋に言われた言葉も次第に薄れてきて、ここが事故物件かもしれないと思うことはなくなっていた。幽霊が存在しないという信念は、すでに確信に近いものになっていた。

 だが、状況は思いがけない方に変化した。入居してひと月くらいは一切おかしな感じはなかったのだが、それを過ぎたあたりから妙なことが起こり始める。自分一人しかいない部屋なのに、何故だか誰かに見られているような気がしてならなくなった。外からの視線を感じているのかと思って窓を開けてみたが辺りには誰もいないし、近くに見える窓もすべて閉ざされていたので、その推測は的外れでしかなかった。

 それではこの妙な感じはいったい何なんだろう。気のせいというにはあまりにもはっきりとした感覚なので、これを思い込みとして片づける気にはならなかった。絶対に原因があるという確信はあるのだが、いくら考えてもその正体は分からないままだった。

 奇妙な感じは残ったままだが、それでも生活に著しい支障はなかったから、平凡な日常を演じ続けた。視線に気づかないよう心がけて、何でもないと自分に言い聞かせてごまかすことでやり過ごしていた。

 それから十日ほどが過ぎて、何となくではあるが不思議な視線の存在が薄れたような気がし始めたころ、ふとした瞬間に新たな異変が生じていることに気づいた。そろそろ寝ようと思ってテレビを消すと、何だか分からないが小さな物音が聞こえてきた。

 耳を澄まして物音の正体を確かめようとした。だが、その音がどこから聞こえてくるのか分からなかったし、消え入りそうなほどか細いものだから何の音なのかさえ不明だった。それでも確かに音はしていて、何故だか耳について離れないようなしつこさを感じた。

 こうも不思議なことが続くとさすがに幽霊の仕業かもしれないと考えてしまうが、まだ実物を見たというような確かな証拠があるわけではないし、これまでの自分の考えを否定することにもなるから、その存在を簡単に認めるわけにはいかなかった。

 その日以降は常にテレビやラジオをつけているようにして、できるだけ物音のある状況を作った。場当たり的な対応だとは思ったが、それでもあの音が気にならなくなったので多少の安心感は得られた。

 ごまかしながらではあるが、それ以降も何とか日常を保つことができた。時々視線を感じたり、妙な音を聞いたりすることはあったが、いつの間にかそれをごまかすスキルが身についていたので、ここに住み続けることにも一応のめどがついた。

 そんな奇妙な出来事との同居が当たり前になっていたある日、仕事から帰ってきてドアを開けるためにノブを握った瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 得体のしれない感覚に驚き、思わず握ったドアノブから手を放した。そして、このドアを開けることに迷ってその場でじっと銀色のノブを数十秒見つめていた。そこで逡巡することでようやくこんなところに突っ立っていても仕方がないと気づいたので、思い切って再びノブを握ってドアを開いた。

 玄関に足を踏み入れると、夏とは思えない異様な冷気で満たされているような感じがした。短い廊下の先には閉じられたドアがあり、その奥にある真っ暗な部屋から何か不気味な気配があふれ出してくるような気もした。そしてあの正体不明の奇妙な音が聞こえてきて、それはこれまでと違い人がぼそぼそとしゃべっている声のような感じがした。

 耳を澄ましても、その声が何を言っているのか分からなかった。それでも何故か不吉なささやきだという確信があって、しかも自分に向かって話しているとしか思えなかったから、気味が悪くて仕方がなかった。

 こんな状況だから、辺りを警戒しながら靴を脱いで部屋に入った。そして、廊下の明かりをつけてゆっくりとドアに向かった。

 ドアまでの短い廊下が、異様な雰囲気のせいでやたらと長く感じた。今にも何か得体のしれないものが現れるのではないかとびくびくしていて、自分がたてる足音でさえ何かの異変なのではないかと思えるほどだった。

 ドアの前に着くと、向こう側に何が待ち受けているか分からないという恐怖心のせいで思わず身震いした。気を落ち着けるために一度大きく深呼吸をして、それからおもむろにノブを握ってゆっくりと回す。何かおかしなことがあるかもしれないからすぐにはドアを開けずに息を潜めて注意深く中の様子を探ってみたが、とくに異変は感じなかった。

 覚悟を決めてドアを開けると、そこにはいつもと変わらない暗い部屋があるだけだった。廊下の明かりが背中越しに部屋を照らしていたのでそれを頼りに見える範囲を確かめてみたが、おかしなところは何もなかった。それに、いつのまにか人のささやきのような音が消えていることに気づいた。

 不可解なことがなくなると急に安堵感がこみ上げてきて、こわばった体の力が抜けた。安心したせいで少しの間そのまま暗がりの部屋の前でぼうっとしていたが、いつまでもここで突っ立っているわけにもいかないので気を取り直して照明のスイッチを押した。

 明かりに照らされた部屋は、本当にいつもと変わりなく見えた。おかしなところは何もない、適度な散らかり具合が心地よい住み慣れたいつもの自分の居場所だった。

 その様子を見て安心すると、これまで感じていたことが全部思い込みだったような気がした。怪現象なんて初めからなかったのにそれを自分の想像で作り出していただけで、所詮はすべてが自分の思い込みによる幻想にすぎなかったのではないかという考えが頭をよぎった。

『これからは、私とずっと一緒よ』

 突然背後から女の声が聞こえたので、口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。慌てて振り向いてみると、そこには当然のように誰もいなかった。だが声を聞いたのは間違いないし、あまりにもはっきりとしたものだったから、気のせいですませられるものではなかった。

 何が起こったのか、全く理解できずにいた。誰もいない場所から声がするなんてありえないから、驚きのあまりそのまま玄関を見つめることしかできなかった。

 いったいどれくらいの時間何もない玄関を見つめていたのか、自分でも分からなかった。何も考えられずにしばらくその場で立ち尽くしていたが、このままこうしていてもらちが明かないと気づいたので体の向きを戻した。そうしたあと目にした光景は、到底信じられるものではなかった。

 自分の一メートルほど前に、見たことのないショートカットの女が立っていた。さっき明かりをつけた時には間違いなく居なかったから、その姿を目にしたときは思わず息を呑んだ。うつむき加減にしている顔をはっきりと見ることはできないが、口元に薄い笑みを浮かべているような気がして、しかもその佇まいが心の底から嫌悪感を引きずり出すオーラをまとっているように感じたから、ぞっとせずにはいられなかった。服装は季節相応のごく普通のものだが、半袖から出ている腕が生きている人間のものには見えないほど青白いので、この世のものとは思えなかった。

 冷たい汗が背中を流れ落ちるのをはっきりと感じた。今すぐにでもこの部屋から出て行きたいという衝動に駆られたが、体が金縛りにあったかのように硬直して動けなかったからどうすることもできなかった。視線さえ自由にならない状態なので、じっとその女を見つめ続けるしかなかった。あまりにも気味が悪いので一刻も早く目をそらしたかったが、体が自分の思いどおりになることはなかった。

 恐怖が全身を駆け巡り、それがすべての感情になった。体の自由がきかない中でも唯一まぶたは動かせたので、固く閉じてひたすら目の前のおぞましいものが消えてなくなることを願うしかなかった。

 すべてが凍りついたような、重苦しい時が過ぎて行く。何が起こるか分からないという恐怖心に追い詰められていたから、固く目を閉じてじっとやり過ごすしかなかった。

 どれだけの時間が過ぎたか分からないが、多分そんなに長い時間ではなかったと思う。急に体から余分な力が抜けて自由になったような感覚があったので、おもむろに手を握ってみた。すると、なんの抵抗もなく動かすことができた。

 恐る恐る目を開いてみるとそこにはいつもの部屋があるだけで、あの異様な女の姿はどこにもなかった。

『もうどこにも行けないのよ』

 突然耳元からささやき声が聞こえたので、思わず短い叫び声を上げた。背後からは不気味な気配が漂ってきて、それがさっきよりも確実に近くにあったから、全身に鳥肌が立った。そこには確実にあの女がいるので、恐怖のあまり振り返ることすらできなかった。

『私からは離れられないのよ』

 諭すように語りかけてくる、不気味な女。甘い響きさえある言葉がむしろ余計に気味の悪さを際立たせたので、恐怖心はなおさら強まった。

 さすがにもう精神的に限界だったから、どうにかしてこの部屋から出て行きたいと思った。だが後ろにあの気味の悪い女がいるので、どうすればここから逃げ出せるのか分からなかった。

『もうずっと私と一緒なんだから、そんなことを考えても無駄よ』

 不気味な女が自分の考えを読んだように話したので、驚きのあまり思わず振り返ってしまった。

 そこにいる女は、さっきまでうつむいていた顔を上げて寒気が走るような気味の悪い笑みを浮かべていた。その顔には瞳がやたらと大きく見える異様な真っ黒い目があって、それはすべてを吸い込む底がないが穴のように見えた。その目と視線が合うと抵抗できない不可解な力のようなものを感じたから、女の言ったことが本当なのだと強く思った。



 そこまで読んだとき、唐突に玄関の方からガチャリという音が聞こえてきた。何かと思い顔を上げると、友人が慌ただしく部屋を出ようとしてドアを開けている姿があった。

「おい、どこに行くんだ?」

「……」

 背を向けた友人は無言のまま振り返りもせず、すぐに部屋を出て行った。この場に一人とり残される形になるとは思いもしなかったので、唐突なこの事態をすぐには飲み込めずにいて、混乱のあまり途方に暮れるしかなかった。

『今度はあなたが一緒にいてくれるのね』

 背後から何の前触れもなく女の声が聞こえたので、驚きのあまりその場に座ったまま飛び上がりそうになった。

 何かの間違いなんじゃないか。ただの空耳に違いない。あんな内容の話を読んでいたから、外から聞こえてきた声に驚いただけだ。そう考えた矢先……。

『信じられないのなら、確かめてみればいいのよ』

 再び声が聞こえてきて、それが自分の心の内を突くものだったから、もはや疑う余地はなかった。しかも考えを読まれたというあり得ない事実に気がついたので、体がガタガタと震え始めて止まらなくなった。

 早くここから出て行かないと。得体のしれないものがいる部屋になんて長居したくない。そう思って一目散に玄関を目指す。

 だが、体はその意思に従うことなくその場に留まったままで、全く動くことすらできなかった。

『ここから出て行くのは無理なのよ』

 そんな声が聞こえたあと、目の前の何もなかったところにすっと音もなく誰かが現れた。その様子は突然湧いて出てきたとしか言い表しようがなく、どう考えても人間の仕業とは思えなかった。

 何の前兆もなく現れて目の前に立っている正体不明の人物。身動きできずに座ったままの自分からは足元しか見えなかったが、すらりとした細身でしかもむき出しの肌が異様なまでに青白かったから、どうしてもノートの中のショートカットの女を思い起こさせた。

 まさかあのノートに書かれていたことが本当だったなんて。そんな現実離れしたことを俄かには信じられなかった。事実を確かめるためには顔を上げるしかなかったが、見たくはないものがそこにいるのは間違いないから、できることならそうするのは避けたかった。

『それでも確かめるしかないのよ』

 その言葉を聞いたあと首からすっと力が抜けた。このまま下を向いていてもどうしようもないのは分かっていたから、覚悟を決めて恐る恐る顔を上げる。

 目の前には予想と違わず、悪夢としか思えない現実があった。そこにあるのは、異様な真っ黒い目をこっちに向けて薄笑いを浮かべている顔だった。実物を見たことがないにもかかわらず、それだけで間違いなくあのショートカットの女だと確信するのに十分だった。

 その顔にある黒い目は、じっと自分を見据えていた。その目と視線が合うと、急に絶望感に襲われた。これは自分があのノートの主人公と同じ立場に立たされた証で、出口があるのか分からない閉ざされの部屋にとり残されたことを思い知らされた瞬間だった。

 じっと不気味な笑みをたたえて佇んでいる得体のしれない女は全く動く気配がなかったので、まるで無害な置物のようだった。特に自分に危害を加えるような素振りはなかったから、何を目的としてそこにいるのか分からなかった。それでも不気味さが寸分でも減るわけではなかったから、ここから立ち去りたいという思いは強くなる一方だった。

 お互いがそのままの姿勢で動かずに数分の時が過ぎた。いつまでこのままの状態が続くのか分からず、不気味な存在を前にした緊張から極度の疲労を感じ始めたころ、不意に女の体が透き通っていくようにしてすっと消え去った。

 不気味な女が消えたので、急いで玄関に向かった。そして、慌ててドアノブを回してみたが、ぴくりとも動かなかった。

 一人誰もいなくなった部屋に取り残されると、これからどうすればいいのかという問題で頭がいっぱいになったが、状況を打開できるような答えは何ひとつ浮かばなかった。あのノートに書かれていたことが本当なのだとしたら、自分に残された選択肢は何もないような気がしたし、この部屋から出られないかもしれないと思うとただひたすらここに来たことを後悔するしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

閉ざされの部屋 鷹山 涼 @RTS6809

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ