そこでは何時も何も思い出せなかった
@quurin
そこでは何時も何も思い出せなかった
そこでは何時も何も思い出せなかった。
目覚めると私は暗闇の中に居る。
ずいぶんとヒンヤリした空気だ。
風がない、ここは室内なのだろうか。
静かだ、すべての生きものが眠りに就いたかのようだ。
なんだろう。暗闇の中になんだか白っぽいものが浮かんでいる。
ひとつ、ふたつ、みっつ・・・、いや、ずいぶんな数だ。
なんだろう。整然と並んでいる。
墓石か?
いや、ベッドだ。
ここは何処だ。
私は自分の胸元を見て、さらに下を見た。私の身は腰まで白いシーツに包まれ、ベッドの上で身を起こしていた。すぐ近くに微かな生きものの気配を感じる。なんだ。
私はその気配に意識を集中した。それの気配は私の右にある。私はゆっくりと首をまわしながら右隣りを見た。そこに居たのは白髪の老人だった。
彼は堅い石のベッドの上に白い布を肩まで掛け、仰向けで眠っている。横から見た老人の顔は鼻が高く、その高い鼻はスッと天に向かって滑らかに延びていた。耳から顎にかけて白い髭が品良くたくわえられ、顎下の髭は10cmほどあった。誰だろう。
石のベッドの高さは床から1mほどある、幅は80cmほどで、やや狭い。私は自分のベッドを見た。私のベッドも老人と同じ石のベッドだった。私と老人とのベッドの距離は、1.5mほど。
私は老人から目を離し、もう一度目の前の闇の空間を眺めた。同じような石のベッドは私の前後左右に等間隔で並んでいる。目が暗闇になれてくるにつれ、そのベッドは果てしなく遠くまで整然と並んでいるのが見えてきた。それらすべてのベッドに人が眠っている。前にも見たことのある光景だ。デジャウ゛だろうか。
私は白髪の老人と反対側の左隣りのベッドを見た。そこには美しい青年が眠っている。その青年に掛けられた白い布は腰まで押し下げられ、足の先は白い布から突き出されていた。それが何か釈然としない感じを受けた。
暗闇の中に白くぼーっと浮かび上がるように横たわる青年の姿を見ていた。それから私はようやく思い出した。以前にも私はこの闇の中で目覚めたことがある。そのとき青年の白い布は彼の肩まで掛かっていて、足の先も布で覆われていた。彼は誰だろう。ここは何処だろう。
私はやっと思い出した。そうだ、私はこの闇の中で、何回も目覚めている。そこでは何故か、何時も何も思い出せないのだ。私は、何故ここに居るのだろうか、私は誰なのか。
突然闇の静けさを破って笑い声がした。子どもの声だ。声は前の方から聴こえたように思えた。しばらくの間目を凝らして前方を見ていた。やがて遠くの方にぼんやりした白い玉のような光が浮かんできた。
「きゃはは・・・」また子どもの笑う声がした。
「きゃはは・・・」
「きゃはは・・・」
どうやら数人の子どもが居るようだ。それにしても可愛らしい声だ。無垢な笑い声だ。
私は、慎重に彼らに声を掛けてみた。
「君たち、そこで何しているの?」子どもたちの笑い声が止まった。私は不安になった。彼らを怖がらせてしまったのだろうか、じっと様子をうかがった。しばらくして、可愛らしい声で応えが返ってきた。
「おじさんは誰?」
「なんて言うお名前?」私は、その質問に狼狽していた。名前?私は誰だ。頭の中を探ったが、頭の中に名前は見つからなかった。
「実は、自分が誰なのか分からないんだ。」子どもたちがいっせいにざわめいた。
「自分の名前をなくすなんて、どういうこと?」
「名前は、何時も自分の中の真ん中にあるものだよ。」
「名前は、誰もなくしたりしないものだよ。」
私はかなり困惑した。名前をなくすなんて、私はとんでもない失態をしてしまったのだろうか。私は沈黙していた。その間、子どもたちの声もしなかった。やがて、子どもたちが居た辺りで光っていた白い玉のような光も消え、また、静かな闇が戻った。
しばらくして右隣りの老人が突然起き上がった。眠りから目覚めた老人は白い布をゆっくりと払い、堅い石のベッドから慎重に降り立った。
「どうなされました?」私は老人にそっと尋ねた。老人は私の質問にゆっくり振り向きながら応えた。
「ようやくやるべきことを思い出したもので。」彼は、幸福そうな穏やかな笑みを浮かべると、「では、失敬。」と言って、風のように軽やかに、音もたてずに立ち去った。
老人の残り香だろうか、ほのかに恥じらうような甘い香りが漂った。匂いのもとをたどり、老人の立ち去ったベッドを見た。ベッドの上には、ふっくらと、今まさに弾けんばかりに膨らんだ薔薇のつぼみが一輪、見事な真紅色で横たわっていた。
私は思った。名前をなくした私には、どうやらまだ目覚めの時は訪れていないのだろう。私は白い布を肩まで掛け直し、再び静かな眠りに就いた。
そこでは何時も何も思い出せなかった @quurin
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