甘いチョコドーナツを齧る彼女と

新巻へもん

完徹後の逢引

 『複数の脅威を検知したです。ただちに完璧な駆除を提供するソフトウェアをダウンロードする』


 篤のスマートフォンには、画面の半分を占める勢いでポップアップウィンドウが表示されていた。ウィンドウにはでかいDownloadのボタンしかない。待ち時間の間ネットサーフィンで暇つぶしをしていたら、どうやら不具合が発生したらしい。ちぇっと舌打ちをして篤がタップしようとしたときに、すっと影がさした。

「篤、待たせてゴメンね」


 顔を上げると彩乃が立っていた。メガネの奥の目の下に隈ができ、ひっつめた髪はぼさぼさでとても見られた格好じゃない。それでも目はキラキラと輝き、篤と会えた歓びを伝えていた。篤はスマートフォンを置いて、慌てて立ち上がると彩乃にソファ席を譲る。彩乃はありがと、と言いながらドサリと席に座り込んだ。篤は手で座っているように示してそのまま注文口に向かう。


 色とりどりのものが綺麗に展示されているショーケースを横目にカウンターで注文を告げた。代金を払い、品物を受け取って席に戻ると、さして広くないテーブルにラップトップを広げて彩乃はもの凄いスピードでキーボードをタッチしている。篤が戻ってくるとタンとエンターキーを叩いて満足そうにスクリーンを閉じてケーブルを抜き鞄にPCをしまった。


 残されたのは篤のスマートフォン。ホーム画面が表示されている。色々と聞きたかったが、まずはガルガルしている彩乃の方へトレイを押しやった。早速、彩乃は皿の上から1つ目のチョコドーナツをつまみ上げるとかぶりつく。フォンダンショコラの名の通り、ドーナツの中からトロトロのチョコレートソースがあふれ出し彩乃の唇を汚した。


 瞬く間に1つ目を食べ終わった彩乃は唇の汚れもそのままに2つ目に手を付ける。パクパクと食べるとコクンと飲み込み、喉が上下に動く。そして、ほおう、というため息を漏らした。篤の鼻先をチョコレートの甘ったるい香りが包む。彩乃はホッとーコーヒーに口をつけるとゆっくりと3つ目に手を伸ばした。


 彩乃の豪快な食べっぷりを眺めていた篤はそろそろいいだろうと視線を自分のスマートフォンの方に向ける。3つ目は味わうように端にかじりついた彩乃は篤の視線に気が付いたが話題をそらした。


「チョコドーナツはドーナツだと思う? それともドーナツじゃないと思う? それとドーナツって穴が開いてるからドーナツだよね。穴が無くなったらドーナツじゃなくなるのかな?」

「適当な話をして誤魔化すな」

 彩乃は舌を出す。普段は綺麗なピンク色の舌も茶色になっていた。


「ゴメンね。本当は人のスマフォを覗くって良くないってことは分かってるんだけど。どうしても職業病でさ」

「どういうこと?」

「変なアプリをダウンロードするところだったから。一応、恋人としては事前に抑止しようと思ったわけ」

「変なアプリ?」

「そーそー。実際には何も役に立たずにメモリを食うだけのインチキアンチウィルスソフトのダウンロード画面が出てたでしょ?」


 篤はとっくになくなったアイスコーヒーの溶け残りの水を飲んでから続きを促す。

 

「さっきの画面覚えてる? なんかウィルス検知したみたいな画面が出てたでしょ。あれ嘘だから。まあ、嘘じゃないか」

「どういうこと?」

「えーとね。あの画面自体は役立たずのアプリを売りつけるためのものでしかないの。アドウェアってやつね。あのままボタンを押して先に進んだら、お買い上げってわけ。ちょっと見ただけだけど被害はそれぐらいの比較的性質がいいやつかな」

「はあ」

「これは大丈夫だったけど、重要なデータはバックアップ取っておかないと後で泣いても手遅れだからね。データはローカルだけじゃなくてクラウドにも保管するのを癖にしておいた方がいいかも」


 彩乃はエンジニアだった。本人いわく、なかなか私レベルのセキュリティエンジニアは日本にはいなんだよ、とのことである。それが本当なのかどうかは篤には分からないが、事件が起こると時間に関わらず臨場して数日帰らないことがあるのは事実だった。


「ついでに中を覗いて、ヤバそうなのがあったから削除しといたよ。トロイの木馬。まだ活動開始してなかったみたいだから良かったね。それと、は悪いけど消させてもらいました」

「それはさすがにどうかと……」


 抗議の声をあげる篤に彩乃は手のひらを向ける。指先がチョコレートソースで汚れていた。篤は彩乃の左腕に深いひっかき傷があることにも気づく。どこでこんな怪我をしたんだろうと訝る篤に彩乃は言った。

「あの写真が出まわったら困るもん。会社にばら撒かれたくなかったら言うことを聞けとか脅されたらどうすんの?」


 その実、それほどすごい物が写っているわけでは無い。事後のちょっと上気した顔と鎖骨のライン、その先の膨らみの一部がギリギリかかるかどうかだ。目の前の憔悴した人物と同一人物か疑わしいほどに可愛く撮れた1枚だったのだが……。彩乃は4つ目のドーナツに取り掛かり始めている。もう、その話は終わり。今後の交渉は拒否します。明確な態度だった。あの時もそうだったなと篤は苦笑する。


 ***


 篤が彩乃と出会ったのは、1年ほど前のことだった。篤が駅の階段を数段上ったところですぐ前にいたバカでかいバッグを肩から掛けた女性がよろけたと思うと上から降ってきたのだった。その女性を抱える形で篤は階段下に転落し、強かに腰を打ち付けたのだった。


 しばらく篤は呼吸もできなかったが、ようやく立ち上がると、同じように起き上がってきた女性がぴょこんと頭を下げて謝った。

「ごめんなさい」

 それが彩乃だった。


 駅員やら警備員がやって来て騒ぎとなったが、単なる事故で原因もはっきりしていると分かると去って行く。その中で一人の男性が声をかけてきた。

「私は整体師をやっています。すぐそこにクリニックがあってすぐに診察できるのですがどうでしょう?」


 痛む腰をさすりながら篤が思案を巡らせていると、横合いから声がかかる。

「折角ですけど、結構です。これは私の責任です。こちらの方の面倒は私が見ますから」

 小柄でどちらかといえば疲れた外見の彩乃だったがはっきりとした口調だった。


「私は小田桐といいます。腰の治療に関してはできる限りのことをしますから、任せてもらえますか?」

 彩乃が篤に問いかける。

「だから、私が治療しようと……」

 言いかけた男性に彩乃が手のひらを向けて制止する。


「先ほどもいいましたが結構です。私が最高の治療を提供します」

 整体師を名乗る男性はちょっと気を悪くしたようだった。

「君はこの男性が治療できるというのかね?」

「いいえ。私は医師ではありませんから。でも、病院を紹介することはできます」


 彩乃は有名な病院の名を告げた。政治家や著名人が入院していると良く報道される病院である。彩乃はスマートフォンを取り出してどこかへ電話をかけた。

「あ。理事長。お忙しいところ申し訳ありません。先日のお約束、甘えてもいいですか? 腰を強打しまして……。いえ、私ではありませんが。はい。30分以内にはお伺いします」


 彩乃は礼をすると篤を気遣うようにしながら、一方で毅然として歩み始める。改札を出るとタクシーを捕まえて、先ほどの病院名を告げた。

「勝手なことをして恐縮ですが、治療行為は医師にお任せした方がいいと思います」


 こうして、篤はその病院で当該診療科の医長の診断と治療を受けて、後遺症なく過ごせている。結果的に彩乃の判断は間違っていなかったはずだった。なぜ、そんな大病院に影響力を行使できたかについては、彩乃は職業上の秘密とだけ言った。入院中も彩乃は足しげく通い、退院後にお付き合いをはじめて1年になる。


 ***


 回想から現実に戻ると篤は彩乃に言った。

「まあ、個人の好みだろうけど、そんなに甘い物を5つもよく食べれるよな」

 彩乃は冷めてしまったコーヒーをすすりながら、指を立てる。

「これはこれで理に適ってるの。まず、大脳は糖質しかエネルギーとして利用できないから。3日間不眠不休でフォレンジックしてきたんだから、まずは頭に栄養をあげないとね」


 彩乃は2本目の指を立てる。

「そして、体は休養を欲しているんだけど、まだ寝ちゃうわけにはいかないじゃない? チョコレートには覚醒作用があるから、それにぴったりでしょ」

「無理にこうやって会わなくても……」


「私が篤に会いたいの。荒んだ心身をリフレッシュするには色々と必要なんだから。それじゃあ、行こうか?」

 立ち上がろうとする彩乃を制止して、篤は紙ナプキンで唇をぬぐってやる。

「あ、ついたまんまだった?」


 篤にエスコートされながら彩乃は聞く。

「私はそこそこお腹は膨れたけど、篤はまだだよね。どうする?」

「彩乃のお望みのままに」

 篤は店を出がけに軽く彩乃に口づけをする。唇は甘いチョコレートの味がした。


 

 

 

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