マディ・ウォーターと私

マディ・ウォーターと私

 夏だった。夜だというのにまだ暑い。今日は熱帯夜だという話だった。みな、クーラーをガンガンにかけて寝るのだろう。夜まで暑いというのはいかんともしがたい。

 私はそんな熱帯夜の街の中で一人佇んでいるのだった。夜10時を回ろうとしているところであり、さすがの都会もゆっくりと静かになっていっているところである。人通りはほぼないし、車通りもまばらだ。

 私が居るのは繁華街から少し離れた場所で、住宅街と街の中心部の境と言った感じのところだった。シャッターの降りた、もう潰れた喫茶店の軒下で私は何をすることもなく立っているのだ。端から見れば大分妙な人間だ。こんな時間にこんなところに年若い少女が立っているのだから。

 しかし、私はここに立っていなくてはならないのだ。私は待っているのだから。私はこの夜が来るのを待っていたのだから。

 夏の夜空には雲ひとつ無く、そしてそこに月も無かった。今日は新月だ。街は明かりに溢れているから分からないが街を照らしているのは街の明かりだけだ。今日の夜は月がある日よりも若干闇が深いのである。まぁ、明るい現代では若干でしかないのだが。

 だから、いくつかの夜を住みかにする存在は今日は実に調子が良いのだ。そうなのだ。

 そして、私が待っているのはそういうものどもだった。

「酢豚の匂いがする。どこかから酢豚の匂いがする」

「ああ、遅かったですね」

 私はわずかに微笑んでやってきたものを迎えた。ようやくだ。予定よりも20分も遅れている。

「でも、酢豚の匂いなんてしませんよ。どっちかというとあっちの通りのカレー屋の匂いがするんじゃないですかね」

「そうかな。酢豚の匂いだと思う。間違いなく酢豚」

「そうですかねぇ。しないと思うんですけど」

 私の言葉にもそのものは「酢豚だ、酢豚だ」と繰り返していた。正直まったく酢豚の匂いなんてしない。勘違いとしか思えない。しかし、ひょっとして彼はその匂いを感じ取れるのかもしれなかった。人間でない彼なら。

 彼の姿は水溜まりだった。彼は私の足元にある真っ黒な水溜まりだったのだ。つまり、私は水溜まりをこうして20分待ち、そして今水溜まりと話しているのだった。異様すぎる光景だ。

 彼は妖怪である。名前は知らない。いつ知り合ったのかも良く覚えていない。彼いわくそれが彼の性質らしく、関わった人間は彼との関係の認識が曖昧になるらしい。なので、生まれた時から知り合いだったのかもしれない。もしくは、こうやって会うようになった3年前ちょうどからの知り合いなのかもしれない。私にも分からない。そして、その性質は彼本人にも及ぶらしく、彼にも分からないのだった。

「今日の晩飯はなに食べた」

「唐揚げです。母さんが山のように作ってくれたのでたんまり食べました」

「唐揚げか。じゃあ、お前さんじゃないね」

「ええ、違います。とにかく、行きましょうか」

「うーん。唐揚げ、唐揚げか。違うな」

 彼はぶつぶつ言っていたが私の言葉は聞こえているらしくするり、と動き始めた。

 これが、私の友達だった。こうやって、新月の彼の存在が確かなものになった日にこうして会う友達だった。

 彼とこうして出歩くようになったのは先に言ったように3年前からだ。私は当時中学生で、諸事情あって学校に行っていなかった。不登校児である。毎日毎日不毛に、ただただ無意味に過ぎていく中、暇潰しにぶらついた夜の街で出会ったのが彼だった。

 彼は妖怪だ。ただし、あまり強い妖怪でなく、いや言ってしまえば非常に弱い妖怪で新月の日以外はまず存在自体が曖昧らしい。存在しているともしていないとも言える状態らしいのだ。こうして形を持ち、人格を保って話が出来るのは今日のような日だけらしい。

 名前は無いらしく、私も特に必要に感じなかったので呼ぶときは「あなた」とかでこなしている。

 初めて会った(と私が認識している)時はずいぶん驚いたものだが3年も経つと慣れてしまった。妖怪とこうして街を歩いているなんていうのは正直かなり珍妙な話なのだが今や月一の日課となってしまっている。集合時間はいつも9時半で、いつもこの妖怪は遅れてくるのだった。

「今日はどうだったかな」

「今日は新しいのがありますよ」

 私たちはそんな風な会話をしながら歩いていく。目的地は決まっている。この妖怪と行くのはいつもそこだ。妖怪は新月の夜、力の満ちる一晩、必ずある場所に行くのだ。

 彼がそこに行けるようになったのは3年前だ。つまり、私が付き添うようになってからである。3年前、初めてそこに行った日、行きたくても行けなかったのだと彼は悔しそうに語ったのだ。確かにこんな黒い水溜まりが入っていける人間の施設なんて工場や廃墟ぐらいなものだろう。

 私は横目に彼を見る。真っ黒い水溜まりの彼。一体なんなのか分からない彼。初めて会ったときおいしいたこ焼きやの場所を教えてくれた彼。なんだかんだと毎月会って、3年が経ってしまった彼。

 私は気づけば高校生だ。いや、フリースクールだから世間一般で言う高校生像とは違うのだがやっぱり高校生だ。だから、どうしたといった感じだが。

 特別何をしてもらったわけではなかったが、どうも私は彼にそれなりに世話になっているような気がしているのだった。

 まぁ、だからなにをするでも無いのだけれど。

「新しいのは良いね。新しいのは。3ヶ月待ってたから」

「あなたの時間なら3日でしょう」

「意識は曖昧でも時間感覚はあるからね。ちゃんと3ヶ月分待ってる」

「へぇ、それは初めて聞きました」

「初めて言ったからね。へへ」

 彼は陰気な調子で笑った。彼は常に陰気だ。妖怪なのだから当たり前かもしれないが。

 こんな感じで彼とはいつもする必要の感じられない、どうでも良い会話ばかりを行っている。妖怪っぽいことも言わないし、妖怪っぽいこともしないのが彼だ。

「ん、見えてきたね」

「ああ、見えてきましたね」

 そうしてそうして目的地に私たちはたどり着いた。歩いて7、8分だ。出発地からすぐそこである。

「今日も明るいね」

「お店なんてこんなものだと思いますが」

 そこはとある同人ショップだった。かわいいやら、かっこいいやらのアニメキャラの絵が並んでいる。なにか薄い本が棚にずらりと並び、端正な作りのキーホルダーやらなになやらも並んでいた。

 はっきり言うと、彼はオタクなのだ。オタクの妖怪なのである。

 私はこうして、月一で同人ショップに彼と来ているのだ。

 正直私はこういったものは良く分からない。アニメもあんまり見ないのだ。なので、私は本当に付き添っているだけである。

「今日も頼むよ」

「はい」

 私はそう言うと腰のドリンクホルダーから500mlのペットボトルを取り出した。それを、彼に近づける。すると、彼はぬるりとペットボトルの中に入る。こうやって彼を持ち運ぶのである。いつもの手だ。

 そうして、私は彼の入ったペットボトルを小脇に抱えて入店したのだ。

「そっちそっち、そっちの右の棚」

 彼は腰から言う。外でと声量は変わらない。いわく、彼の声は普通の人間には聞こえないそうだ。なら、私はなんなのだと問うたことがあったが詳しくは彼にも謎らしい。

 私は言われた通りに近づく。

 そこには今流行っているらしいアニメのコーナーが作られていた。主人公らしき少年が剣を構え、その側でやたら露出度の高い服の艶かしい体の少女が杖を構えていた。これが彼が3ヶ月待っていたそれだった。

「おほほ、一杯ある。やはり今期はこれな」

 そして、彼の指示通り私はグッズやら同人誌やらを手に取り、腰の彼に見せるのだ。そのたびに彼は「おほほ」とあまり気分の良いとは言えない笑いをこぼしている。正直閉口なのだが、3年も経つともはや慣れたものだ。

「良いのありましたか?」

「ふむ、その缶バッチと2冊目と5冊目の本を頼む、ぬほほ」

 彼は嬉々として指示を飛ばした。私は言われた通りの品を手に取る。缶バッチは5つセットで色んなキャラが書いてあった。本に関してはまったく分からない。いわゆるR18の本では無いのだがなんの本と言われたら良く分からない。今まで彼が選んできたのもそういった本だ。彼いわく、同人誌は素人には良く分からないという話らしかった。なので私も深く詮索するつもりは無かった。彼には申し訳無いが興味もあまり無いのだ。

 そんな感じで私たちはぶらぶらと深夜の同人ショップをウロウロする。主に彼が飛ばす指示の通りにうろうろする。そんな感じで20分ほど経った。そこで、彼がまた指示を飛ばす。

「そっちそっち、そこにあるじゃろ」

「はい。ああ、これ」

 私は棚の商品を手にとってまじまじ見る。私が好きな数少ないアニメの同人誌だった。彼の影響で興味が無いながらも少ないながらもアニメを見る量は増えたのだ。そこで私が好きになったのがこのアニメだった。現代を舞台に陰陽師が戦うファンタジーものだ。彼はわざわざこのアニメの同人誌を見つけてくれたらしい。なかなか嬉しかった。私は手にとってペラペラめくる。どうやら内容はギャグのようだ。

「買う? 買う?」

「うーん、今度気が向いたら買います」

 そう言って私は同人誌を棚に戻した。

「うーん、いけずぅ...」

 残念がる彼を尻目に私はレジに向かう。今回はこんなところだ。本が4冊にキーホルダー等が3つ。これが今日の彼の戦利品である。いつもこんな感じだ。

「ほくほくだよ、ほくほく」

 私はレジでお金を渡し会計を済ませた。そして、店を出る。用事は終わったわけだった。店の前に行き、そして彼をペットボトルから出してあげた。

 そして、戦利品たる品々を彼に見せる。袋から出してひとつずつだ。

「良き良き、ぬほほ」

 彼は言う。陰気な調子だが楽しそうだ。私は若干呆れるのだった。

 そして、私はその本やグッズをひとつずつ彼に渡した。渡すというのは彼に投げ込むのである。黒い水溜まりの水面に同人誌やキーホルダーを投げ込むのだ。そうすると、トプンと音を立ててそれらは沈んでいく。まるで底無し沼のように品々はしっかり沈んでそして、浮かんでくることはないのだ。これも彼の能力らしく、彼の中はさながら四次元ポケットのようになっているとかいう話らしかった。摩訶不思議だが、いつものことである。

「楽しかったですか?」

「楽しかった。満足。ぬひひ」

 彼はほくほくだった。顔があったら満足げに微笑んでいることだろう。

 こんな感じで私は月一彼と過ごしている。彼が何者なのか考えることは無くなった。考えるだけ無駄だからだ。

 そもそも、月一しか活動しない彼がなんでアニメの状況を詳しく知っているのかも謎である。なぜ月一しか来ない同人ショップの内装をきっちり把握しているのかも謎である。彼は謎だらけである。そして、彼に聞いても彼自身も良く分からないそうなのだ。

 それが私の奇妙な友人だった。

「君は楽しかった?」

 そして、彼は私に聞いてきた。

「ええ、楽しかったですよ」

 私は答える。実際、全然興味が無いはずなのになぜだか楽しいものなのである。私も私で変わっているのかもしれない。でなくては3年もこんなことは続かない。

 私の答えを聞くと彼は「良かった良かった」と言うのだった。

「学校はどう? 毎日楽しく過ごせてるの?」

 そして、彼はまた聞く。

「ええ、そこそこは。昔に比べると楽しくなってます」

「それはなにより、ぬふふ」

 彼は満足そうに笑った。

「そこそこっていうのが良いんだろうね。とってもだと逆にまずい場合もある」

「そんなものですか」

「それが青春というものだよ」

 含蓄深い言葉だった。彼はこうしてたまに気取ったことを言うのだ。

「青春とは感じるものではない、思い返すものなのだ」

「誰かの名言ですか?」

「今の俺の。ふふ」

「ちょっと気取りすぎですかね」

「決まらないね、どうも」

 どうにもかっこうを付けたがる妖怪なのだった。

 そして、私たちは歩き始める。帰宅だ。家に帰らなくてはならない。

「明日は休日だろう」

「ええ、一応土曜日ですからね」

「なにか予定あるの」

「友達と海に行きます」

「へぇえ、青春なんだなぁ。みなぎってるってわけだ」

 そういう風にどうでも良い世間話をする。彼とはいつもこんな感じだった。彼は奇妙で、得体が知れないが別に悪さをするといった感じではなかった。普通なのだ。なにも起きない。彼自身がキテレツである以外、彼との関係にこれといって変化は無いのだ。3年前からずっとこんな感じだ。月一でこうやってなんとなく集まって、なんとなく同人ショップに行って、なんとなく帰るのである。

 しかし、私はそれが好きだった。特別なのに特別でないこのなんでもない時間が好きだった。

 どこかで、理解してないところで私を支えているような気がするのだ。

 この奇妙な友人とのこの時間は。

「おや、もうこんなところか」

 そうして、私たちは最初の待ち合わせ場所まで戻ってきた。ここでお別れである。

「じゃあ、また」

「ああ、また次の新月の日に」

 彼は言って、私の元を離れていった。

 ただ、それだけだった。

 また新月の日に会うことになる。私の奇妙な友人。

 そして、私も帰路に着いた

 なんとなくいい気分で、鼻唄を歌いながら帰ったのだった。

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マディ・ウォーターと私 @kamome008

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