第168話 身近な馬鹿

「何してんの!」

 鋭く大きな声が飛んだ。

「何やってるのって聞いてんの! まさか本当に死ぬ気なの!」

 これ以上動かぬように、と、ユリがルーツの手首をギュッと握りしめているせいで。刃が身体に突き刺さる直前で、剃刀は止まっている。

 怒りと、不安と、そしてルーツが怪我をしなかったことへの安心と。

 全ての感情が入り混じった顔で見つめられ、ルーツは身体の力を抜くと、バツの悪さを覚えながらも口を開いた。

「違うよ、その逆さ。僕は刺されたぐらいじゃ死なないから、今後、僕がどこかで危ない目に遭ってても、そんなに心配してくれなくても大丈夫だって。今この場で、そう証明して見せようと思ったんだ」

 その言葉が終わるより前に、もうユリの表情は怒り一色に変わってしまっている。

「何でそんな事する必要があるのよ!」

 こうしないと、分かってくれないと思った。

 そう言ったら、ユリは今より怒るだろうか。

「アンタが、いっつもいっつもそんな突拍子もない行動に出るから、私は安心できないんでしょうが! 完全に逆効果よ!」

 涙をポロポロとこぼしながら張り上げるように言ってくるユリを見て、ルーツは自分が馬鹿なことをしようとしていたことに、ようやく気が付いた。

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 窮地に立たされた時こそ、衝動的に行動することは避けて、冷静に振舞うべきだと、内心では分かっているはずなのに。行き詰ってくると、突拍子もない行動で現状を打開しようと考えてしまうのは、もうどうにも治しようもないルーツの悪い癖だ。

 だけど、例え治しようがなかったとしても、説得に次ぐ説得で、ルーツはようやくこの位置まで漕ぎつけたのだから、今さら全てをふいにしてしまうようなことをしてはいけない。そう思い直し、ルーツは言った。

「そんな事言わずに、安心してよ。もし、今度またユリが意識を失っちゃう――暴走しちゃうようなことがあっても、絶対僕が止めるからさ」

「止めるって……出来ないくせに口ばっかり」

 ユリは話半分に聞いているようだったが、ルーツはそれでも出来ると断言する。

「私がアンタよりずっと強いってこと、ちゃんと分かって言ってるの?」

「それでも止めるから」

「自殺みたいな真似されたら、困るんだけど」

「ね、困るでしょ? だから良いんだよ」

 ルーツが言うと、ユリは疑心に満ちた顔になる。だが、最初から止める、と断言しておくことで変えられることもなかにはあると、ルーツはそう考えていた。

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「ユリが暴走した暁には、身近な馬鹿が止めに来て、そしておそらく呆気なく死ぬ。意識を手放した方が、人が亡くなる可能性が圧倒的に高いって、事前に何度もそう擦り込んでおけば、ユリも気軽には心の声なんかに耳を貸せなくなるんじゃないかな」

 その言葉にユリはしばし絶句して、それから迷って考えてやがて小さく口を開く。

「アンタって何でまたそう……本当に、とんでもない事ばかり考えるのね」

 ルーツが照れると、『褒めてないから』と、ユリは決まり文句のようにそう言って、再び考え込むような仕草を見せた。

「確かに、暴走したらアンタが絶対に死ぬって分かってたら、私もそうならないように振舞おうとすると思うけど……本当にそんなのが抑止力になるのかしら。……ってか、これだと結局は、全部私任せってことじゃない!」

「……確かに、そうかもしれないけどさ。自分の命を賭けようとしている人に向かって、人任せっていうのはないんじゃないかなあ」

 少し残念そうな口ぶりでルーツが言うと、その、なんとも言えない表情が可笑しかったのか、ユリが一瞬笑った気がした。

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「まあ、今までの僕の態度を考えれば、そう思うのも分からなくもないけれど、出来ればこれからの僕を見て、それからいろいろ判断してよ。信じられるかどうか決めるのは、そのあとからでも遅くないでしょ?」

 自分でも随分と勝手な言い草だと気づきながらも、ルーツは続ける。

「別に重要なのはこれまでじゃない。今からなんだから」

 すると、ユリは人差し指で頬を掻くようにしながら口を開いた。

「分かったわよ。これ以上、アンタに偉そうに言われるの、腹立つし、とりあえず村までは付いてってあげる」

 照れくささを押し隠すように、ルーツの顔を見ないようにしながらそう言ったユリに、ルーツの胸は高鳴っていく。一気に顔がほころんでいき、それまでの張り詰めていた空気から解放されたせいなのか、ついでに全身を包み込むような眠気もやってきた。

「でも、まだ協力するって決めたわけじゃないから。結局は、これから次第。何の策もないのに、大軍に特攻するなんて言い出したら、そこでお別れ。私は、アンタの自殺には付き合う気はないからね」

 ユリは釘を刺すように言ったが、ルーツの安心感はもう崩れない。

「見捨てられないよう、頑張るよ」

 そう言うと、ふわーっと大きな欠伸が出た。もう日付は回っているころなのに、ユリの目が未だに冴えているのは、先ほど仮眠をとっていたおかげなのだろうか。

 とりあえず、自分がぐっすり眠っている間に、ユリがどこかに行ってしまう。そんな危険が消え去ったことをようやく確信することが出来たルーツは、再び欠伸をすると目を擦った。

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「明日、またいっぱい話を聞かせてよ。その……シャルさんだっけ……その人の話。僕たちを助けてくれたんでしょ? 恩人だったらなおさら、一度挨拶……しとき……たいし…………」

 選考会の前の晩。ルーツは初めて徹夜まがいの真似をしたが、そういえばあの時もルーツはウトウトしてばっかりで、結局、一度眠ってしまった方が効率が良かった。どうやら、ルーツの身体は長く起きているのには向いていないらしい。

「床で寝ると、風邪ひいちゃいそうだから、半分使ってもいい?」

 そう言うや否や、ルーツはユリの同意も取らないままに、白いモコモコにばたんと倒れ込んだ。背中越しにユリを感じて、なんだか少し安心する。

 目を閉じると、すぐに意識が遠くなり――、一度深く落ちると、それからはもう朝まで目覚めることは無かった。








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