第167話 もう一人のユリ
ルーツは合いの手も茶々も一切入れずに、ユリの話を聞いた。途中で時系列はぐちゃぐちゃになり、会話の流れは不意に脱線したかと思うと、唐突に元に戻った。
自虐、自己嫌悪、そして恨みや、理不尽な嫉妬。登場する感情の多くには、負のベクトルが掛かっており、聞き手の心も暗くした。
「自分自身が怖いのよ。身近な人が死にそうになったら狂ってしまう。殺したくなくても、殺してしまうの。しかも無差別に。……アンタだって、私がまた暴走しちゃったら、たまたま近くにいただけで、殺されちゃうかもしれないのよ?」
そして、その言葉を最後に、場には長い沈黙が訪れる。
ユリがゆっくり、ぽつりぽつりと話していたせいか、反応を待たれているのだ。と、そう気づくまで、ルーツは随分時間を要した。
「……暴走かあ。じゃあ、ユリはあくまでも、自分の中に潜む他の誰かじゃなくて、自分自身の弾けた感情が兵士や城の人々を殺したんだって考えてるんだ」
自分の過去を語っていく中で、ユリはなぜか頑なに『人格』という単語を使いたがらず、兵士を殺してしまった時の自分の状態を、『理性を失っていた私』、『怒りで我を忘れてしまっていた私』というふうにわざわざ長い言葉で言い表していた。
が、単に怒りに感情を支配されただけで、価値観や、ものの考え方が、こうまで変わってしまうとは思えない。
ユリの心の中には『もう一人のユリ』とでも呼ぶべき存在が隠れ住んでいて、身近な誰かが危険に晒された時だけ、入れ替わるようにして顔を出すのではないか。というのが、ルーツがユリの話を聞いた上で思ったことだった。
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「あの殺人は全て、他の人格によるものだった。こう考えると、僕としては色々納得がいくんだけど」
正体不明の存在が、ユリの意識を乗っ取って。本人も知らない間に兵士たちを殺していたとするならば、今、目の前にいるユリが、人殺しの烙印を背負うことはないのでは? そう考え、ルーツは言った。――が、
「現実は理不尽、って言ったのはアンタでしょ? 私たちは、辻褄合わせをするために話し合ってるわけじゃないのよ?」
ユリは、例えそうだとしても、責任は私にあると断言する。
「それに――、もし、アンタの言う通り、私の中に異なる人格が潜んでいるんだとしても、その存在を予見して、事前に何かしらの対策を取ることは出来たはずなの」
どういうことかと、首を傾げるルーツに対し、ユリはポツリとまた続けた。
「初めてなら――、あの路地で生まれて初めて誰かに身体を乗っ取られるような体験をしたんだとしたら、突然のことに抵抗できず、されるがままになってしまっても、まあ仕方なかったのかもしれないけど。選考会の時と、アンタを記憶の部屋から連れ出す時。私は路地で兵士を殺す以前にも、既に二回も、意識が抜け落ちる経験をしていたの。でも二回とも、我に返った時には、目の前に迫っていたはずの問題がすっかり解決していたから――、馬鹿だよね。私は不安を直視したくないばっかりに、きっと何か目に見えない存在が困った私を助けてくれているんだろうって、あるはずもないことを考えてたの。あの時までずっと。
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リカルドの呪文が誰かに消し飛ばされていたことや、記憶の部屋から出てきた時、役人たちが私を見て、腰を抜かすようにして逃げていったこと。ちゃんと考えていればそれだけでも、もしや私は意識を失っている間に、何かとんでもなく恐ろしい事をしでかしているのかもしれないぞって、予測は立てれたはずなのに。
馬鹿だったから、私はただただ期待していたの。アンタの身体から見たことも無いほど大量の血がドバドバ出てきて、もうどうしていいか分かんなくなっちゃった時も。自分の力ではなく、頭の中から聞こえてきた知らない声の方に。
怖いって思う一方で、ああ、これで助かったって。また、いつものように自分のすべてを預けてしまえば、意識が戻った時には何もかも解決しているんじゃないかって、私はこっそり期待していたの。そのあと、今まで楽をしてきた報いを受けるなんて夢にも思わずにね。
異なる人格なんてものが私の中にいるなら、本当に……本当にうまくやってくれたわよ。私の願い通り、アンタはまだこうやってピンピンしてて、兵士たちを退散させる役目も一人でこなしてくれたんだから」
もしかすると、『もう一人のユリ』は、好き勝手にユリの運命をもてあそぼうとしたのではなく、身体の持ち主の願いを聞いて、その願いを叶えてあげようとしていただけなのかもしれない。ただし、誰も望まぬやり方で。
やり場のない後悔に絶えず襲われているような口調で話す、ユリの大きな瞳には、いつの間にか、涙がいっぱいに溜まっていた。
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「でも、ただ単に怒りで我を忘れていただけにしても、他の人格が殺人をしでかしたにしても、私があの時、自分自身をコントロール出来ていなかったことには変わりないでしょう? 責任能力のない状態で殺人を実行したということは、どれだけ反省しようが悔やもうが、また条件が揃えば、同じように繰り返す可能性が高いってこと。そんな更生の余地もない危ない生物は、どこかに隔離しておくか、もう二度と悪さが出来ないように殺してしまう。それが一番だと私は思うのだけど」
そんな冷酷な言葉を、そんな悲しそうな顔をしながら言わないで欲しい。
だけどそのおかげで、ルーツは今さらになって、ユリの心を解く鍵を、ようやく見つけ出すことが出来たのだ。というのも、
「もう二度と、他の人格にも、怒りにも、自分の理性を渡さずに済む。その保証があれば、ユリも少しは安心できるんでしょ?」
条件が揃えば繰り返してしまう。ということは、逆に言えば、条件さえ揃わせなければ、ユリが狂うことは永遠にないということで。
選考会の時も、記憶の部屋の時も、そして裏路地の時も。ユリが毎度毎度、ルーツが危機に瀕した時に限って、意識を飛ばしてしまっていることを考えれば、今ルーツがすべきなのは、たった一つのことだけだ。
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「だったら話は簡単だよ。身近な人って言っても、今、もっともユリの身近にいるのは僕なんだから。僕が金輪際、死ぬような目に合わなければ、ユリはもう二度と、僕を助けるために意識を手放すなんて、馬鹿なことをせずに済むんだ」
そう。僕は今後一切、危ない行動はとらないと、ルーツはこの場でユリに固く約束すればいい。
しかし、意気揚々と口を開きかけて、その直前。ルーツは、一緒に僕も戦うと、既にユリと他の約束を交わしてしまっていたことを思い出した。
ある時は、襲い来る兵士たちをこの手で殺すと息巻いて。また、ある時は、安全な場所に隠れているから心配しないで、とまったく逆のことを言う。
口に出すより前に、自分で矛盾に気づいてしまったからには、ルーツは他の説得方法を探すしかなかった。
そしてその答えの在り処を、ルーツは白いモコモコの上に、忘れ去られたように置かれていた剃刀の中に見つけ出す。
「つまりさ。僕は殺しても死なないような人間だって。助けて貰わなくても一人でピンチを切り抜けられるって。ユリがそう分かってくれればいいんだ」
剃刀を逆手に握りしめ、熱に浮かされたような謎めいたセリフを吐くルーツの様子を、ユリは不安げな顔で見つめていた。
だが、ルーツが出し抜けに剃刀を握った利き手を振り上げ、そしてそのまま勢いよく振り下ろそうとしたのを見ると、ユリはまさか、と言いたげに目を大きく見開くようにする。
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そう。ユリの予想はあたっている。ルーツがしようとしているのはそのまさか。あらん限りの力をこめて、そして、背中に残るまだ真新しい傷跡を目掛け、ルーツは剃刀を深く突き刺そうと考えていた。
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