第154話 分かったように言わないで

「殺してよ」

 やがて、長い前髪で顔を隠したまま、ユリは言った。唇が動いているかどうか、分からないほどの微かな声だったが、ルーツにはしっかりと届いていた。

「どうしてここまで来て止めるのよ。あとちょっと、ほんの一押しだったのに……この意気地なし」

 衣服の上から、ルーツの貧弱な胸板をつねり上げるように掴み――。爪が、肌に食い込んで痛い。

「かたきを取る気はないの? こんな目に合わせた私を殺して。……騙されてたのよ? 悔しくないの! この、意気地なし。意気地なし!」

 揺さぶられて、首が前後に勢いよく揺れ、ルーツは脳がかき混ぜられているような気分になった。だが、抵抗はしない。ふたたび首に伸びてきた震える手に、自分の手を軽く添える。

―――――――――435―――――――――

「もう十分だよ。十分わかったから」

 言い聞かせるように言うと、ユリはルーツの胸元を引っ張って、無理やり座り直させた。細く頼りない手が離れていき、二人は黙ったまま向かい合う。

「頼むから……私が何したって言うの? どこで間違ったの?」

「責任でも感じてるの?」

 ポツリと言ったユリに、ルーツは同じく小さな声で返した。

「違う!」

 次は、ユリが声を荒げる番だった。

「自分のせいで、僕に迷惑をかけたから――」

「違う!」

「責任を感じて、自ら進んで殺されようとしている」

「馬鹿なこと言わないで!」

「ユリは、飄々と振舞っているように見えて、実は重い責任に押しつぶされそうになってるんだ。だからこそ、僕に殺してもらって、死んで楽になろうとした――」

「それだけは、絶対に違う!」

 いつもの論理的なユリではない。違う、違うの一点張りで、ろくな反論も出てこない。ルーツはそれを良いことに、更に責め立てた。

―――――――――436―――――――――

「それこそ、自分を傷つけることで、罪の意識から逃れようとしたんじゃないの?」

「アンタの妄想よ! 何で今まで散々悪いことしてきたのに、今になって罪の意識とやらに囚われなきゃいけないの?」

「悪いことって何? 人を殺したことを言ってるの?」

 ルーツがそう言うと、ユリは、喉に何かがつっかえたようなそぶりを見せた。一瞬、肯定しかけて首を振り、細く頼りない息を吐く。

 それからなんとか口を開いた。けれど、

「それ以外も……たくさん」

 ようやく出てきたのは具体性の無い言葉だけ。

「どうも僕には、ユリの言ってることが正しいとは思えないね。ユリは、僕を騙してるんだ」

「だから言ってるでしょ! 出会ってからずっと、アンタのこと騙してたって。アンタなんて、数ある玩具の一つに過ぎないの!」

 はなっから否定してかかるルーツに、ユリは今にも噛みつかんばかりの剣幕で怒鳴るように言った。が、ルーツの追及が止むことは無い。

―――――――――437―――――――――

「ほら、また嘘だ。気づいてる? ユリって嘘ついてる時、瞬きの数がどんどん多くなるんだよ」

「騙されないわよ」

「流石に、そんな間抜けじゃないか」

 冗談にまともに取り合おうとするユリの態度に、ルーツは一瞬頬を緩めたが、すぐに口元を引き締める。そして真剣な表情で言った。

「多分、ユリより僕の方がたくさん嘘ついてると思う」

「はあ? 何をいきなり――」

 困惑したユリの言葉に、ルーツは被せるように続ける。

「知らないってのと、騙すのはイコールじゃないんだ」

「何が言いたいの?」

 ユリはルーツが何を言うのか、気が気でない様子だった。そして、どうやらルーツの発した言葉はユリが思い描いていた最悪のケースを軽く凌駕したらしい。

「初めて僕に嘘をついたね」

 その台詞に、ユリは咄嗟に口を覆いかけ、動揺を隠そうとでもするかのように、腰の辺りに添えた両の手をギュッと握った。

「ずっと騙してたなんて……危うく騙されかけた。さっきまで、確かに僕はユリを殺してやりたいって思ってた。君のせいで。君が冷酷な『ふり』なんかしてたせいで。ああ、上手い演技だったよ。恐ろしいことに、取り返しがつかなくなるとこだった。……魔法覚えたの、本当は最近なんでしょ?」

 どうなんだ、とルーツは追及する。

―――――――――438―――――――――

「おそらくは――僕が眠っている間。その間に一体何があったのか。ねえ、黙ってないで教えてよ」

「何も無いってば。魔法は必要になったから……そう、アンタが全然信じてくれないから、仕方なくネタ晴らししたんじゃないの!」

「思い出したんだね、全部。忘れていた記憶を」

 本人が否定しているにも関わらず、ルーツは勝手に話を進めた。

 一度可能性が可能性に結び付いたのをいいことに、ルーツはまるでそれが唯一絶対の真実であるかのように語る。

「きっと、僕と出会う前――森に捨てられる前の思い出に、ユリを変貌させてしまう何かがあったんだ」

「それでカマかけてるつもりなの?」

 ユリは言ったが、ルーツは続けた。

「今のユリは自分自身のことを、冷酷な殺人者なんだって思い込もうとしているみたいだ。けど、本当は優しいから、役に成り切れていない。さっき僕のこと、中途半端って言ったけど、だったらユリだって半端者さ。言った通り、僕のことをほんとに玩具としか思ってないなら、現状を丁寧にちくいち説明してくれなくても問題ないし、何なら僕が怪我した時、僕を置いてそのままどこかに消えちゃえば良かったんだ。でも、出来なかったんだろう。可哀そうだと思っちゃったから。それが、ユリが血が通った人である証拠だよ」

―――――――――439―――――――――

 いろいろな物事を通して人は変わる。だけど、それは本来少しずつ。一夜にして価値観が逆転するなんて事はそうそうない。忘れていたことを一挙に思い出したのでもない限り。この急激な変貌ぶりを見て取るに、ユリは自分の過去を知ったに違いない。ルーツは、そう当たりを付けていた。おそらくは、目の前でルーツが殺されかけた衝撃が過去の記憶と重なったか、もしくは――

「記憶の紙を破いたんだね」

 ルーツが気を失っている合間に、ユリは再び役所を訪れ、数日前のルーツと同じように記憶の部屋を覗いた。そして、自分の記憶を見つけたのだろう。

 ルーツが思い浮かべていたのは、そんな的外れの出来事だった。第一、あれだけ兵士を殺しておいて、今更のこのこと役所に顔を出せるはずもあるまい。穴だらけの推理だ。だが、強い語調で放たれた、その一言だけを聞いたユリからしてみれば、ルーツは何もかも見抜いているように見えたことだろう。

 一方、自分が見てきた二つの記憶を思い出して、ルーツはユリに少し同情していた。記憶の部屋に、ユリの過去を知らせる何かがあったということは――家族を奪われる思い出か、孤児となって売人に売り渡される思い出。ユリは今、そのどちらかに匹敵するほどの辛い記憶を思い出したばかりだという事だ。

 こんなことなら思い出さなければよかったと悔やんでも、一度頭の中にこびりついた記憶は質の悪い汚れのように消えてくれない。これでは、狂いたくなるのも分かる気がする。死にたくなるのは……流石に分かりたくないけれど。

―――――――――440―――――――――

「無理に合わせなくてもいいんじゃない? もし、過去に引っ張られてるならだけど……あくまでも、それは昔の話だから。今のユリとは違うんだよ」

「分かったように言わないで! 何も知らないくせに!」

「知らないのは、ユリが教えてくれないからじゃんか」

 目を剥いて拒絶の意思を示したユリに、ルーツは冷静に言った。ユリの目がますます大きく、鼻の穴も開いていくのが見えている。

「……だいたいねえ。私と記憶を共有してるわけでもないのに、なんでさっきから、当たり前のように説教してくんの? 文句言うなら、せめて見てから言いなさいよ。実際に見たわけでもないくせに、人の気も知らないで。さも自分が正しいこと言ってるみたいに、偉そうに!」

 結果的に、ユリはまんまとカマにかかった。

「別にいいじゃん、無理しなくても。いつものユリで」

「アンタがいう、いつものなんて何処にも居ないの。アンタがいつも見てたのは、偽物の私。記憶を無くしてた私が、こうだったらいいなって作り上げた偽り。今! アンタの目の前にいる、人を殺すことが大好きで、明らかに頭おかしくて、生きてる価値も無くて、アンタをゴミとしか思ってないのが本物の私なの。もう忘れてよ。私に自分の理想を押し付けないで。古い方が……記憶を無くす前の方が絶対的に正しいの!」

 そう言い切ると、ユリは熱に浮かされたようにふーふーと苦しそうに息をした。落ち着こうとしているのか、ルーツを睨んだまま、自分の胸をギュッと掴んでいる。

―――――――――441―――――――――

「そう、確かに私は自分の記憶を見た。それで、過去を思い出した。自分がいままでどんなことをしてきたか、自分がどんな性格だったか、全部思い出したの。これで満足?」

「満足? 本物も嘘も無いよ。ユリはユリだ。それ以外の何者でもない」

 ルーツと出会ってからの自分を否定しようとするユリに、ルーツは言い聞かせるように言った。

 考える間もなく、次から次へと、言葉が体の中からほとばしってくる。細かな身振り手振りを見て、相手の思考をおもんぱかるなんて面倒くさい。そんなことをしている暇があるのなら、思い浮かんだことを何から何まで、ありのままに言おうとルーツは決心する。今の二人に沈黙は必要ない。言わなきゃ。言葉にしなきゃ。どんなに相手を思っていても、口に出さなければ何も伝わらないのだから。

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