第153話 時が止まった気がした

 時が止まった気がした。次の瞬間、ルーツは殺人鬼ではなくて、見知った顔と向かい合っていた。いや、ユリはユリなのだが――。喉を掻っ切ろうとしていた右手は、石にされたかのように全く動かず、左手はだらんと力なく垂れた。

 間違いない、魔法をかけられたわけではない。黒髪の女の子は仰向けになって、全くの無抵抗のまま、気持ちよさそうに眠っている。長いまつ毛と、赤みを帯びた唇。目を閉じているせいか、その姿は少し大人びて見えた。そして、滑らかな首筋。

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 ルーツは、ユリの喉笛から血が、間欠泉のように噴き出る幻影を見た。どろどろとした生温かい血が、自らの手を伝う幻影を見た。温かみを感じる薄橙色の肌が、どす黒い赤に染められていく。その不可解な現象はたちまち収まったが、目の機能が正常に戻るより先に、ルーツの両手は震えに襲われ始めていた。辛うじて剃刀を落とすことは無かったが、揺れを止めることが出来ない。

 瞳孔が開いていく気がした。目を覆いたくなった。落ち着いていた鼓動が激しくなるとともに、感情が戻ってくる。元の、弱々しいルーツが顔を出す。

 自分は今、何をしようとしていたのか。分かっていたようで、ルーツは全く分かっていなかった。生々しい幻影に、ルーツは今まさに、実行に移そうとしていた行為の意味を、その意味を、強く、強く実感させられる。

 胸がむかつく。苦しい。苦しくてたまらない。

 その場にうずくまって、吐いてしまいたい――。

 ルーツは息を吸っているのか吐いているのか分からないほど、ぜえぜえと苦し気に呼吸をし、空いている方の手を口に当てた。が、鼻、額、頬、と左手は一瞬おきに、居場所を無くしたかのようにかわるがわる位置を変えた。手だけではない。全身から力が抜けていく。すとん、と憑き物が落ちた気がした。

―――――――――429―――――――――

「出来ないぃ」

 誰に言っているのか、弁解がましい声が出た。

「僕には無理だ。出来ないよぅ」

 鼻の穴が膨らみ、涙が滲んでくる。一瞬、グラッと落ちるような感覚に気が遠のいた後、締め付けられるような痛みと圧迫感に頭を襲われた。

「ゴメン、ゴメンけど、こんなん、選べないよ」

 ルーツは既に、声を殺して行動していたことを忘れ去っていた。ユリを起こさないように心掛けていたことも忘れて、枕元で、鼻を啜りながら目を擦る。その最中に、刃に触れてしまったのか。ルーツの人差し指は、ぱっくりと縦に割れていた。だが当人は、自分の指から血が滴っていることにすら、全く注意がいっていなかった。

 すると、ユリの眼がぱっちりと開いた。声をあげる間もなく、ルーツは押し倒されている。手首を抑えつけられ、右手から剃刀がポトリと落ちた。

「殺すんじゃなかったの!」

 鬼気迫る様子で激しく怒鳴られて、また身体が震えた。逃げたかった。この場で起きたことから。いや、直面しているすべての物事から。何もかも捨てて逃げ出したい。恐怖と絶望の狭間で混乱しきったルーツの頭は、そんなことを考えていた。

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 ユリの顔を見ていたくなくて、渾身の力で暴れ、抵抗する。手首を掴んでいる温かい手が離れた。両腕で顔をかばうようにすると、舌打ちが聞こえてくる。

「決めた。今、ここで殺す。生かしておいてあげようと思ってたけど、寝首をかかれる危険がある以上、アンタと一緒にいることは出来ない」

 追って、高ぶった声がした。腕をかいくぐるように手が伸びてきて、ルーツの首を絞めてくる。口が、新鮮な空気を求めるように大きく開き、掠れた呻き声が洩れた。

 またこの目だ。見下すような冷たい目。

 怖い、怖い! 

 失敗したらどうなるか分かっていたはずなのに、ルーツはそれでいて怯えた。

 息苦しさよりも、もしかすると殺されることよりも。ユリに、今の自分を見られることを何より懼れた。

 上擦った声が聞こえるが、それが自分の喉から出ているものなのか、ユリが出している音なのか分からない。必死に抵抗するが、首はますます絞め上げられる。

 全身の筋肉が収縮していく感覚がした。頭の血が抜けていく感覚が合った。身をよじり、首を左右に振るが、逃れられない。そして――、

「全部、中途半端。私を捨てて、村人たちを選んだのに、結局意思を貫き通せないんだ。白か黒か、どっちかに染まっちゃえば良かったのに……。灰色って、一番むかつくのよ。どっちつかずって一番むかつくのよ! 

 ……勘違いしてた。アンタは優しいんじゃなくて、ただ弱いだけなんだ。弱くて自信がないから、他人に下手に出てるだけなんだ。他人にすべてを任せきって、その場の空気に従っているだけなんだ。だから、自分の意思なんて何にもない。存在している価値もない。……自分で自分の未来さえ決められないなら、此処で大人しく私に殺されなさいな。あとは私が、上手くやってあげるから」

 ユリの冷たい言葉に、ルーツは危うく諦めかけた。危うく全てを諦めて、自分の未来を投げ出しかけた。だが、

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「意気地なし」

 煽るようなその捨て台詞が、どうしても受け入れられなかった。

 間違っていないとは分かっているのに。ルーツはかすれた笛のような、もはや人間とは思えない金切り声で、訂正しろと叫び散らす。

「……ん? 何か言った?」

 本当に聞き取れなかったのかは分からない。もしかしたら、ユリは敢えて、聞こえなかったふりをしたのかもしれない。だが、いずれにせよ、また煽るように首をひねったユリを見て、ルーツは更に激高した。

「訂正しろ‼ 僕は意気地なしなんかじゃない! だいたい、ユリなんかに言われる筋合いなんてどこにも――」

 ふたたび、身体に魂が宿った。というより言葉が続かず、ルーツは心のうちに沸き上がった熱い塊を、これ以上抑えておくことが出来なくなってしまった。結局、自分で落とした剃刀を荒々しくつかむと、ルーツは奇声を上げながら振り回す。

 ユリは攻撃を避けるように、上体を後ろに逸らし――ルーツは、機を逃さずのしかかった。どちらも全身に汗をかき、肩で苦し気に呼吸をしていた。ユリの立派な髪の毛は肌に張り付き、ルーツからは、涙と汗の混じり物が垂れている。

 何かがせり上がってきた気がして、咄嗟にゲップを飲み込むと、口の中に、たくさんの気持ち悪い泡があることにも気が付いた。あのまま首を絞められていたら、白目を剥いて、死んでいたのだろうか。

―――――――――432―――――――――

「殺さないの?」

 一転してまた下になったユリは、落ち着いた声でそう聞いてきた。ルーツは黙っていた。まるで、殺されるのを望んでいるかのように振舞うユリを、疑っていた。

 一秒、二秒と時間は過ぎるが、両者とも動かない。剃刀は、ユリの喉元にあった。少し動かせば、鮮血が飛び散ってそれで――それで、全ては終わる。

「殺さないなら、私が殺すわよ」

 ルーツが押し黙ったままでいるのを見ると、ユリは睨んできた。明らかにそれは脅しでも、張ったりでもない。ルーツが喉を掻っ切ることを少しでも躊躇えば、その一瞬にでも、お前を殺せるという意思表示だった。だが、

「分かった」

 ルーツが低い声で告げると、ユリは何故か抵抗もせず、観念したように、穏やかな顔になる。敵意を剥き出しにしていた鋭い目が、ルーツの眼前で大きく開き、落ち着きを感じさせる物へと変わっていった。

 そして、その瞳の奥に――、ルーツはユリの黒い瞳に映り込んだ自分の姿を見た。顔は、今にも気を失いそうなほど蒼ざめ、焦点が合っているかさえも定かではない。数日間絶食を試みた狂人のように、頬の肉はげっそりと落ち、生気を感じさせない乾燥した唇が、わなわなと震えている。

 これは、到底、誰かを殺そうと決意を固めた者の顔とは思えない。少なくとも、街中でこんな顔をしている人に出会ったら。ルーツは心の中で、こいつは間違いなく重病人だと、そう診断を下すことだろう。

 自分で言うのも何なのだが、これほど酷い状態の人間が、まともに物事を判断できるわけがない。しばらくすると、そう思えてきた。醜い姿が敵意を奪ったのか。それとも沈黙が、現状を見つめなおす時間を与えてくれたのか。ともかく、ユリの顔を間近で見ているうちに、ルーツの高ぶりは急速に収まっていく。

―――――――――433―――――――――

「やっぱり、意気地なしでいい。全部、ユリの言った通りだ。僕も卑怯者だ」

 やがてルーツは、一瞬前に自分を発奮させたユリの煽りを素直に認めた。その変貌に、黙って待っていたユリは訝しむ。そして、

「こんなの、いらないよ」

 ルーツが、手に持った剃刀を明後日の方向に放り投げたのを見ると、ユリは初めて、本気で驚いた様子でしばし固まった。元々パッチリとしていた目が、さらに大きく、暗がりの猫の瞳のように丸く開いていくのが見えている。

「アンタ、何してるのよ?」

 震え声が聞こえた。と思った瞬間、ルーツは襟回りを強く掴まれていた。

「これじゃ、殺してって言ってるみたいなもんじゃない! 自分から武器を捨てるなんて……」

 鼻先がくっつくかどうか。荒い息遣いが聞こえるくらいの距離でユリは言う。

「どうして! どうして殺さなかったの! 殺せる機会は何度も合ったでしょ。時間が足りなかったの? 決心がつかなかったの?」

「いや、ちゃんと決断したよ。僕は今、ユリを殺さないってここで決めたんだ」

 ルーツは決意を述べた気でいたが、ユリの言葉が止まることは無い。

「殺さなきゃ、殺されるのよ!」

「……知ってるけど。でも僕はユリを殺さないし、殺されたくも無いんだ」

「……アンタが言ってること、ぜんっぜん分かんない。ほんのちょっぴりも、欠片も分かんないわよ」

―――――――――434―――――――――

 どちらかを選べ、と言われているのに、頑なにどちらも選ぼうとしないルーツに、ユリは小声で、意味わかんない、とそればかり繰り返した。それから無言でルーツを押しのけ、ふらっとその場で立ち上がると、たった今ルーツが捨て去った、剃刀を持ってくる。それを両手でしっかり握って、またルーツにのしかかり――。胸をつかれて、布団の上にぐったり倒れると、遅れて影が降ってきた。

「殺されたくないなら、必死で抵抗して見せなさい!」 

 そう言うと、ユリは思いっきり剃刀を振り上げる。だが、頂点まで上げておいて、ルーツが何も行動を起こさないのを見ると、手を震わせ、力なく取り落とした。ルーツの胸に剃刀は落下したが、特に痛みは襲ってこない。包丁や果物ナイフと違い、先がとがっていないその刃物は、何の痛みももたらさなかった。

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