第150話 分の悪い賭け

 その小ぶりだが人を殺せる物体は、日用品ばかりの袋の中で明らかに浮いていた。

 包丁ではない。もっと軽めの。

 果物用ナイフでもない。形が違う。

 そう。剃刀。村長が使っているところは見たことが無いけれど、どの家にも大体ある、髭とかを処理する時に役に立つアレ。けれども、いま目の前にある剃刀は、産毛や髭を剃るにしては大きく、とても扱いにくそうで、適した使用法がルーツには思いつかなかった。それに、よく研がれていて――触っただけで、スパッと切れてしまいそうだ。そう考え、滴る血を思い浮かべていると、ルーツの股間はキュッとなる。

 また、縛られているルーツが、刃物を見て、逃げることを連想したのは、当然と言えば当然のことだったのだろう。

 いったいどうして、ユリは市場でこんなものを買ってきたのか。

 そう疑問に思う傍らで、ルーツは刃物とにらみ合いながら、果たしてこの頼りない剃刀で、本当に縄を切ることが出来るのか。そして、両手を後ろ手に組まされたこの状態で、満足に剃刀を動かせるのだろうかと考えていた。

 もっとも、ただ剃刀を動かすだけでいいのなら、時間をかければまず可能だろう。たとえ両手が使えなかったとしても、口で柄の部分を咥えてしまえば、あとは根気で何とかなる。が、刃物を自在に動かす必要があるとなると、口だけの力ではどうしても。両手の力を借りない限り、切り進めるのは難しい。

 そう考えると、利き手で剃刀を拾う案が、一番現実的な策に思えてきた。だが、ルーツの身体は椅子ともども、床で横倒れになったまま。

 上体を起こすことが困難である以上、ルーツが剃刀を拾い上げるには、身体を椅子ごと半回転させる必要があった。

 しかし、この椅子を引きずれば、大きな音が鳴ってしまうことはもう必至。そしてその物音で、ユリが起きてしまわないとは限らない。それに、あやまって自分の手首を傷つけてしまう可能性だって、まったくないとは言えないのだ。それに――

 もし、予想以上に怪我をしてしまったら。

 もし、大怪我を負ったショックで気を失ってしまったら。

 もし、気を失ったまま、何時間も目が覚めなかったとしたら。

 次にルーツが意識を取り戻す時まで、ユリが律儀に待ってくれている保証が、いったいどこにあるというのだろう。

―――――――――413―――――――――

 が、くどくどと迷っているふりをしつつも、ルーツはちゃんと気づいていた。どれだけ分の悪い賭けでも、挑まなければならない時はある。やってみる以外の選択肢はないのだ。逃げるにせよ、説得するにせよ、ユリを実力で止めるにせよ、拘束されているということは、それだけで大きな障害になるのだから。

 形だけでも対等に見えなければ――、今晩みたいに、食べ物を与えられて喜んでいるようじゃダメなんだ。

 見た目は地味だった。一大決心をしたにもかかわらず、ルーツが始めたのは先ほどまでとよく似たこと。身体をよじって、反時計回りに動きだす。

 折り畳み式に閉まっておけるわけでもない、剥き出しの直刃に触れないようにしながらの作業は骨が折れた。

 椅子の方は、少し動くたびに派手な音を立ててくるが、ルーツの身体は、果たして本当に回っているのか分からないほど、少しずつしか動かない。

 床の木目を見ていなければ、同じ姿勢のまま、ただただもがいているだけだと錯覚してしまったとしてもおかしくはなかったろう。

 それでも、この先に可能性があると考えると、頑張れた。

 そんなルーツにしては珍しい一念が、ぷっつりと途切れかけたのは、ようやく九十度近くまで回転して、ちょっとここらで休もうと、ぐったりとした時。

 ずっと腰をひねるように動いていたせいか、妙に肩が凝り、背中から腰にかけて、痛みやら何やらが溜まってきている。

 ――こんな時、手で腰をもみほぐせたらなあ。

 そんな年寄り地味たことを考えたルーツの意識は、自分の手に集中した。手の甲を合わせるようにして縛られている両の手首。

―――――――――414―――――――――

 そもそもこの手の角度では、手首の縄に触れる事すらできないんじゃなかろうか?

 そんな考えが、ふっと頭の片隅をよぎった。根気や勇気の問題じゃなくて、物理的に無理。手首の関節が自由自在に動く化け物でなければ、剃刀を持ったところで、刃は手首の縄まで届かない。それに、もし仮に届いたとしても、元々限界近くまで内に曲がっている手首を更に曲げて、尚且つ目の届かない場所で、手首を切らず、縄だけを切るという繊細な作業が、果たして人に可能なのだろうか。

 無理は分かっていたはずだった。だが、今一度そう考えてみると、すべてがより絶望的に思えてきて、ルーツの心はぽっきりと折れかけた。

 せめて手首を裏返すことが出来れば、少しは希望も持てるのかもしれないが――。少し手首をひねっただけで、縄のささくれが肌に突き刺さってしまう以上、それは無理な話である。普通に縛られている分には、縄は少し毛羽立っている程度で、あまり痛くは無いのだが、動かそうとした瞬間にこれなのだ。鋭い爪でひっかかれたような痛みが、手首全体にジンジンと伝わってくる。

 昼間のルーツは、この痛みに何度もやられていた。そこで、抵抗するのを止めてしまう。逃げたい、縄から抜け出したいと何度も思ったのにも関わらず、ただ漠然と夜を待っていたのは怖かったからだ。

 痛みはこれ以上やるなという身体の警告。逆らったら、それ相応の代償が待っている。だから痛みには抗えない。でも、今だけは――。

―――――――――415―――――――――

 ルーツは、歯を食いしばって痛みに抗い始めた。手首全体に広がった引っかき傷を、何度も何度も自傷する。手首をねじればどうにかなると信じこみ、零れそうになる金切り声を、手で無理矢理に押さえつけた。そうしているうちに、意思に反して、ポロリと涙がこぼれたが、こればっかりはどうすることも出来やしない。

 槍に刺された時、意識が飛んで本当に良かったと、ルーツは今更ながらに思っていた。起きていたらみっともなく、痛い痛いと喚いていたかもしれない。そしておそらくは、その場で転げまわって、身体を傷つけて、更に症状を悪化させて――。

 刺されたことに比べれば、こんな痛み、我慢できないほどでもないだろう。そう思い込もうとはするのだが、どれだけ軽い傷だったとしても、痛い物は痛かった。

 そろそろ緩んでもいい頃なんじゃないだろうか。

 そろそろ運が味方してくれてもいい頃なんじゃないか。

 そんなことを常に思い、縄の強度がもろいことを願いながら、ルーツは作業を続ける。手首がズタボロになるのが先か、縄から抜け出るのが先か。その勝負なら、もうとっくに負けていた。なにせ、ルーツの手首は、既に空気に触れているだけで、ズキズキと痛むようになってきてしまっているのだ。

 襲い来る痛みに耐えかねて、いっそのこと、思いっきり引っ張ってみたらどうだろうか。そう思ったのは、しばらく格闘してからのこと。手の付け根をすぼめれば、するりと抜けることが出来るかもしれない。そんな、普通に考えれば、ありえそうもない可能性に身を託し、最後の頼みで、ルーツは力任せに右手を引っ張った。

 だんだんと、右手の感覚がなくなり始めているところから察するに、おそらくは血が流れなくなってしまっているのだろう。だが、それはこの際、知った事じゃない。

 血が止まろうが、手の色が紫色になろうが、自由になればお釣りがくるんだ。だから、頼むから抜けてくれ――。

―――――――――416―――――――――

 すると、思いもよらなかったことに、ルーツの手首は縄からすっぽりと抜けた。手首を返すことすら困難だったはずなのに、無理やり引っ張っただけで、剃刀も使わないまま、あっけなく抜けてしまった。

 自由になった右手と再会して、なんだか拍子抜けしてしまったルーツは、両目を何度もぱちくりさせる。手首の傷跡と、うっ血したような腫れはしばらく残りそうだった。が、想像していたよりは酷くなかった。

 ――ひょっとすると、出血したことで縄の滑りが良くなったのだろうか? 

 一瞬、そうも思ったのだが、仮に水分を吸い込んだのだとしたら、縄はますます締まることだろう。それにもともと、指一本分どころか、蟻が通れるほどの隙間しか空いていなかったのだから、血のおかげだとは考えにくい。

 何はともあれ、目論見が成功したのだから喜べばいいのに、ルーツは驚きを隠せない様子で、しばらく両手を見つめては、暗い部屋の中でただ黙っていた。こんなに上手く行くなんて――だったら最初からこうしていれば、大人しく夜を待たなくても、ユリがどこかに出かけている間に苦労無く脱出できたんじゃないか。

 手の自由が利くようになり、当初の驚きからも抜け出ると、後は消化試合みたいなもので、駒結びをほどくのに時間はかかったが、数分も立たないうちにルーツは椅子から完全に解放されていた。自由になった悦びよりも、剃刀を使わずに済んで本当に良かったという安堵感が先に来る。手が滑って手首を傷つけ、端から見たら自殺まがいの残念な最期を迎える可能性も、少なからずあったのだ。死に方に、名誉も不名誉も無いだろうが、間抜けだとは思われたくない。

―――――――――417―――――――――

 少し痺れた末端をほぐすため、手足を動かしていると、ようやく逃げ出せたという実感が湧いてきた。結局は頭を使わず、力技になってしまったが、ユリに一泡吹かせられたようで、ルーツは何だか嬉しかった。しかし、その喜びを堪能し終わると、途端に色んな心配事が頭をもたげるようになってきて。そしてルーツはいつの間にか、今後の不安に頭を悩まされることになってしまっている。

 今までは縄を解くという目先のことだけを考えていればよかった。だが、これからは。……これからは、どうすればいいのだろう?

 今こそ何かしなければいけないという漠然とした使命感は持ちつつも、アイデアは何も湧いてこない。直前で遊ぶ約束を反故にされた時のように、ルーツはとても手持無沙汰で、冷たい床にただペタンとひとりで座り続けていた。

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