第149話 美味しくない
「食べさせられるのも嫌だと思うから、残りはここに置いとくわね」
ルーツがなけなしの自尊心と、食欲とを天秤にかけている間に、ユリはコトンと平たい皿に、今晩の夕食を置いていた。
「私は外で食べてきたから、アンタも適当に食べといて。まあ、いちおう私なりに美味しそうなもんを選んできたつもりだから、何一つ食べられないってことは無いと思うわよ? それでも口に合わないようなら、残しといて。そうしたら、それが私の朝ごはんになるだけだから」
そう言うユリの左手と、胸に挟みこまれるようにして抱えられているのは茶色の紙袋。外で食べてきたとは言いつつも、その右手には、ちょうど握り込めるくらいの大きさの、瑞々しそうな果実が乗せられている。
そして、その果実に、時折しかめっ面をかましながらかぶりついては、ユリは鼻を摘まむようにしてゴクリと飲み込んでいたのだが……。そんなに口をモゴモゴと動かして、ひょっとすると、奥歯にモノでも詰まらかしてしまったのだろうか。
「あ、これ? これが欲しいの? ……悪いことは言わないから、やめといたほうがいいわよ。お世辞にも美味しいとは言えないから。見た目はこの通り、お店で売っている物の中では一番だったんだけど、なにせ臭いがきつくって」
ルーツが果実をじっと見ていると、何を勘違いしたのか、ユリはそう言ってきた。が、臭いにでもやられてしまっているのか、その言葉は軽く涙声になっている。
ただ、ルーツの鼻には何も臭ってこなかったので、ルーツの鼻づまりがよくなかったのか、それとも、ユリの鼻が人一倍敏感だったのか。
真実はきっと、そのどちらかだったのだろう。
それはともかく、少女のペースに乗せられかけていた少年は、そのまま特に考えないままに、目の前にあるパンにしゃぶりつきかけた。
が、直前で思いとどまって、唇を噛む。
―――――――――407―――――――――
「食べたくない」
「お腹、空いてないの?」
「これ、どうやって手に入れたの?」
「言ったでしょ? 市場で買ったのよ」
「お金も無いのに? お財布、取られちゃったんでしょ」
「親切な人がくれたのよ」
「……この崩れかけの家も、こころよく譲ってもらったって言うつもり?」
ユリは黙った。ルーツはそれで、彼女が盗んできたのだと判断した。もちろん、本当のところは分からないのだが、珍しく言い返してこないのは、こちらの指摘が図星だったからだろう。が、ユリが黙ってしばらくして、今さら品物を戻しに行ったところで、一度人の手に渡ってしまった以上、これらが売り物になり得ないことに、ルーツはようやく気が付いた。つまりは、ルーツが口を付けずにいたところで、美味しい匂いを放っているこれは、盗人のお腹に収まるだけなのだ。
そう思ったら、急にまた、お腹がぐーっと空いてきた。しかし、たった今、ユリに啖呵を切った手前、すぐに食べ始めるのは格好が悪い。
そこでルーツは、せめて誰も見ていないところで食べようと、ユリが寝静まるのを待つことにした。するとユリは、ルーツの意思を汲み取ったように都合よく、喉の奥まで見えんばかりの大欠伸をして口を開く。
―――――――――408―――――――――
「じゃあ、今から寝るから。命の危機でもない限り、しばらく静かにしといてね」
「……なら僕は、一晩中このままで居なきゃいけないの? 縛られたまんま?」
ルーツは咄嗟に、呼応するようにそう言った。それから、兵士を惨殺した殺人鬼相手に、なんて馬鹿なことを言ったのだろうと、言い終わってから気がついた。だが、
「勘弁してよ。こんな真っ暗闇の中で、ガッチガチに固めた縄をほどくのに、どれだけかかると思ってんの? それに、ただでさえ細かい作業をするのって、すんごく肩が凝っちゃうのに――。いま、私。右の目も左の目も、充血してて痛いのよ。だから、今日のところはこれでおしまい。縛られたままで我慢してくれない? ……大丈夫。もし食べ物が、喉に詰まるようなことでもあれば、うなるか、そこの椅子でもガタガタさせるか。とにかく、大きな音を出してさえくれれば、私がすぐさま飛び起きて、助けに行ってあげるから」
ユリは、ルーツに恨まれているにも関わらず、こちらを全く脅威に感じていないのか。まるでほどくのが面倒くさいから、がんじがらめにし続けているとでも言いたげな言い方をした。ちなみに、ルーツがひとりでこっそりと、出された物をさらえようとしていることには気がついているようで、食べることを前提とした忠告も、しっかり付け加えられている。
そして、ルーツが複雑な顔で、目の前のパンを見つめている間に、ユリは紙袋をごそごそ漁り、まるで萎みかけの風船のような、皺くちゃの塊を取り出していた。
何をする気なのかと思っていれば、ユリは塊を手に持って、ふうっと息を吹き込むと、その場に置いて、少し下がる。
すると塊は、冬の日の静電気のように、パチパチと小さな音を立て――。次の瞬間には、それが寝具の代わりなのか。綿あめのようにふわふわとした、人をくるめるくらいのフカフカが二つ、重なり合うようにして出現していた。そこでルーツは、その仕組みをユリに尋ねかけ、すんでのところで自分を押しとどめ、ため息をつく。
―――――――――409―――――――――
ユリはあれだけのことをしたというのに、僕はユリを憎むべきなのに、何も出来ないと分かっているせいだろうか。嫌おうと努力しても、慣れ親しんだその姿に、ルーツはついつい話しかけようとしてしまう。
だからルーツは目をつむった。ユリが言っていると思うから駄目なんだ。全く知らない赤の他人が、人を殺したうえ、ルーツの友だちや、村人全員に罪を吹っ掛けようとしていると考えれば――当たり前だ。許すことができるはずもない。
そんなルーツの苦悩をよそに、
「じゃ、おやすみー」
ユリは、毛玉の塊に飛び込む音を残して静かになった。正確には、二回ほど寝返りを打ってはいたがそれっきりだ。
空腹と戦っていたルーツは、ユリの挙動を聞き逃すまいと、神経を張り巡らせていた。が、しばらく立っても動きが無いので、
「おーい、……起きてる?」
そんな間の抜けた問いかけを、小さな声で発してみる。
そして、返事も頷きも戻ってこないのを確認すると、目を少しずつ開いていき、おっかなびっくり、食事に口をつけ始めた。
両手を使わずにがっつくなんて、まるで家畜みたい。とも思ったが、この際構っていられない。誰も見ていないのなら、どんなに馬鹿な振舞いをしようが、どんなに破廉恥な行いをしようが、笑われることも、咎められることも無いのだから。人としての尊厳なんかより、お腹を満たすことの方が、よっぽど大事なことのように思えた。
空腹では頭も働かない。別に、満腹になったところでいい案が浮かぶとは限らないのだが、無いよりかは有った方が、何事も少しはましになるだろう。
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「美味しくない」
ちなみに、空腹がスパイスになっていたのか。
食事はとても美味しいものに感じられた。
「ぜんぜん美味しくない」
好みが似通っていると認めたくなくて、嘘を付いてはみるものの、夢中でむしゃぶりついている以上、説得力はかけらもない。
それに、別に素直になったところで、何か悪い事が起きるわけではないのだが、妙なところで、ひねくれた心が顔を出していた。……そして、
「口しか使えない人に対して、豆を出すとか……嫌がらせだろ」
おおかた食べつくしたところで、端の方にちょこんと乗っていた黒豆を見つけ、ルーツは不機嫌そうにぽつりと言った。黒豆は砂糖漬けにしてあって、見ているだけで食指を誘われる。だがそれは、微妙に舌が届かない位置にあった。
一度は、それでも諦め切れず、身じろぎをして、なんとか体勢を変えようと試みてもみたのだが、ルーツが動くたびに、椅子は派手な音を立てる。
おまけに終いには、ようやく寝付いた目の前の少女が、何やら寝言を言い始めたため、断念せざるを得なかったのだ。
「見せびらかすだけしておいて、結局食べられないなんて……やっぱり性格が悪い」
もちろん置き方は、意図したものではないのだろう。
けれども皿を見つめていると、段々と悪意が透けてくるようで、すうすうという小さな寝息を耳にしては、ルーツは勝手にむしゃくしゃしていた。
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ところで、ユリはふわふわの真綿に包まれていて、その寝顔すら見えてこない。
ずっと睨んでいても何も始まらず、何だか空しくなってくるばかりなので、ルーツは仕方なく、自由が利かない姿勢のまま、眠りに落ちようかと思い始める。
床に置かれていた紙袋が、視界の内に入ってきたのは、その矢先のことだった。
斜め前。縛られていなければ、手を伸ばせば届く距離。まるでリボンをほどいたような、真紅の紐が通されている紙袋の口元で、何かがかすかに煌めいている。
ルーツは、暗闇の中で鈍い光を放った物体に惹かれた。そして、散々迷った挙句、気になったままでは眠れないと判断し、ふたたびガタゴトとうごめき始める。ユリを起こさないようにと気を付けながら、時間を掛けて少しずつ。
結局、ルーツは気が遠くなるほどの時間をかけて、ナメクジよりも遅いスピードで、紙袋の紐を引き寄せることに成功した。
明らかにユリの私物である袋を漁り、物色することに気が咎めなかったと言えば嘘になるが、この際、倫理観なんてものは気にしないことにする。
どうせ、これらは全部盗んできたものなのだ。ユリが持っていただけで、本当はユリの物じゃない。だから、気にする必要なんてどこにもない。
上手く側面を歯で引っ張ると、袋の中身が転がり出た。
パンや果物、野菜に卵。それに干したような固い肉。予想に違わず、紙袋の中にあったのは、そのほとんどが、日持ちのしない食料品だった。
だが、その陰にあったのは――
ルーツの人差し指よりも一回り大きい程度の、刃物にしては控えめの鋭い刀身。思いがけず、剥き出しの状態で現れた凶器に、ルーツの眼は釘付けになった。
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