第二十二章 異体同心

第148話 空虚感

 まるで人混みの中で、親とはぐれてしまった子どものように。やたら滅多ら、あても無しに、一匹の獣が闇夜に吠えている。喉の奥でもやられてしまっているのか。その声には時折ひゅるひゅると、隙間風のような細い音が混じっていた。

 倒壊しかけた建物の中で、じっと横になっていたルーツは、窓の向こうから悲し気な遠吠えが聞こえている間、ギュッと目をつむっていた。が、やがて獣が吠え飽きたのか、どこか遠くに行ってしまうと、脱力したように口元を緩ませる。

「良かった。また始まるのかと思った……」

 生じた独り言は、砂埃でも飲み込んだ直後のようにザラザラしていて、自分でも聞き取りにくい。そして相変わらず、手足の拘束は緩んでおらず、どうしようもなく首の後ろがむずがゆいのだが、掻くことすら出来ていない。だが、そんな状態だというのに、ルーツは幾度となく深呼吸をして、小さな胸をなでおろしていた。


 あの後、一人になったルーツを待ち受けていたのは、見世物にされて次々に処刑される、ユリの身代わりとなった人々の怨嗟の声だった。拡声された声は、部屋の壁を容易に突き破り、ルーツの耳まで、恨みつらみの文言を伝えてくる。

 当初こそ、ユリに対する憤りのあまり、ルーツはその文言をすべて聞き飛ばすことができていた。が、目の前に肝心の対象が居ないにも関わらず、たった一人で何時間もの間、感情をたぎらせ続けるのには無理があった。

 もう既に、ユリはどこかに行ってしまっているというのに、扉に向かって息巻き、言い立てて――。散々喚いて、息を切らしたのちにやってきたのは、いったい僕は何をしているのだろうという空虚感。無力さに打ちひしがれたルーツの心を、助けを求める浮浪者たちの声は、更に奥までえぐっていった。

―――――――――403―――――――――

 リリスの時とまったく同じだ。僕には何も出来やしない。何の罪も無い人たちが痛めつけられ、嘲笑われて死んでいくさまを見ても、することときたら、こうして聞こえないふりをして、時間が過ぎるのを待っているだけ。

 たまに、呪詛の声がやんで、考える時間が出来てくると、ルーツはそうやって自分を責めてみたりもしたが、ますます惨めになるだけで、悲惨な現状は何一つとして変わることが無かった。

 長ったらしい未練と哀願の先には、必ずつんざくような断末魔が控えていて、それが永遠ともとれるほど、何度も何度も繰り返される。ただ人は死に、ルーツは突然思い出したかのように、形振り構わず叫んでみては、もはや惰性で流しているとしか思えない涙をこぼし、グズグズ言っていた。

 そして、だんだんと肌寒くなってきた外の空気を避けるように、人々が各々の家に帰り始め、ようやく辺りに夜の帳が降りた時には、ルーツは幻聴を聞くようになっていて――。それでルーツは、先の獣の遠吠えを、浮浪者たちの死に際のあがきと勘違いしてしまったのだった。

「この後、どう? もう一杯、行かない?」

 はつらつとした賑やかな声が、風に乗ってやってくる。日暮れ前から、ずっと薄暗いため気が付かなかったのだが、どうやらすっかり夜も更けてしまっているらしい。

 とすると、この声の持主は、おおかた仕事終わりに酒でも呑んで、陽気になっているのだろう。聞こえてくる声の明るい調子は、ルーツに祭りの夜を思い起こさせた。

―――――――――404―――――――――

 上半身裸の男たちが、オオカミを象った像を担いで、燃え盛る火の周りを巡り巡っている光景。妙に揃わない掛け声と、それをからかうような女たちの声。出店で親におもちゃをねだって、今度だけね、と念を押されながらも結局買ってもらっているハバス。そして、その輪に入れず、少し離れた木の下で、ただ揺れる火を眺めている自分。聞こえてくるのは横笛の甲高い音色。綺麗な旋律。ああ、これはまだ、ハバスと友だちになる前だった頃の思い出だ。森の中で狼の群れに追い回されて、村の人が討伐に行った、すぐ後のこと。昨年の収穫祭。ユリともまだ出会っていなかった――。

 ユリの顔が、思い浮かんだところで、過去に逃げようとしていたルーツの意識はたちまち現実に引き戻された。王都の夜は、いつも祭りみたいに賑やかなのだろうか。だったら、人付き合いが苦手な子どもは、さぞかし生きづらいことだろうに――。

 だが、人との関わりを苦手とする子どもに同情の眼を向けつつも、ルーツはどこかで、その賑やかさを羨ましくも思っていた。

 エルト村みたいに閉鎖的じゃなくて、何の仕来りも無さそうな王都。そこで伸び伸びと生きている人々が羨ましい。裏で一つの種族――半獣人たちを排除するという恐ろしい計画が着々と進められているのに、それを知ってもなお、震え上がるどころか楽しんでいられる、そのおめでたい頭が羨ましい。


―――――――――405―――――――――

 そんな賑やかしさと、ルーツの心に束の間できた安息に付け入るように、何の前触れもなく、古ぼけた扉はきしみながら開いた。

 正面に影が立っている。眼は闇夜に慣れていたが、顔を目視する前に、影はルーツに近づくと、口に素早く何かを押し込んだ。

 ドロッとした、お世辞にも口当たりがいいとはいえない物体が、抵抗する間も与えられぬまま、喉の奥を通過する。それから、流し込むように――。今度は、喉を通る物が何だか分かった。ただの水だ。一瞬、このまま窒息でもさせるつもりなのかと疑ったが、影はゆっくり水筒を傾けてくれていた。

「市場で売ってたの。栄養あるんだって」

 その声で、ルーツは影の正体を知った。と同時に、少し安心している自分にも気が付いて、緩んだ気を引き締める。

 が、ルーツのお腹は、張り詰めた空気を意図的に壊そうとでもしているかのように、グゥーと、だらしのない音を立て――。食べ物を押し込まれた瞬間に、ルーツは随分と長い間、何も口にしていなかったことを思い出していた。

 悲しいことに、怒りの衝動よりも空腹に対する欲求の方が強いのか。我慢しようとは思うのだが、胃袋が締まるのは抑えられない。ルーツの口は固形物を欲しがった。ルーツの脳は、甘い物を欲しがっていた。

―――――――――406―――――――――

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