第140話 拍子抜け

 だが、市民たちが野次を飛ばすことで、場が少しでも中断されるなら、その方が、女性にとっては幸運だったのかもしれない。

「それで?」という言葉を、あれからいったい何度耳にしたことだろう。

 女性が、どんな嘘を告白しようが、兵士は顔色一つ変えずに先を促し続けていた。

 それに伴い、女性が語る出来事はどんどん昔にさかのぼっていき、また、それに比例するように、女性の口から発せられる情報はますます不正確なものになっていく。

「アンタはどう思う? あの女の人、あれも、嘘かな? これも、嘘かな? って自分を疑って、少しでも疑わしいと思ったら積極的に話そうとしているみたいだけど。嘘ではないことを、嘘として語る行為。それ自体も嘘になるのかしら。仮にそうなら、口を開くたびに、申し開きをしなくちゃいけない嘘の数は増えているのかも。

 可哀そうに。こうなってくると、もう自分でも何を話せばいいのか、皆目見当もつかなくなってくるのよね。それに、もしかするとあの人は今、自分が何を話しているのかさえも、よく分かんなくなってきているんじゃないかしら」

 女性の語る嘘が、ひと月前のものになったところで、可哀そうなんて感情を露ほども出さずにユリは言った。と同時に、市民の間からも、笑い声が漏れ始める。

 それでも女性は愚直にも、包み隠さず話そうとしていたのだが、話に区切りがつくたびに色の変わらない手のひらを見ては目を回し、時おり頭を抱えては、がくがくと震え、ふらついていた。

―――――――――359―――――――――

「三年前……いいえ、四年前だったのかな? 以前住んでた村のどこかで……っぐ、ごめんなさい。あとちょっぴりでいいから待っててください! 思い出そうとしてはいるんですが、どうしても浮かんでこないんです! ……あ、そうだ。十一年前にもこんなことがあったような――、村の広場で……貴族様がやってきて――それに、それに! 待って! 触らないで! まだ言い終わってないだけなの! 忘れているだけだから! 私は嘘なんて滅多についてこなかったし、だからそんなはず――」

「ほら、また赤くなった」

「もう、嫌あああ!」

 傍から見ている限りでは、肌の色に変化は見られなかったのだが、兵士が面白おかしくそういうと、女性は崩れるように座り込んでしまう。

「これで、最後です。最後ですから――ってなんでまだ、色が落ちないのお!」

 肌の色を無理やり薄めようとでもしているかのように、自分の腕を何度も何度も懸命に擦っているその姿。

 摩擦ですり切れてしまったのか。まるで、絵の具で塗りたくったような鮮やかな皮膚の色とはまた別の、少し濁った暗赤色の液体がぽたぽたと腕から滴り始めている女性の姿を見ていると、ルーツは嫌悪感に襲われて、小さく唸った。すると、

「まだ五つのころ――」

 そういうと、女性は何を思ったか、幼児期の思い出を唐突に語り出す。

「お母さんがパンを焼いてくれて――隣に住んでたエルちゃんと、原っぱに行ってパンを食べたの」

 それは、自分の過去を必死に探り当てようとした弊害だったのか。心なしか、女性は口調まで幼い頃に戻ってしまっているかのようだった。

―――――――――360―――――――――

「美味しかったなあ、あの時のパン。中がもちもちで――、そうそう、その中に一枚だけ、焦げちゃってるのがあったから、それは溶き卵につけて食べたんだけど……でもね、その時ね。あんまり美味しいもんだから、ほんとはね。全部でパンは、八枚あったんだけど。合わせて六つだよって言っちゃたの。そしたら、エルちゃんが三枚。私が五枚で、半分に分けた時より一つ多く食べることが出来るから……。バレるかなあって思ってたんだけど、結局バレなくて、そのあと一緒に遊んでたら忘れちゃって……ごめんなさい、って謝ろうと思ってたんだけど、それから会えなくなっちゃったからずっと言えなくて……ごめんなさい!」

 舌ったらずな喋り方でそう言うと、女性はペコリと頭を下げる。

 しかし、そのエルちゃんという人物が――、無邪気だった頃の思い出を一緒に懐かしめるような親友が、今ここに居るはずもなく。

 そして、女性の言葉を耳にして、好意的な反応を返すことが出来るような人々が、この群衆の中に紛れているはずもなく。今この場に限っては、女性のたどたどしい告白は、嘲笑の対象にしかならなかった。

「おいおい。……私は、昔話を聞かせてくれと頼んだ覚えはないのだが。出来ればもう少しくらい、この場に適した話をしてはもらえないか?」

 兵士は呆れたようにそう言うが、その言葉に何かしらの反応が返されることはなく、女性はとめどなく湧き出る思い出を、次から次へと幼い口調で語り続けている。

―――――――――361―――――――――

「もしや、聞こえていないのか? 私は、先日の事件のことを弁解する機会を与えているだけなのだが。仮にもし、もう必要ないというのなら――」

 ルーツは兵士が、左手を天に向かって高く突き上げるのを見た。と同時に、周囲の兵士たちが――全く同じ服装をしているせいで、その瞬間にルーツは見分けがつかなくなってしまったのだが――集団の中から進み出た。取り巻きたちは、女性を囲むように円を作り、ルーツの眼から女性は隠される。

「なに? あなたたち、誰なの? 怖いよ。エルちゃん、お母さん、おとーさん! 引っ張らないで、痛い。痛いってば!」

 布か何かで口を押さえつけられているのか、次に聞こえた女性の声はくぐもっていた。そして既に、口調だけでなく、思考までもが退行していることは明らかで――

「やめて! 何するの! 暗い。何も見えない。エルちゃん、何処にいるの? エルちゃん、エルちゃん、助けて!」

「送ってやれ」

 冷徹な声とともに、輪が一層小さくなった。その瞬間、パラパラという乾いた音が聞こえてきて、兵士の鎧が、青い――日中でもよく目立つ青色の炎を噴き上げる。 

 そうして兵士が輪を崩して、元の持ち場に戻った時には、輪の中にいるはずの女性の姿はどこにも見当たらなかった。ただ、呪文の残骸なのか、わずかに緑を帯びた一筋の青い煙だけが、空に高く、狼煙のように立ち上っていく。

―――――――――362―――――――――

「で、もう見終わったと思うから、さっきの話に戻るけどね」

 唐突なユリの声に、ルーツは自分を取り戻した。ユリはもう、ルーツの顔を押さえつけてはいなかった。部屋の反対側にある古ダンスに、腕を組んだままの態勢で、じっともたれかかっている。

「……どうなったの?」

「嘘! 本気で分かんなかったの?」

 震える声で言うルーツに、ユリはわざとらしい声で呆れたが、あれだけ何度もどうなるか説明されたのだ。ルーツだって女性がどこに行ってしまったのか、本当は予想がついていた。だけど、それでもなお、聞かざるを得なかったのだ。

 だって、人がひとり、ルーツの見ている前で亡くなったというのに。

「それとも、あまりにも呆気がなかったから、驚いているの?」

 何も実感が湧いてこなかったから――。

「でも、人の死なんてそんなもの。とりたてて騒ぎ立てるようなことではないんじゃないかしら。……だって毎日、どこかしらでは起きていることなんだから。幸か不幸か、アンタが今まで、たまたま一度も目にしてこなかったというだけの話」

 死体がその場に残らず、女性の身体がどこかに消えてしまったことが、影響していたのかもしれない。が、それでも。

 事故にしろ、病気にしろ。ルーツは、人が死ぬ場面に遭遇すれば、何だか嫌な気持ちになるものだとばかり思っていた。それこそ、殺人や処刑みたいな、暴力的な場面なら尚更の事。目にしただけで、死ぬまで忘れることが出来ないようなトラウマを背負う羽目になってしまうんじゃないかと、内心とてもびくついてた。だけど――。

―――――――――363―――――――――

 実際は、ルーツは今、ポカンと口を開けたまま、何にも考えていないような間抜けな顔つきで、ユリを見ている。取り立てて、何か特別な感情を抱いているわけでもない。むしろ、拍子抜けな幕切れに、なんだか少し当惑していた。

 そんな中で、たった一つだけ。

 激しい感情がじわじわと湧き起こってきてはいたが、それは、人の死を見たのに平然としている自分自身のことが許せない。という、なんとも倒錯的なものだった。

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