第129話 儚げな表情

 部屋の奥へ向かい、扉を開けると、そこには、格調の高さを感じさせる赤いソファが置いてあった。だが、それは、いや、この部屋に置かれている家具の全てには薄っすらとだがホコリが積もっており、また、炊事場には水気がない。

 考えてみれば、天井が抜けている時点で、生活感もへったくれも無いのだが、ルーツはそんな細かなところばかりに目が行った。

 しかし、本当に長らく放置されていたのであれば、路地裏で出会ったあの親子のような、家を持たない人々がコッソリ住み着いていそうなものなのだが――。

 そういえば、あの親子。あれから、何処へ行ったのだろうか? 

 憲兵たちからは逃げ切れたんだろうか?

 ユリを殺そうとしていた男の行動はまったく理解できなかったけど――。

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 些細な思考が、先日の出来事に結び付き、ふたたび傷跡が痛み始めたところで、ルーツは考えるのをひとまずやめた。というより、唐突に右の足先にやって来た、鈍くて重い痛みによって、考えるのを止めさせられた。

 余りの痛みに片足で、そこらをぴょんぴょん飛び回ったあと、いったい何が起こったのだろうと、足を庇いながら周りを見ると。ルーツのすぐ目の前には、のたうつ蛇のような装飾が施されている高貴そうな廻り階段があり、右の小指は、その一段目にぶつかって、赤く腫れあがってしまっている。

 とは言っても、そうなってしまったのは、上や下ばかりに気を取られ、前を向いていなかったルーツ自身のせいであり、階段に非がない事は分かり切っていたのだが。

 ルーツは少し恨みがこもったような表情で、壁に取り付けられている見事な鹿の剥製を睨んでみては、こんなところに金を掛けるくらいなら、階段の方を柔らかくしておいて欲しかったと、人が聞いたら、何様のつもりだと怒鳴りつけたくなるような勝手なつぶやきを繰り返すことになったのだった。

 だが、それはそれとして、ルーツは、光沢がまだ微かに残っている階段の手すりを眺めながら、生活感はないけれど、と、ふたたび家の事を考える。

 確かに、人が住んでいるような気配はなかったのだが、家具をはじめ、衣服までもがそっくりそのまま残ってしまっているのだから、やっぱり空き家だとは思えない。

 もちろん、大切な財産を持ち出すことも出来ぬまま、裸足で逃げ出さなければならないような、特別な事情があったというのなら、話は違ってくるのだが。

 路地裏に住んでいるような貧乏人なら兎も角として、これ程までに広々とした館で暮らしているような人々が、そのような災難に出くわす事になるとは思えなかった。

 しかし、空き家でないとすると――? 

 ユリの知り合い、ということはまず考えられないだろう。

 ルーツが気を失ってしまったそのあとで、ユリが昔の記憶を思い出し、実はこの街の中に古くからの知り合いが住んでいたことが発覚した――、だなんて、そこまで出来すぎた展開が都合よく舞い込んでくるわけがない。

 おそらくお金は奪われて、もう残ってはいなかっただろうから、宿を借りられるとは思えないし、それならまだ、親切な誰かが自分の家に招き入れ、二人の世話をしてくれていたと考えた方が、少しは納得が行くというものだ。

 だが、助けた恩を仇で返されることになるかもしれないという危険性も省みず、見ず知らずの子どもたちに手を差し伸べてくれるようなお人好しが、このご時世に存在しているものなのだろうか。と、そんなことを考えていると、

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 ルーツは不意に、街に到着した夜に出会った、とある男のことを思い出した。あの時、お腹を空かせた二人に晩御飯を振舞ってくれた男のように、意外とこの街中には、親切な人々が多く住んでいるのかもしれない。

「それなら、変にいじくるんじゃなかった――」

 ルーツは、小さな声で独り言ち、好奇心に駆られて、手当たり次第に家具を触ろうとしていた自分を恥じた。

 もし親切心でルーツを世話してくれていた人の持ち物を壊してしまっていたら、目も当てられない。――が、踊り場まで行くと、そんな考えは吹き飛んでしまった。

 階段の先が、家ごと鋭利な刃物ですっぱりと切り落とされたみたいに無くなっている。見上げると、そこには段々になった天井――階段の続きがあって、手すりだけが雨垂れのように、ぶらんと垂れ下がっていた。

 ひどく現実感の無い光景に、事態がよく呑み込めないのだが、どうやら、この家は、二階がほんの一部を残して無くなってしまっているらしい。しかし、一階と繋がっているのは外壁だけなのに、どうして三階の床は、崩落することがないのだろうか。あまり二階に物が置いていないルーツの家だって、何本も主軸となる柱があるというのに――。

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 魔法で隠されているだけで、きっと透明な床があるのだろう。そんな都合のいいことをルーツは期待していたが、どうやらそうでは無いようで、体重をかけないようにしながら、恐る恐る踏み出した右足は空を切った。隙間から下が見えて、そんなに一階の床は遠くないはずなのに、ルーツは反射的に手すりにしがみつく。

 飛び移ることはできそうもない。ましてや真上になんて、届くはずもない。試すだけ、一度ジャンプしてみようかとも思ったが、足を滑らし、転落する未来が見えたような気がして、ルーツは自分を押し留めた。上で待っているはずのユリに助けを求めて、引っ張り上げてもらおうかとも思ったが、何だか頼んだら負けたような気がして、ルーツは意固地になる。

 何としてでも、一人で上がってやる――。

 そんな反骨心を抱いたルーツは、一度階下に戻り、えっちらおっちら椅子を運んできた。一つでは、到底届きそうになかったので、もう一つ。向かい合うように、座面を重ねると、安定はしたが、高さはあまり変わらなかった。かと言って、もう一つ重ねるのは、無理がある。机を持ってくるという案も、階段の幅を考えると現実的では無かった。

 それなら――、とルーツは椅子を逆さにして、もう一つの上に置き、脚の部分を両手でしっかりと持ちながら、座面の裏側に這い上がった。逆さになった椅子は、土台となっている椅子の背もたれに寄りかかるようにしてバランスを取っているため、非常に不安定で、ルーツが乗ると重心が少し傾いたのか、ぐらぐらと揺れる。上がったはいいが、脚から手を離す勇気も出ず、ルーツが自分の行いを後悔し始めた頃、その揺れは大きくなって、崩れると同時に、間一髪。ルーツは今にもぽっきりと逝ってしまいそうな、手すりに無我夢中で飛び移った。

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 予想以上に、三階へ続く階段までは距離がある。落ちてくれるなよ、と願いつつ足の裏で手すりを挟みながら、手を少しずつ、上に上にと動かしていく。腕を伸ばして、身体ごと引き寄せ、また伸ばしては引き寄せる。足の裏が少し擦れたが、そんなこと。落ちる恐怖に比べれば、屁でも無かった。

 幸いにも、頼りない手すりはルーツ一人を支えるだけの力は残していたようで、登る動作がようやくこなれてきたころ、ルーツは平らな床に辿り着いた。仰向けになり、肩で息をする。握る力は問題にならなかったが、精神的には限界だった。椅子が落下した時の派手な音につられて下を見なかった分だけ、何とか辿り着けたと言ったところだろう。もう一度、首を伸ばすようにして下を見ると、落下した椅子の脚は無残にも折れていて、ルーツは今度こそやってしまったと、また青い顔になる。先ほどの壁は例外だったようで、今度ばかりは、椅子は元通りになることは無かった。一度の失敗で懲りないからそういうことになる。

 ――学ばないから、アンタは成長しないのよ

 ユリの怒り顔が目に浮かび、ルーツは苦い顔で身を縮こまらせた。でも――、怒ってくれた方が、無視されるよりずっと気楽だ。

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 果たしてユリは口をきいてくれるだろうかと不安になりながらルーツはすぐ目の前にある扉のノブに手をかけた。開けると、そこには間取り的に不自然なほど、細い廊下があって、一番奥に周囲の茶色の壁と同化して、一見しただけではなかなか気づけない木扉がある。少し背伸びをすればルーツの背丈でも頭が突っかかってしまいそうなくらい小さく、閂は壊れていた。あんなに、ドタバタと音を立てていたのに、ユリは様子を見に来ることも無かったのか。扉に手をかけると、ドアはルーツ側に開いたが、目の前の扉の前に埃は均等に積もっていて、このドアがここ最近開かれたことがないということを、ルーツに教えてくれた。もちろん、誰の足形も残っていない。

 先の景色が見える。ユリは――、窓の桟に腰かけていた。ルーツが初めてユリを見た時と同じ、滅多に見せることのない儚げな表情で。


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