第二十一章 身代わり

第128話 傷跡

 気が付けば、ルーツは遠くの天井の木目をただぼんやりと見つめていた。いつから意識が戻っていたかは分からない。どうしてこんな姿勢で居るのかもわからない。

 たった今、ようやく目を覚ましたばかりであるような気もするのだが、ずっと前から、じっと一点だけを見つめ続けていた気もするような。そんなどっちつかずの気分で、ルーツは居た。

 上を見上げているのにも飽きて、少し顔を傾けると、黒髪の少女がいた。

 ユリだった。

 その後ろには、背もたれ付きの黒い椅子があり、ユリはそこに、うつむいたままの態勢で、一言も話すことなく、腰掛けている。いや、もしかすると、疲れて眠ってしまっているのだろうか。ユリは周囲を気にする様子すらも全く見せていなかった。

 それはともかく僕の方は、一体どのくらいの間気を失ってしまっていたのだろう。

 一時間くらい? それとも、半日ほどは時間が経っているのだろうか?

 血が脳まで行き渡っていないのか。

 ぼんやりとした状態のまま、そんなことを考えていると、不意に右の脇腹に――、いや、背中の辺りにも、チクチクとした痛みがやってきた。

 もっともそれは容易に我慢ができるくらいの虫刺されにも似た痛みだったのだが、だからと言って、それで済ませておけるほど、ルーツは無神経な性格をしておらず、

 服をまくって確認しようとしたところで、ルーツは自分が見覚えのない、やけに綺麗で真っ白な、高そうな衣服を着込んでいることに気が付いた。

 おまけに、手を身体の下に敷いて、眠ってしまっていたからだろうか。ルーツの両手は軽く痺れてしまっている。

―――――――――293―――――――――

 だが、それらの違和感は、背中の痛みに比べると気になるほどのものではなく。

 拳を握ったり、開いたりを繰り返していると、止まっていた血の流れが、一気に元に戻っていく気がして少し気持ちが良かったことも相まって。ルーツは自分の奇妙な出で立ちについて、すぐにすっかり忘れてしまった。

 兎も角、その手を背中の辺りにまで持って行くと、でこぼことした感触があった。

 そこで、しこりでも出来てしまっているのだろうかと、むくっと上半身だけ起き上がって、首をひねり、腰をよじり、悪戦苦闘しながらも何とか後ろを見ようとすると、奇妙な形に歪んでしまった背中の皮膚が目に入る。

 というのも、ルーツの背中は、まるで両側から強い力で引っ張り伸ばされてしまったかのように、かなりの範囲にわたって、半月型に波打ってしまっていて――

 そして、その皮膚の上に、目を凝らさないと見えないくらいの小さなバッテン模様がいくつも並んでいるのを目にしたルーツは、気味の悪さに声をあげた。

「何これ」

 自分でそう言ってから、ルーツは此処がどこなのかすら分かっていないことに気が付いた。しかし、辺りをぐるりと見渡したところで、他に手がかりとなりそうなものは残っていなさそうなので、

 ルーツは、植物の茎のような色をしている自分の背中のバッテン模様を、食い入るように今一度見つめる。すると、

『傷跡』

 無意識にそんな言葉が頭に浮かび、その瞬間。ルーツは路地裏での出来事を――、ユリをかばおうと、捨て身で、槍の前に飛び出したことを思い出した。

 思い出したら、血の気がすうっと引いていった。たしかあの時、僕の周りには大量の血が――。僕はたくさん血を流して――。

 そんなことを考えながら、ルーツは荒い呼吸になって、槍が深々と刺さっていたはずの場所を何度も撫でる。その度に傷跡は傷んだが、感触を確かめ、異物が既に突き刺さっていないことを自分の身体に教え込む事で、呼吸は次第に落ち着いて行った。

―――――――――294―――――――――

 そうこうしていると、「起きてたの?」と、透き通った声が聞こえてきた。

 いつの間にか、ユリは椅子から立ち上がっていて、机の上に置いてあるコップの中身をグイっと美味しそうにあおっていた。そしてそのまま口元を拭うと、まるで何かを見透かすような目で、ルーツの方をじっと逸らさず見つめてくる。

 その澄んだ眼差しに、ルーツは何故か動揺した。

 それで、本当は何か、もっと違うことを言いたかったような気がするのに、

「あ、ユリ。おそようさん」と、とんちんかんなことを言ってしまう。

 しかし、明らかにちぐはぐな受け答えであったにも関わらず、

「おはよう、ルーツ」とユリからは、落ち着いた言葉が返ってきた。

 その姿が、少し大人びて見えたのは、ルーツの気の所為だったのだろうか。

 長らく眠ってしまっていたせいで、こちらの目の機能の方が異常をきたしてしまっていただけだったのだろうか。

 普段と何処が違っているのかを、一つ一つ上げていけと問われると、それはそれで困ってしまうのだが、何となく。

「起きたなら、布団はそこに畳んでおいて。掛け布団は干しておいてね。それともし、よだれが垂れてしまっているようなら……、あそこにタオルが置いてあるはずだから、それで拭いて、乾かして。……シミが出来ちゃわないように、ちゃんと擦って拭き取るのよ? 全部やり終えたら上に来て。そこでまた、話をしましょう」

 そう言いながら、大きく伸びをしているユリを見ていると、ルーツはまるで、背中を鳥の羽でくすぐられているような、奇妙な違和感に襲われた。

 するとユリは、心の内に湧いて出たモヤモヤを取りあぐねているルーツを他所に、部屋の隅まで歩いて行くと、衣装ダンスのつまみに手をかける。そして――、

―――――――――295―――――――――

 いったい、どうしてしまったというのだろうか?

 まったく淀みの無い動きで、タンスの上まで飛び上がった。

 それから更に、周囲に注意を払いながらも、まるで警戒心の強い子猫さながらに、天井目掛けて、垂直飛びの要領で飛び上がり――、

 ルーツがその人間離れした動きについていけずにいるうちに、ユリはこちらの視界から既に姿を消してしまっている。 

 見れば天井の右隅には、大きな穴が空いていて、人一人くらいなら優に通り抜けられそうだったのだが、問題はそこではないだろう。

 しかも、改めて見ればその天井は、一階のものではなかったらしく、この部屋の上階が吹き抜けになっているせいで見えていた、二階の天井部分であったようなので、

 一体どれほどの力をこめてジャンプをすれば、そこまで飛び上がることが出来るのだろうと、ルーツは驚き、目を見張った。

 だが、その隠された身体能力に賛辞を述べるよりもまず先に、此処はどこだと尋ねてみるのが先決だろうとそう思い、

「ねえ、ユリ。ここ、どこなの? あれから何がどうなったの?」

と、ルーツは懸命に呼びかけてみる。

 けれども、天井の向こうに行ってしまったユリは、上に来て、と言うばかりで。更に少し声を張り上げるように呼び掛けていると、ついに返事が戻ってこなくなってしまったので、ルーツは仕方なく、言われた通りに布団を片付けることにした。

 しかし――、ひょっとすると、ユリは怒っているのだろうか。

 残念ながら、思い当たる節は、ありすぎるほどあった。

 路地裏で、その後のことも考えないで、赤鎧に抵抗しようとしたこと。ニーナを孤児にさせたくなくて、罪を犯した親子を逃がそうと企んだこと。反論するユリを押しのけてまで、自分のわがままを突き通したこと。

 そして、その結果――。あの時、確かにニーナの父親はユリのことを殺そうとしていたのだ。しかも、おそらくはお金目的で。

 ルーツがしょい込んできた厄介のせいで、本来遭遇するはずの無かった危険に巻き込まれ、果ては命を奪われかけるなんて、これは嫌われても仕方がないことだ。

 でも――、それならそれで、唾を飛ばして怒り狂ってくれれば済む話なのに。

 ルーツは、変に落ち着いているユリの表情が、少し怖かった。

 それに、普段なら今ごろは、「何時まで寝ぼけてんの!」くらいの当たりの強いお小言が、何度も飛んできていているはずなのに。

 もしかすると、感情の起伏というやつが、今見た少女には欠けていたんじゃなかろうか。なんてことを、ルーツはひとりで考え込んでいたのだった。

―――――――――296―――――――――

 が、それはひとまずおいておくとして、

 今の今まで身体を休めていたお布団を壁の方まで寄せ終えて、再度あたりを見渡すと、ルーツはこの一室に、窓が見当たらないことに気が付いた。

 いや、そう思ったのは気の所為で、窓はしっかりついていたのだが、その全ては、瓦礫の塊で塞がれて、明かり取りとしての役割を果たせなくなってしまっている。

 にもかかわらず、どうして視界が保たれているのかと言うと、それはこの部屋一帯を、光の粒のような物体が飛び回っているからだった。

 また、その他にもこの空間には、こちらの興味を掻き立ててくるような物体が、幾つもそこらに存在していて、好奇心に誘われるままに、ルーツは棚に近づいてみる。

 というのは建前で、本当はあまり機嫌がよろしくないと思われるユリの下へ、すぐに駆け寄っていくのがためらわれただけだったのだが、とにかくルーツは桃色の小瓶を手に取ると、試しに蓋をひねってみた。

 すると、液体とも、色のついた気体とも言い難い、奇妙な桃色の物体が、にゅるりとその顔を出す。そして、その途端、まるで肉を食べた直後のオナラのような、たちの悪い激臭が、あたりにモワッと立ち込めて――、

―――――――――297―――――――――

 急いで蓋をしたものの、事態はもう手遅れだった。

 視認できる臭いの塊は、空中をふわふわと漂い始め、ルーツは、背丈より少し高い位置まで上がってしまった物体を、捕まえようと手を伸ばす。

 だが、その塊は、部屋の壁にぶつかると、あれよあれよといううちに四方八方に飛び散ってしまって、

 あめ色と焦げ茶色がブロック状に並ぶ、落ち着いた色の壁面は、まるでバケツ一杯の水をぶちまけられてしまったのように、等しく派手なピンク色に染まっていた。

 その様子を見た少年は、青い顔で頭を抱え、どこかに置いてあるはずのタオルを探し、辺りを引っ掻き回してみたのだが、どういうわけか見つからない。

 しかし、もともとこの一室には、無邪気な子どもの悪戯にでも備えて、汚れを吸収する魔法でも念入りにかけてあったのか。ルーツが錯乱しているわずかな間に、壁は元の地味な色合いに戻っている。

 その後で、誰かに見られているような気がして振り返ると、こぼしてしまったはずの小瓶の中身は少しも目減りした様子がなく。

 そこで、瓶を棚まで戻したルーツは、今度こそ真面目にやろうと考えて、首をあれこれ傾げながら、上に上がるための方法を真剣な表情で探し始めたのだった。


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