第122話 私であって、『私』ではない

 体が羽のように軽かった。止まった時間の中で自分だけが動いているかのように、少女の体は目の前の女の何倍も速く、少女の思い通りに動く。捕まえようと手を伸ばしてくる女から逃れ、足元を狙って何処からともなく放たれた魔法を躱し、少女はシャーロットの元へと急ぎ走った。

 目的は忘れていなかった。後ろに迫りくる数人の気配を感じながら、少女は地面を蹴り上げ、平坦な大木の僅かなくぼみに爪を立てると、シャーロットが居る枝の上まで飛び上がる。水浴びをし終えた獣のように、身体をぶるっと震わすと、乱れた髪の隙間から大きく目を見開いた少年の姿が見えた。まだ、その手はシャーロットの首にかけられている。何か弁解したそうに、口がパクパクと動いていた。

 もしかすると、少年は本当に何かを言っていたのかもしれない。だが、少女の耳には入らなかった。少女はゆっくりと少年に近づくと、横に回り、無防備な首に手の側面をトンと当てる。少年は当惑した顔で少女を見た。少女はにっこりと笑い返す。そして、笑顔のまま少年の首を指差した。

 その瞬間、少年は口の中に誤って刺激物を入れてしまった幼子のように、舌を突き出し、声にならない悲鳴を上げた。シャーロットから手を離し、喉を掻きむしるようにして、何かを引っぺがそうとしている。

 だがその行為は、いたずらに喉を傷つけ、血をにじませるだけに終わり、少年は首を捻られた鳥のように項垂れた。そして少女はためらうこともなく、よろけた少年の軸足を蹴りつけ、バランスを崩させたところで枝から突き落とす。

 追手は下に何人も居たはずなのだが、上手い具合に落下したのか、それとも思いがけない出来事に、誰もが動くすらも忘れてしまっていたのか。肉が潰れたような耳障りな音が、時を置いて聞こえてきた。

―――――――――257―――――――――

 それと同時に耳に入ってくるのは、裏返ったような掠れ声。支えを失って倒れ込んだシャーロットを助けようとして、周囲を見渡した少女が目にしたのは、こちらを青い顔で睨みつけている女性の顔だった。しかし、どうやらこの女性は、先ほど少女を抱きかかえていた者とは別の個体であるようだ。

 少女の眼が獲物を見つけた肉食獣のように細く、鋭くなっていくのを見て、女性は制止するように両手を前に突き出した。が、もう遅い。女性が口を開くより前に、少女は懐に潜り込み、女性のお腹に手を当てて、二言三言。この世の物とは思えないような奇怪な発音で言葉を呟いていた。

 すると女性は、一瞬驚いた顔をして、それから何か言おうとして、結局何も言えずに、少女が触った場所からゲル状に形を崩していってしまう。

 一方、眼下の追手たちは口々に違うことを喚き、騒いでいた。頭を抱え、しゃがみ込んでしまった者もいる。その中で、一人だけ。皆のまとめ役らしき男が、場を落ち着かせようと、躍起になっていた。だが、ようやく追手たちが平静を取り戻しかけたところで、またもや少女が、数秒前までは女性だった粘液質の物体を投げつけると、小太りの男の肩に何度も手を当て、落ち着くようにと言い聞かせていた男は、後ろに注意を払うことも出来ず、物体は背中に吸い込まれるように命中した。

 背後から訪れた軽い感触に、男は背中を掻くように手を伸ばしたが、その直後。姿勢はそのままに、顔から崩れ、小太りの男の前で、物言わぬ藻屑と変わる。瞬く前に、もう一つ。この場には、ゲル状の物体が出来上がっていた。

―――――――――258―――――――――

 小太りの男の悲鳴が森を駆け抜ける。悲鳴は、場にいる人々の多くに伝播して、彼らは叫ばぬにしろ、各々が自分にしか理解できぬ奇行を取った。

 先ほどの少年を除けば、この中では最年少に見える若者は脅威を排除することを選んだようで、やたら滅多ら、少女に向かって、狙いを定めもせず極彩色の閃光を放ちだす。だが、それは、運悪くシャーロットの右足を掠め、安否を確かめようとしていた少女の怒りを買う結果に終わった。

 それから少しも経たないうちに、少女はごにょごにょと何かを唱え、やがて、少女の目の前に、若者とちょうど同じ大きさくらいの鋼鉄の歯車が現れる。

 出っ張りの部分には、よく研磨された両刃が付いていて、視覚的に見ただけでその殺傷能力のほどが伝わってきた。そして、少女が若者を指差すと、歯車は高速で回転しながら、魔法を撃ち終わり肩で息をしている若者の顔面目掛けて進んでいく。最後までは見なかったのだが、周囲の悲鳴が攻撃の成功を教えてくれた。

 何人かの邪魔者を排除した少女は、シャーロットの手首に手を当てて、脈を診る。が、焦っていたためか、すぐには見つからず、またその合間に何本か閃光が飛んできた。しかし、これなら避けるまでもない。そう考えた少女は、魔法の種類だけを瞬時に識別すると、後は避けようともしなかった。

 すると、たちまち棘で覆われた蔦が生えてきて、少女を後ろ手に縛ろうとしたのだが、丈夫な歯で噛みつくと、棘は生気を吸い取られたように萎びていく。

 そして、逆の手首を診ても、脈が見つからないことに業を煮やした少女が、怒りに任せて、ゲル状の物体を残らず投げつけると、二つのうめき声が聞こえ、魔法は今度こそ飛んでこなくなった。

―――――――――259―――――――――

 その一方で、何とか生きてはいるようだが、シャーロットの顔は紫に腫れていた。

 しかし、おそらくは、少年の拳で殴られた痕が生々しく残っているだけだろう。

 そう思っていた少女は、シャーロットの鼻の穴から血のあぶくが溢れ出てきていることに気が付き、青ざめる。

 これはまさか、もしやとは思うが、窒息しているのでは――?

 そう考えた少女は、シャーロットの口を開け、歯の間に手を突っ込み、生温かい液体を掻き出そうとする。だが、すぐにキリがないと判断し、胸の辺りを懸命に、何度も押さえつけた。すると、シャーロットは泥のような固形物に近い血反吐を吐き、わずかながらも身体をぶるぶると震わせる。その間、少女は、無理やりにでも眼を開けさせたら意識を取り戻すのではと、シャーロットの上まぶたを摘まんでみたりもしたのだが、現れたのが白目だったので、そっと閉じた。

 視界の端では、小太りの男が何かに怯え、また悲鳴を上げていた。あまりにも耳に障るので一瞬だけ、目をそちらに向け、何事かと様子をうかがうと、先ほど少女が投げつけたゲルが、大きな一つの塊となり、ピクピクと気味の悪い動きをしながら、男の方にゆっくり向かっていくところだった。

 立ち上がって逃げればいいのに、腰が抜けてしまったのか。男は芋虫にも劣る速さであとずさりしたまま、足からゲルにのまれていく。男を食べてしまったゲルも嫌な物でも飲み込んだと言いたげに、硬直すると、灰色に凝り固まって急速にしぼみ、最後にはミミズ大のしわくちゃな塊になって地中に潜るように消えていった。

 今や、ゲルと数人の追手たちが居た場所には、レイナと呼ばれていた女性だけが残っている。だが、その場にへたり込み、地面を右手で撫でては、左手の人差し指、中指、薬指を口に含んでガジガジと噛み、滴る血を気にせずに、自傷行為に及ぶその姿は明らかに正気でないように――。

―――――――――260―――――――――

 そこまで考えたところで、不意に思考が止まり、頭の中が真っ白になった。

 少女はとっくに女性から興味を無くし、既にシャーロットの方に向き直っていた。

 しかし、まだ私は、哀れな女性を見つめたままで――。

 私は『私』が既に、女性から目を離していることに気が付いた。それから、『私』はこの女性がレイナと呼ばれた場面を果たして見ていただろうかと思案した。見ていたのはシャーロットであって、私であって、『私』ではない。そして、自分が『少女』の背中を見ていることにも気が付いた。

 『私』はシャーロットの胸の辺りを胸骨が折れるのではないかと心配になるほどの強さで何度も圧迫し続けていた。それからシャーロットの口に『自分』の唇を持っていき、顔を離すと、血と唾が混じった液体を吐き出した。口の中に、爪でも入っていたのか、『私』は舌の辺りを少し切ったようで、しかめっ面をしたが、それでも止めずにその行為を繰り返す。だが一向にシャーロットが息を吹き返すことはなく、私がもう駄目だと諦めたタイミングで、ようやく『私』は動きを止めた。

 すると、シャーロットの眉がピクリと動く。最初は、そよ風が吹いたくらいの小さな変化だった。だが徐々に、皺が眉間に寄り、頬っぺたが膨らみ、次の瞬間、シャーロットは盛大に咳き込み始める。

 背中をポンポンと優しく叩く『私』を見て、私はシャーロットが助かったことに安堵していた。まるで長い長い物語のラストを見ているかのような気分になる。これでようやく、『私』はシャーロットと二人で遠くに逃げられるのだろうか。

―――――――――261―――――――――

 だが、『私』は不意に手を止めると、まだひとりでは立ち上がれないシャーロットを枝の上に残し、『自分』は高所から地面に向かって、何の躊躇いも無く飛び降りた。両足から着地していたのだが、幸運にも何の怪我も追わなかったのか、指を噛んでいるレイナの方へと歩いて行く。

「シャルを守るためだから、仕方がないの」

 『私』はレイナの額に指を突き付けながらそう言った。

「わかってね。本当は、『私』も殺したくなんかないんだけど」

 しかし、言葉とは裏腹に、『私』の声は、重い枷から解き放たれたかのようにうっとりとしており、口からは今にも蕩け堕ちてしまいそうな甘い吐息が漏れていた。

「邪魔をするからだよ。誰かを殺そうとした者は、殺されても文句が言えないの。悪い子は、殺さないといけないの」

 自分の指を噛むことに熱心なレイナに、戦う意思は残っているのだろうか。私はそう、疑問を持つ。だが、喘ぎ声交じりの感極まった声で、一音一音、押し出すように喋る『私』は、もはやレイナのことを見てすらいなかった。身体を震わせ、頬を上気しきったピンク色に染め、突き付けているのとは別の手で『自分』の胸をギュッと掴んでいる。魔法を撃ったらどうなってしまうのか、知りたがっている。

 私には『私』の姿が、好奇心を追いかけた末の成れの果てであるように見えた。今、目の前にあるのは、渇き切った欲望を満たそうとしている者の顔。ひどく醜い者の顔――。そして、何の前触れもなく小さな爆発音がして、私は次の瞬間、指の先から白い煙を出している『私』を見ていた。

―――――――――262―――――――――

 レイナは忽然と姿を消していた。いや、それは私の願望だ。レイナは消えたのではない。『私』に消されてしまったのだ。直後に、漂ってきた『私』の感覚が、その事実を物語っていた。

 『私』は黄金色のとても美しい景色を見ていた。音がすっかり消え去った世界の中で、少し前まで感じていた苛立ちも、悲しみも、どこか遠い所へ行ってしまった世界の中で、ただ幸せに包まれていた。全てを忘れ、意識をとろかせながら、何のストレスも感じず、揺蕩っている。

 ああ、やっぱり私は殺すのが好きだったんだ――。

 『私』はしばらくその快感を堪能していたが、おもむろに周囲を見上げるように首を回すと、何かに気づいたようで目を細め、舌なめずりをし、重なり合った枝葉の中に、閃光を狙い打った。

 すると、おそらくは、城との連絡役として、今までずっと隠れていたのだろう。先ほどまで『私』とシャーロットを取り囲んでいた八人とはまた異なる女が、頭を下にして落ちてくる。しかし『私』は、意識を失っている様子の女を特に受け止めることもなく、そのまま地面に衝突させ、奇妙に折り曲がってしまった手足にとどめとばかりに、もう数発、閃光を打ち込んだ。

 女の身体は何度か力なく宙に浮いて、『私』の思いのままに弄ばれる。玩具のように使い潰される。そして見えてきたのは――ああ、またあの、上気した顔。

―――――――――263―――――――――


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る