第121話 奪われる前に

 声にならない声が漏れた。シャルは視界の中でぼやけ、二重に見えたりした。シャルはまた、私を守ってくれていたのだろうか。守ったから、抵抗したから、首を絞められているのだろうか。おとなしく渡せばよかったのに。私に守られるほどの価値はないのに。本当に馬鹿だ。私もシャルも。

 私が見知らぬ男を倒すのを恐れたから。全力も出さないで、目を背けたから。その代わりにシャルは死ぬ。私があの時、殺していれば、命を落とさずに済んだのに。

 出会ったばかりの、どうでもいい奴の一人や二人。殺すべきだった。何も考えずに殺すべきだった。代わりにシャルが死んでしまうくらいなら、殺してしまうべきだった。誰よりも長い時間を一緒に過ごしてきたシャル。どうして、替えの利かないその命を失うことよりも、見知らぬ者の命を奪うことに恐れを抱いていたのだろう。

 そう考え、少女は一時でも敵に対して躊躇した自らに怒り、心の中で罵倒した。

 命に優劣は存在しない。以前、目にした書物にはそう書いてあったけれど、シャルを失うくらいなら――、大切な人の命と、名前も知らない赤の他人の命が釣り合うわけがない。あんな男より、シャルの命はずっと重いに決まっている。

 その赤の他人にも大切な誰かが居ることには気づかなかった。少女の心は揺れていた。急に感情が込み上げてきて、涙がにじんだかと思うと、次の瞬間には不自然に落ち着いている。そして、またすぐに感情の爆弾が心の中で破裂した。怒りと悲しみと自責と逃避。ひっきりなしに異なる感情が湧いては、制御できぬまま消えていく。

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 シャルがせっかく、私を逃がそうとしてくれたんだから逃げないと。でも――、逃げる? シャルを置いて? 確かに、一目散に逃げ出せば、逃げ切ることは出来るのかもしれない。だけど、それだとシャルは助からない。あのまま、首を折られて死んでしまう。ひとり寂しく死ぬことになってしまう。

 ひとりは嫌だ。もう、ひとりは嫌だ。広い世界を見に行きたくて外に出たっていうのに、また暗い城の中に連れ戻されて、その挙句に、友だちまで失うなんて嫌だ。シャルが来る前の日々に戻るなんて絶対に嫌だ。

 そう考えていると、少女の頭に、シャルがやってくる前の映像がぼんやりと浮かんできた。少女は、何も喋らない人形に向かってひたすらに語り掛け続けていた。まるで、本当の友だちのように接し続けていれば、いつかは反応を返してくれるようになるのだと、そう信じているかのように。

 お父さん役と、お母さん役と、兄弟役と、それから友だち役。役割を決めて、ごっこ遊びをすれば、いつかは本物の家族が訪ねてきてくれる。そう願い、少女はぬいぐるみに囲まれながら、一人で遊んで、毎日運ばれてくる食事を一人で食べていた。だけど人形は、何年経っても、うんともすんとも言ってはくれなかった。

 何で喋らないの! と一人で勝手にイライラして、ぬいぐるみを壁に投げつけて壊し、中から綿が飛び出てしまったのを見て大泣きしたこともある。夜には寂しいと言ってよく泣いた。それでも、部屋には誰もやってこなかった。

 病気の真似事をしても。ずっとベッドから体を起こさず、同じ姿勢を保ち、死んだふりをしても。何日経っても部屋の扉は開かなかった。

 そのうち少女は空腹に負け、いつの間にか部屋の中に出現していた食事を泣きながら食べた。このまま一人で生きて、孤独に死ぬのだと思っていた。自分が死んだとしても、誰も気づいてくれないのではないかと本気でそう考えていた。本当に、この扉の向こうに自分と同じ姿をした生物がいるのか疑っていた。シャルが来るまでは。

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 シャルが死んだら、私は部屋の中でシャルそっくりの人形を作るのだろうか。そうすれば私はいつまでもシャルと一緒にいられる。私だけの、裏切らない、どこにもいかない、死んだり老いたりしない、従順な友だち――。

 いや、違う。本当は分かってる。そんなの友だちじゃない。シャルが死んでしまったら、私はまた一人ぼっちになってしまうのだ。そしてもう誰も、私に会いには来てくれなくなってしまう。今度こそ、この狭い世界でずっと一人ぼっち。

 殺さなきゃ。私が殺さなきゃシャルは死ぬんだ。だから殺すのはいいことなんだ。少女は自分にそう言い聞かせた。誰かが、私からシャルを永遠に奪っていこうとしている。だから殺す。奪われる前に殺す。敵を殺して何が悪い。

 誰かを殺す覚悟なんて無かった。殺される覚悟も無かった。でも、覚悟なんてなくたって、生きているんだから殺せるはずだ。心臓が止まれば、呼吸が出来なくなれば、脳が無くなれば、臓器が無くなれば、血を抜けば、潰せば、切り裂けば、爆発させれば、魔法を当てれば、簡単に殺せる。殺すことが出来る。

 私を抱いているこいつも、連れ帰ろうとしているこいつらも。全部、友だちじゃない。私の敵だ。友だちを殺そうとする私の敵。お父さんもお母さんも、先祖も、子孫も、全部、全部、全部。私の友だちを殺そうとする者は――私の敵だ。殺す覚悟がある者は――殺さなきゃ。

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 殺す、殺す、殺してやる! 眼の奥が熱くなり、狂気じみたどす黒い感情がひっきりなしに湧き出ては、少女の思考を黒く染めていった。あいつらは、私から何もかもを奪っていくつもりなんだ。憎い。憎い! 全部、敵だ。殺すべき敵なんだ!

 乱れた黒髪が頬を撫でる。身体の内の内、更に奥からうねりを伴った熱い感情がやってきて、汗がどっと吹き出し、目尻には塩辛い涙が溜まっていく。その途端、焼けつくような鋭い痛みが脳のてっぺんを貫いた。視界がカチカチと高速で点滅し、火花が散る。呼吸の方も、はっはっという獣があえぐような、切れ切れのものへと変わっていく。食いしばった歯はひっきりなしに鳴り、今や、発汗は全身にわたっていた。そして、息をするたびに、響いてくるのは更なる痛み。痛みは怒りになり、怒りは憎しみへと変わった。少女の全てを憎しみが支配した。と、ともに、シャーロットの首を絞めている少年の姿がひと際大きく見え始め――、その瞬間、少女は誰かに、耳元で囁くように笑いかけられたような気がして、笑い返す。

 もう、何かを懼れることもない。もう、感情を抑える必要もない。

 全てを感情に任せると、空に向かって高らかに、少女は獰猛な声でひと鳴きした。そして、その声に驚いた、少女を抱きかかえている女が慌てて下を見たのを最後に、シャーロットの前で笑顔を振る舞いていた少女は死んだ。

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