第123話 楽しいこと

 全てが終わった。『私』は、這うようにして枝から地上の様子をうかがおうとしていたシャーロットの方をじっとその目で見つめていた。

 そして近寄り、背負いあげると、今度は割れ物でも扱っているように慎重に地面までゆっくりと降りていく。

 どうやら、シャーロットが喋れるようになるには、まだ時間がかかるようで、その間、『私』はシャーロットの傍に立って、辺りをずっと警戒していた。

「お嬢様、これはいったい――」

 しばらく待っていると、掠れた音が聞こえてきた。喉を抑えながら、シャーロットが絞り出すような声で『私』に話しかけている。

「シャル、大丈夫?」

 『私』も、シャーロットの意識が戻ったことに気が付いたようで、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「一体、何がどうなって――」

「シャルは何にも心配しなくていいんだよ。もう、シャルを傷つけるものは誰もいないんだから」

 『私』がシャーロットの髪をかき上げている。先ほどまでとは一転、落ち着いた様子になっている『私』の変わりように、シャーロットは困惑しているようだった。

―――――――――264―――――――――

「彼らは、追いかけてきていた人たちは……どうなったのです? 無事に、逃げ切れたんですか?」

 時おり、耐えがたい痛みが襲ってきているのか、唇を強く噛んで平静を装うとするシャーロットを見て、『私』は彼女の腫れあがった喉を軽く擦る。それで、彼女は話を止め、縮こまって小刻みにプルプル震え出してしまった。

「シャル。強がらなくても、『私』は大丈夫だから。貴方はそこでもう少し寝ていて。本当は、喋るだけでも辛いんでしょう?」

「は、はい。すみません」

 咄嗟に、『私』の手を払いのけてしまったシャーロットは謝ろうとしていたが、『私』は既に彼女の方を見てはいなかった。『私』はまた、遠い所を、すっかり闇に呑まれてしまった黒い空を身動きもせずに見つめている。だから、シャーロットには――、素直に『私』の言うことを聞いて地べたに横になっていた彼女には、『私』がどんな顔をしているのか分からなかったろう。だが、私は――。

 私は『私』を見た。『私』は――、とても嬉々とした表情を浮かべていた。

「お嬢様、ところで本当に追手たちは――」

 『私』が空を見上げたまま動かなくなって少しの時が流れ、ようやくシャーロットは再び『私』に話しかけた。今度は、傷ついた喉を自分の手で覆いながら。片目をつむって痛そうに。

 すると、『私』は急に笑みを崩し、両手を微かに震えさせた。そして、そのままくるっと振り返り、シャーロットの、骨がいくつも折れてしまった頼りない手をギュッと握り込む。

―――――――――265―――――――――

「追手たちは、もういないよ。だから、本当にシャルは安心していいんだよ」

 言葉通り、安心させるかのように、『私』はシャーロットの手を力強く振ったが、それは深手を負っている彼女にとっては拷問以外の何物でもなく、再び予期せぬ痛みを味わったシャーロットは今度こそ悲痛な叫びを上げて、悶絶した。

「お嬢様、痛い、そこ痛いです」

 しかし、『私』は、その叫びには一切構うことはなく、一番怪我の様子が酷そうな右手の薬指をつんとはじく。

「ねえ、シャル。貴方のこの指、どうなっているの? ぐにゃぐにゃになって、原型すらも無くなっちゃているんけど、それでも痛いの?

 すっごく、ドキドキするなあ。中身はどうなってるんだろう……って、ごめん、ごめん。いないって言葉だけじゃ、安心できないよね」

「痛い……です!」

 シャーロットが無理にでも引き抜こうとしなければ、『私』は、いつまでも触っていたのかもしれない。

「うん、シャルを傷つけようとする人たちは全部消しちゃったから。もう絶対に襲ってはこないと思うよ」

 『私』のその言葉に、シャーロットの眼はしばし泳いだ。

―――――――――266―――――――――

「消したって……もしかして――」

「うん? 多分、死んじゃったんじゃないかなあ。もしかしたら、生きているのかもしれないけど。なんか、妙に手応えがない人たちが多かったし。でも、何人かは確実に殺したよ。ほら、そこ見て、シャル! 『私』が一人でやったんだよ!」

 自分の成果を誇るように語る『私』に、シャーロットはほんの一瞬だけ驚愕の顔を見せ、それから痛みに耐えかねるかのように、ポロポロと泣き出してしまう。

「シャル、どうしたの? やっぱり痛むの? でも、魔法なら簡単に魔法で治せるけど、力任せに折られた骨はどうにもできないし……」

「違います。本当なら、本当なら私がやらなければいけなかったのに、私が不甲斐ないばっかりに――」

「何のこと?」

「何のことって、それは――」

 木の上から突き落とされた無残な少年の残骸を目にしたシャーロットは、責任感からか、それとも肉片自体に嫌悪したのか、とにかく嗚咽を零した。

「お嬢様にこんなことをさせてしまって、私が全部背負うべきだったのに」

 ふたたび、自らを責め、すすり泣く。そんな彼女を『私』は不思議そうな顔で見下ろしていた。

―――――――――267―――――――――

「何を言ってるの、シャル? 誰も貴方にそんなことは頼んでいないわよ」

「頼んでいなくとも、私はお嬢様の側仕えですから」

「貴方の任務は、『私』と友だちになること。『私』を守ることじゃない」

「ええ、分かってはいますけど、やっぱり――」

「ましてや、『私』の楽しみを奪おうとするなんて、側仕え失格じゃないの!」

 その、たしなめるような言い方に、シャーロットは絶句した。

「楽しむって……、それは、どういうこと――」

「文字通りの意味よ。こんな楽しいことを隠していたなんて。最初に教えてくれたら良かったのに」

 聞き違えかと、戸惑っているシャーロットに、『私』は堂々と言い放つ。

「逃げ惑う表情、絶望した顔。確かにあの男は気に入らなかったけど、ここだけは共感できるわね。……あいつ、もっとたくさん楽しいことを知ってるのかしら。だったら無理やりにでも聞いておかないと。今なら、まだ森の中にいるのかなあ。いま捕まえておかないと、後々悔やむことになりそうだし――」

―――――――――268―――――――――

「お嬢様!」

「なあに、シャル。まだ横になってないと駄目じゃない」

「私のことなんて、どうでもいいですから。それより今の、どういうことですか!」

「どういうことって? シャルは楽しくなかったの?」

「まさか……、私を試しているのですか? それなら、今すぐ止めてください。消したって――、まるで殺しを遊びか何かみたいに――、お嬢様に限って、まさか――」

「何が言いたいか、ちっとも分かんないんだけど、つまりシャルは面白くなかったってことでいいんだよね。まあ、誰にも好き嫌いはあるから別にいいけど。せっかく、二人で楽しめると思ったのに」

「まさか、魔法に――」

「シャルまで、あの男みたいなことを言うのね。いい、『私』は至って普通よ。むしろ、普段のんびりと本を読んでるときよりずっと冷静。走り切っていい汗をかいた後みたいに、充実感に包まれてるの。すっごく、気持ちいい。こんな魔法があるのなら、毎日かけてもらいたいぐらい」

 迷いが吹っ切れたような顔。長年の心のつかえがとれたような顔。ようやく願いが成就した時のような、解放された顔。

 私が見ているのは、私自身。私が知らない私の顔。

―――――――――269―――――――――

「確かに一方的に獲物を追いかける――、狩りって言ったかしら? これは、あの野蛮な娯楽とは根本から違うわね。実力が拮抗していれば、自分も追いかけられる側に回ることもあるだろうし、同族と戦いたいって言うのは、そのスリルを楽しみたいっていう理由なのかしら。まあ、私は追いかけられる側になるのはごめんだけど。他人から付け狙われるなんて……想像しただけでも嫌んなる。対等よりほんの少し弱いぐらいが一番面白いんじゃないかしら。獣と戦えば、確かに負ける心配はないけれど、それだとあんまり面白くないし。それなら、ますますあの人に話を聞かないと。今までどうやって殺してきたのか――」

「お嬢様‼」

 今度はシャルが自分の世界に入りかけていた私の肩を揺さぶった。身体の痛みを気にもせず、正気に戻るよう呼び掛けてくる。

「だから、さっきから何なのよ、シャルは!」

 私は大袈裟にため息をついて、シャルの手を苛立たし気にどかす。だが、シャルは引かなかった。


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