第119話 馬鹿のままでいられたら
思えば、シャーロットは死について、まともに考えてみたことが一度も無かったのかもしれない。もちろん、死んだ生き物がどうなってしまうのか。それを知らなかったわけではないのだが。
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幼いころ、一緒にいた鳥が死んだとき、シャーロットは遺骸を土に埋めて、小さなお墓を立てている。だが数年後、とある衝動に駆られてお墓をせっせと掘り返した時には、鳥は影も形も見当たらなかった。小鳥さんが盗まれちゃったと嘆くシャーロットに、母は、小鳥さんは土の中の生き物たちに食べられちゃったのよ、と現実的なことを言い、父は、お前の小鳥は大きな流れの中に戻ったのだ、とよく分からないことを言った。それで、シャーロットは比較的よく分かった母親の言うことをふんふんと聞いて、世の理を理解したつもりになった。
死んだ者が二度と生き返らないことは知っている。死んだあと、土の中で腐っていくことも、分解されていくことも、今のシャーロットは知っている。知識として、見聞きすれば得られることから目を背けてきたわけではない。
だが、昨日までのシャーロットにとって、死というのは、じんわりと病気の背後から忍び寄ってきて、長い時間をかけて生者を引きずり込んでいくものだった。死というのは、病気をこじらせてしまったご老体の方などに与えられるもので、健康な自分や身の回りの人などに無作為にやってくるものではないはずだった。だから、こんなふうに、ある日突然やってくる死を、シャーロットはまだ知らない。
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死ぬ気で頑張る。死ぬ気で戦う。死ぬ気で守る。死ぬ気で、仮に死んでも構わないから――。そんな台詞は死が現実的ではないからこそ、死とかけ離れた場所にいるからこそ吐ける無責任な言葉だったのかもしれない。恐怖の底でシャーロットはそう感じた。死なないと思っているからこそ、死ぬ気で、なんて軽々しく言えるのだ。スケールは違えど、信用性の無さでは、一万年先の予言をしているのとそう変わらない。失敗したら死が待っている。仮にそんな危険な任務に携わっていたならば、死なんて言葉。それこそ死んでも口に出せやしないだろうに。
今朝までは、そして急激に変貌した事態に振り回されていた遂先ほどまでは、シャーロットもそうだった。現実的ではなかったからこそ、まるで夢の中にいるように、死んでも守りますと、少女に誓えた。だが、自分の中では何より固く、崩れ難いと思っていたその誓いは、ひょっとすると、何より薄っぺらい物だったのかもしれない。
事実、一度恐怖に突き落とされただけで、シャーロットは誓いそのものを忘れ去ってしまっている。怯えた目で、自分の首を絞めている少年を見つめるシャーロットの姿は、森の入り口で出会った男が追い求めていた死を確信した同族そのものだった。違うのは、たとえ立ち向かっていく心意気があったとしても、もう既に、たった一本分の指を動かすことすらも出来なくなってしまっているという真実だけ。
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そんなことを考えていると、不意に目の前がじんわりとぼやけた。しかし、今度は涙によるものではない。恐怖と、本来なら感じているはずの痛みの中で意識がかすんでいってしまっているのだ。おそらく、ここで眠りに落ちてしまえば、もう戻ってくることは出来ないのだろう。だが、そうは言っても、どうすることもできなかった。
シャーロットは咄嗟に、自分の首を絞めている少年に助けを求めかけ、同時に、例え今この瞬間、体の制御が自分の手に戻ったとしても、もう二度と立ち上がれないだろうと、そう確信する。死の恐怖を知ってしまった今となっては、命知らずに立ち向かっていくことなんか――、死ぬ気で向かっていくことなんか出来やしない。
逃げてしまいたかった。目の前にある全てのことから。そして、人生の全てから。死の恐ろしさを知ってもなお、向かっていくことが出来る者がいるのなら、それはよっぽどの死にたがりか、それとも洗脳でもされてしまっているのか、もしくは、恐ろしさという感情すら分からないほど、馬鹿であるかのいずれかだ。それなら、馬鹿のままでいられたらよかったのに。死が怖い物だと知らないまま、少女のために身を投げ出して、イレートスが来る前に死んでいられたら、どんなに良かった事だろうか。
だが、死んだらどうなってしまうのか? 命が尽きる寸前で、壊れていく自分の身体に、死に瀕した小鳥のやせ衰えたボロボロの姿を重ね合わせたのか、シャーロットはそう考えてしまった。今、あれこれと不毛なことを考えている自分の精神は、死んだ後、いったいどこに行ってしまうのか。肉体と同じように土の中で無くなってしまうのか。それとも、思考だけは残るのか。考え始めたら止まらなかった。
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そんなことを考えなければならないのは、ずっと先だと思っていた。老いさらばえて、寿命から来る病気の床についてからでも十二分に間に合うと、そう思っていた。
考えれば考えるほど恐ろしくなってくるような問題に囚われて、貴重な時間を無駄に過ごしてしまうのは実に愚かな行為だろうと、そう考えて、シャーロットは自分の中の疑問にまともに取り合おうとしてこなかった。
考えたところで何かが変わるわけじゃないんだから。そう思っていた。まだまだ先は長いんだし、私には色んな可能性があるのだからって。そう思っていたのに――。
今は、一秒、一秒ごとに、全ての可能性が奪い去られていくような気がする。今朝までは、時間はたっぷりあるものだと思っていたのに、気が付いてみれば残された時間はもう数えるほどしかない。今まで浪費していた、あの一秒を返してほしいと、シャーロットは切に願っていた。全身の感覚を失って初めて、生きている。この世で、少女とイレートスと、そして――、全ての出会いも、自分の存在も奇跡だったと強く実感する。自分が無くなってしまう。永遠にシャーロットという存在がこの世から消えてしまう。恐怖が全てを圧し潰して、シャーロットは初めて、恥も外聞も立場も全部捨てて、真剣に死を正面から見つめた。あと一分、いや、あと一秒永らえるためなら、どんな禁忌でも破れる。どんな苦しみも受けて立つ。むしろ、苦しみすら愛おしく感じる。死の先には、いったい何が待ち受けているのか。もしそこが、今のように痛みも感覚も何も感じない、意識さえも無い世界だったとしたら――。
あの少年があと少し、力を掛けただけで、鼓動を立てている心臓は、こうして考えている頭も、体も、全てが消失してしまうのだ。
誰も知らない世界へ、どんなに偉い学者様でも知り得ない、未知の世界へ行かなければならないことが、ひたすらに恐ろしかった。
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が、次の瞬間、意識の混濁の中に、少年の姿がすっかり消えると、シャーロットは一瞬前まで抱いていた恐怖が遠く彼方に消え去っていくような心地になっていた。何故か、意識が鮮明になっていき、辺りの景色がはっきり見える。木々の隙間から空が見えた。燃えるように橙に染まっている。綺麗な夕暮れ――。
あの真っ黒な鳥さんのように、大きな翼があったら、簡単に遠くまで行けるのに。
不意に意識が抜け出ていくような感覚があった。背中がゾクリとひどく震える。私は、イレートスのことを、鳥さんなんて呼ばないはずなのに――。
首をひねっていると、眼下に自分の体が見えた。少年に首を絞められて――、赤い泡が口から顎の方へと垂れ落ちている。
シャルを助けに来た鳥さんの名前、なんて言ったんだっけ?
ずっと前に教えてもらったはずなんだけど――。
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宙をゆっくり、漂っている感じがした。体に縛られず、自由になって、どこまでも飛んでいけそうな、そんなワクワクした気分になる。
数瞬前まで無性に何かを恐れていたような気がするのだが、それが何なのか、ということさえ、もう思い出すことは出来そうにも無かった。
名前を教えてもらったって……、誰から? あれ? 可笑しいな。忘れちゃった。
怒りの感情が流れてきた。だが、これは純粋な怒りではない。確かに先ほどまでは怒りに包まれていたのかもしれないが、今にも死にそうな目の前の女性の首を絞めている少年は、半分楽しんで首を絞めていた。
そして、その少年の隣には、暇を持て余している感情の持ち主が一人いる。少し離れた地面の上にも、感情の塊が一つ、二つ。合わせて七つ。
地面に寝かされているエプロンドレスを着た女の子は、どうやら怖い夢を見ているようで、支離滅裂な感情が伝わってきた。近寄ってみると、一人の女性が――、自分の娘なのだろうか? この中ではひと際小さな女の子を抱いている。
女性はその子に自分たちがしていることを見せたくなかったのか、手で目隠しをしていたが、枝の上の出来事にかまけているせいか、その手は半分ずれ落ちて、片目が見えてしまっていた。
だが、その女の子は、枝の上を見ているわけではなく、かと言って、目をつむっているわけでもなく、どこか遠い所を揺れる眼差しで見つめている。
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それにしても、腕に抱かれた小さい女の子から伝わってくるのは不思議な感情だった。絶望を無理やり忘れようとしているような、そんな感情。けれども、現実からすっかり逃げてしまったというわけではなく、どこかで自分に責任を感じて、誰かを助けようと、もがいてもいる。……まだ、こんなに幼いというのに。
この女の子の事をもっと知りたい。もっともっと知ってみたい。どういうわけかそう思った。すると、女の子の小さな体の中に吸い込まれるような気がしてきて――、
女の子に近づくたびに、もやに包まれていた彼女の感情は事細かに読み取れるようになっていく。そして、手で触れられる距離まで近づいて、首を絞められている可哀そうな女性からすっかり離れた時には、
何も聞きたくない。何も見たくない。でも、暗闇はもっと怖い。目をつむったら永遠に一人ぼっちになってしまいそうな気がする。
シャーロットは、少女になっていた。
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