第118話 一世一代の冒険

 自分一人の力では生き残ることはできない。生き残るために出来ること、そう問われて出したシャーロットの答えがこれだった。死ぬ気で挑めば助かるなんて――、そんな都合のいい奇跡を信じる気にはなれなかった。

 少女が助けてくれなければ、シャーロットは此処で死ぬ。八人相手に逃げられないのは、自明の理であり、これは変えられようのない現実だ。

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 となると、するべきことはただ一つ。放心状態、そして、そうなってしまっているのはシャーロットが頼んだせいなのだが、視界も塞がれた状態にある頼りの少女の意識を呼び戻すこと。そこまで分かれば、自然と絵図も描けてくる。

 心を引き戻すには、そして意識が正常に戻るより前に、異変に気付かれ、少女を連れ去られないようにするためには、少しの間だけでいい。大きな騒ぎを引き起こして、少女の聴覚に訴えつつ、今この場にいる全員の注目を引きつける必要があった。が、本職の方ならともかくも、遠くから魔法を放たれれば、一言いう間もなく死に至る身体にとって、その数秒を作るのは不可能に等しい。

 だから、最大まで接近した状態で、不意を衝き、人質をとる。シャーロットは一番に思いついたこの方法が、唯一無二のやり方だと確信していた。

 しかし、もし、木の上まで上がって来たのが、最初に声をかけてきた男のような、気のゆるみを生じさせない人物であったならば、どうあっても上手くはいかず、そこで、シャーロットの一世一代の冒険は終わっていたことだろう。

 近づいてきたのが、年端も行かない少年だった事。そして、その家族と思しき女性が、攻撃をためらってくれた事。これは風向きが変わりつつある兆しなのだろうか。

 全ては、シャーロットの都合のいいように動き始めているように見えた。だが、上手く行っているとは言っても、命の綱渡りを続けている状況に変わりはない。


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 後頭部を力一杯殴りつけられ、口の中の出血と、鼻から出てくる温かい液体が混じり合った。シャーロットの鋭い犬歯が貫いた少年の脇腹からは、ひっきりなしに夥しい量の血が噴き出して、窒息を懼れたシャーロットは喉を鳴らす。生暖かいドロドロとした液体が、垢のような小さなカスとともに食道を下ったが、気持ち悪さなど覚える暇も無く、シャーロットは懸命に、脇腹を噛み続けた。

「痛い、痛いよ。姉ちゃん……こいつ、離せよ、はなああっ」

 ちょうどその時、ひと際深く犬歯が刺さったのか、少年は甲高い悲鳴をあげた。 

 あちこち折れたシャーロットの腕は、もう少年を捕まえておくことが出来なくなっていて、それに気づいた少年は、腹に幾度も膝蹴りを入れて、逃れようとしていたのだが、執念と咀嚼力だけで、シャーロットはしがみついている。

 二人の身体は木に繋がれたままの片手を軸に、独楽のように、だが不規則にくるくると回っていた。一度呪文が飛んできたのだが、目測を誤り、少年の背中に当ててしまったのか。息を呑むような声があがったあとは、もう追手達は誰も動かない。

 もっと、悲鳴をあげて欲しい。

 そう考えながら、シャーロットは、より深く、えぐるように歯を突き立てていた。そうしていれば、異常に気付いた眠り姫が、正気に戻ってくれるだろうから。

 誰も諦めてなんかいない。だから帰ってきて。

 そう思いながら、石像のように、遠くを見つめたまま動かなくなってしまった少女が、自分を取り戻してくれることを願い、殺すつもりで噛む。

 右顎を殴られ、どこかの歯が一本欠けてしまったのだが、それを無理やり飲み込んででも、シャーロットは少年を放さなかった。

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 が、突然、背中に大きな衝撃が走った。それから、何かが浸透していくような気味の悪い感覚が背中からじんわりと広がっていく。すると、少女が自分を取り戻すまでは、手足を失っても口を開けるまいと、そう固く決心していたはずなのに、急に力が入らなくなった。顎だけではない。全身が弛緩していくような気がする。そして、歯が浮いて――、怒りに燃えた少年の顔が離れていった。シャーロットは使い物にならなくなった黒ずんだ右手で掴もうとしたのだが、腕はピクリとも動かない。

「なるほど、なるほど。確かに魔法を使わずとも、力の弱い女が健全な肉体に致命傷を与えることは可能なようだ。血流を断ち切れば、簡単に対象を死に至らしめることが出来る。だが、残念だよ。場数が足りないせいかな。君はあまりにも知らなさ過ぎた。南方に住んでいる人間なら、さもありなん。僕らは、喉仏に食いつかれても死にはしない。ヴェンコフは確かにとろいし、君と同じで場数も踏んでいないが、血の止め方くらいは知っているだろう。腕の一本や二本、切り飛ばされたところで、失血死には程遠い」

 梢から振り落とされ、少し離れた所で見物していた男がそう言った。どうやら、酷い傷を負った少年を助けるつもりはないらしい。姉と思しき女――レイナが少年に駆け寄っていったが、高所から落下し、怪我の箇所を更に損傷させたヴェンコフは、助けはいらないと、一人で立ち上がり、レイナを睨んでいた。

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「手え出したな、姉ちゃん!」

「手出ししたって……痛い、痛いよ、ってあんたが叫んでたからでしょうが!」

「だからって、麻痺させたら、もう反抗してこれないじゃん。折角、面白くなってきたところだったのに!」

「あんた、仕事を遊びと勘違いしてない? これは旦那様からの命令なのよ。それに、あんたときたら、あんな女に明らかに苦戦してたじゃない!」

「それは姉ちゃんが、誤射して僕の背中に一発当てたからだろ!」

「二発目はちゃんと当てたからいいでしょ。狙いをつけるのに時間はかかったけど」

「だから撃つなって言ってんの!」

 シャーロットにとっては、これが致死性の毒でないならば、麻痺だろうが、何だろうがどうでもいい話だった。下がっていく瞼に、なけなしの力を注ぎ、シャーロットは少女の様子を俯瞰する。意思を取り戻してくれてさえいれば、後はどうでも良かった。少年の脇腹の血は、傷口が塞がってもいないのに止まっている。が、別に死のうが生きていようが何の問題も無い。少年には、悲鳴を奏でる楽器になってもらっただけなのだから。

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「僕に殺させてよ、姉ちゃん。あいつ、僕の腹、噛んだんだよ。姉ちゃんが殺したいのは、分かるけど。ね、いいでしょ?」

 が、レイナの手の隙間から見える少女は、シャーロットを見てはいなかった。少女の意識は此処には無い。空の彼方に行ってしまっていた。

 こんなに死に物狂いで抗ったのに、少女の絶望は予想よりもずっと根深い所にあったようで、作戦の失敗を悟ったシャーロットは足元が崩れ去っていくような感覚に襲われる。だが、そもそもシャーロットの足元にはもともと地面すらなく、麻痺させられた顔面は、表情を変えることすら許してくれなかった。

 注目が向いていない今なら逃げ出すこともできるだろうに。この肝心な時に――。シャーロットは一人で現実から逃げてしまった少女を、恨めしく思っている自分に気が付いた。努力が報われないとき、人は何かしらを恨むものなのだろうか。

 それでも、此処で諦めてしまったら、イレートスも自分と同じような報われない気持ちになるのかもしれないと、シャーロットは枝に向かって手を伸ばし、隙あらば再び噛みつこうとした。だが、シャーロットの緩慢な動きより、復讐に燃える少年の方が、遥かに早かった。

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 姉の承諾を得た少年は、怪我をかばうこともなく、あっという間に腕の力だけで木を登り、今度こそ、機敏な動きでシャーロットを一気に引き上げる。そして、自分が噛み千切ぎられた脇腹とちょうど同じあたりを、力任せに殴りつけた。何度も、何度も。規則的な間を置いて殴りつけてくる。

 だが、痛覚が麻痺してしまっているせいか。時を打つ大時計のような、重くて鈍い音色が頭の中から響いてくるだけで、シャーロットには、痛みも、殴られている感触すらも、ほとんど伝わってこなかった。

 締まりがなく開いた口からは、よだれなのか、胃液なのか、それとも少年の血液なのか。いろんなものが混じり合った液体が、ねっとりと糸を引いて垂れ落ちて、全身からは、命の源である血液がこぼれ落ちていく。

 この血、一滴一滴が私の明日なのだ。明日が、明後日がこぼれて無くなっていってしまう。そう考えながらシャーロットは、自分の身体が壊れていくのを、止めることもできずに、ただじっと見つめていた。

 身体が麻痺していなければ、きっと今頃は地獄のような苦しみを味わっているのだろう。だが、痛みを感じないだけまだマシだ、とは思えなかった。

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 すると、腹をひたすら殴りつけているのにも、そろそろ嫌気がさしてきたのか。ヴェンコフはシャーロットの首に手を持っていく。そして、シャーロットの眼を覗き込み――、喉の辺りに軽く触れられたような感覚があった。

 実際には、恨みがこもった親指で、喉仏の下の辺りを力一杯押されているのかもしれないが、痛みを感じないため分からない。

 ただ、首が手から逃れるように自然と上を向き、口と鼻の入り口に詰まってしまった血塊のせいで息をするのもままならなくなって。目の前の少年が嬉々とした表情で、シャーロットの首に自分の体重を少しずつ掛けていくのを見て。

 先ほど、森の入り口で男に殺されかけた時は、少しも恐怖は湧いてこず、イレートスもどきの心の声に呼びかけられる直前には、死を半ば受け入れていたとさえいうのに――、恐怖というのは、必死に抗ったものだけが覚える感情なのだろうか。

 死が怖い。シャーロットは、生まれて初めてそう思い始めていた。


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