第117話 人質

 シャーロットを取り巻く追手たちは、撃ち殺してしまおうと、即座に、そして一斉に標的に指を向けた。だが、それより早く、シャーロットはヴェンコフを、足場から空中に引きずりおろしていた。ヴェンコフも一瞬は爪先の力で踏ん張り、枝にぶら下がろう、もしくは枝を折ってしまおうなどと考えたのだろうが、予想外だったのと、執念が勝ったらしい。ヴェンコフは、シャーロットの右手一本で支えられ、逆さ吊りになり、シャーロットの足を見つめる構図になる。

「撃たないで!」

 平然とした顔で、ヴェンコフごとシャーロットを無力化しようとしていた男の前に、レイナが飛び出した。先ほどまであんなに勝気だったのに――、追手として来ているのだから、弟の方もそれなりに強いはずなのだが。そんなに心配なのだろうか。

 おそらくは、図らずも見かけ上、シャーロットがヴェンコフを盾にするように振舞っていたことが、不安を増幅させたのだろう。

 実際は、シャーロットはバンザイしているのとほぼ同じ状態で、両の手ともにろくに動かせず、半周して背中側に回ってしまいさえすれば、がら空きになった背中に魔法を撃ちたい放題だったのだが、弟を傷つけたくないというレイナの思いを尊重したのか。誰も動こうとはしなかった。

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「うろたえるな。心配はない」

「だって、お嬢様を五年以上も手籠めにしてきた女なのよ。資料には載ってなかったとはいえ、何を隠し持っているか……」

 男ははっきりと断言し、ひとまず場を落ち着かせようとするが、レイナはただおろおろする。一方、ヴェンコフはシャーロットの手元で大きく動いていた。少年とはいえ、彼も追手の一人だ。一時は警戒のため、押し黙っていたものの、シャーロットが何の力も持っていないことに、早くも気が付いたのだろう。相手が無力なら、また、あの間の伸びた呑気な声で、自身の身の安全を告げるとともに、たちまち脱出して見せるのもわけはない。

「動かないで」

 柔軟体操でもするかのように、肩をぐるぐる回して見せたヴェンコフに、シャーロットは出来るだけおどろおどろしく聞こえるように気を付けながら小声で言った。だが、少年は怖がるどころか、むしろ笑い出しそうな顔をしている。

「馬鹿なことしたねえ。この距離なら僕は、お姉さんを一瞬で粉々に出来る。だけど、お姉さんは出来ない。足を一振りすれば、拘束からは抜け出せるだろうし、どっちが人質になってるのか、わかったもんじゃないよ、これ」

 ヴェンコフは人を小馬鹿にするように、首をポキポキと鳴らし、両手を握ったり閉じたりしていた。

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「ほら、動いてるよ。何もしないの? まあ、しないんじゃなくて、出来ないんだろうけど」

 こちらのことを完全になめ腐っている。自身の挑発に、シャーロットが乗らず、ただ言われるがままになっているのを見ると、ヴェンコフは失望した顔をした。

「なんだよ、誘拐したって聞いたから、どんな凄い奴かと思って来てみれば――、失敗するなら最初からやらなきゃいいんだ。力が弱い奴は喧嘩なんかしなきゃいい。頭が弱い奴は、言い合いなんかしなきゃいい。何もできないくせに、口ばっかり立派になって――、無力な奴はただ隅っこで、自分の大切な物が奪われるのを黙ってみてればいいんだよ!」

 少年は、叱りつけるようにそういうと、不意に俯き、にやりと笑う。

「何も知らないお馬鹿さんだからさ、僕の時間稼ぎにも気付かない」

 いつの間にか、ヴェンコフの手は、仄かに発光していた。そしてその両手は、シャーロットのお腹の辺りに当てられている。

「じゃあね。バイバイ、無力なお姉さん」

 少年はトンとシャーロットのお腹を押して、それから掴まれていない方の足で顔面を蹴りつけ、逃れようとした。時間をかけて作り出した呪文は、他の追手の総攻撃を待つまでも無く、シャーロットの体を破壊するだろう。逃れようと思えば、いつでも逃れられたのだが、おしゃべりに興じたのはそのためだった――。

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 が、相手をあまりにも侮っていたせいか、それとも運命の悪戯か。ヴェンコフの顔面への一撃は、シャーロットをかすめることなく、空を切った。

 と同時に、シャーロットは今まで渾身の力で掴んでいた左足からすっと手を離す。そして今度は、本人の予想とは裏腹に、何の推進力もなく空中に投げ出されてしまったヴェンコフの身体を、抱え込むように引き寄せた。

 予期せぬ事態に、ヴェンコフの両手はシャーロットの腹から大きくずれ、放たれた魔法は向かいの大木に当たり、梢に立っていた男を落下させる。そして、ヴェンコフが態勢を立て直す前に――、シャーロットは少年の脇腹に噛みついていた。

「まず、弟を離しなさい! そうしたら、少し譲歩してあげてもいいわよ!」

 時悪く、ようやくこの時、レイナは動揺から回復し、シャーロットを見上げると、いの一番にそう言ったところだった。もちろん、全て嘘だろう。顔に浮き出た青筋が、彼女の真意と怒りのほどを物語っている。だが、見上げた瞬間、目に入ってきたのは、自分の弟が、罪人に噛みつかれている光景だった。実際、シャーロットはレイナの説得より前に脇腹を噛んでいたのだが、レイナからしてみれば、その行動はシャーロットからの意思表示。弟は決して離さない、または道連れにするというメッセージにもとれたことだろう。

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「痛っ――」

 少年は、悲鳴をあげて体をのけぞらした。シャーロットの頭を両手で掴み、痛みの原因を引きはがそうとする。成人前とは思えないような強い力に、シャーロットは、目を潰されないように顔を伏せながら、ますます奥歯に力を込めて耐えた。

「離せ、離せよ、この――」

 少年の蹴りが、腹に入り、体が浮いたが、あいにく空中であったためか、引きはがされずに済んだ。自分を掴んでいる腕に、少年は打撃を食らわせ――、シャーロットの手は瞬く間に青黒く、黒煮える。痛みを通り越して、肘の辺りの感覚が無くなった。もしかしなくとも、一本どころか、何本も骨が折れてしまっているのだろう。


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