第116話 正義の定義

 すると、何処からなのかは分からないのだが、まるで誰かの名前を呼んでいるような、くぐもった声が聞こえてきた。

 だが、どうせ、追手のうちの何人かが、場もわきまえないで、仲間内で話し込んでいるのだろう。そう考え、シャーロットは努めて心を無に保とうとする。

 死にゆく身には、心など邪魔だった。

 生を諦めようとしている身にとっては、執着心など邪魔だった。

 ――けれども、

「……ット。……ロット。……シャーロット」

 くぐもったような声は、時を経るごとに明瞭になってきて、誰かが――、此処に居る追手たちではない誰かが、私の名前を何度も何度も呼び続けているのだと、シャーロットはこの時になってようやく気が付いた。そして、

「……死ぬ覚悟を固める暇があるのなら、生きるために、ちょっとでも努力してみたらどうなんだ?」

 その言葉を聞いて、ああ、これはイレートスの声だったのだ。と、シャーロットは理解が追い付かぬまま、靄に包まれてしまったような意識の中で、そう実感する。

 しかし、はねつけるようにそう言われてからは、まだ一時間ほどしか経っていないはずなのに。イレートスと会話を交わしたことが、遥か遠い昔の出来事であったかのように思えてしまうのはどうしてなのだろう? やっぱり、イレートスが遠い所に行ってしまったからなのだろうか? 

 だけど、これは仕方がないことなのだ。この人たちは、何も悪いことをしていないのだから。今の立場は少し違えど、彼らも根っこは私と同じ。普段はごく普通の生活を送っていて、お嬢様を守ろうとしている人たちなのだ。だから――。

「攻撃することはできないと? 甘えんなよ」

 いや、実際にイレートスがそう話しかけてきているわけではない。そんな気がするだけだ。……それなら、この声は? 

 私自身の心が作り出している幻。それ以外の何物でもない。

―――――――――222―――――――――

「君が今やっていることは、間違っている事なのか? 悪い事だったのか?」

 心の声はイレートスとなって、シャーロットにそう問いかけてきていた。

 そしてさらに、「あの子に自由を与えたのは、咎められるべき行為だったのか?」と、重ねるように聞かれて、

「違う。でも、大多数にとってはそうだったの。……だって、常識的に考えたら、城主の娘を。それも外に出しておけば寿命が大きく縮んでしまう子どもを外に連れ出すなんて、殺人以外の何物でもないじゃない」

 シャーロットは、ぼうっとした意識のまま、その声に言葉を返す。

 すると声は、それなら。と、そこで一旦、言葉を区切り、

「それなら、君が言う、大多数の奴らがやっていることは、正義の行いと呼べる代物なのか?」と、返答に困ってしまうような問いを投げかけてきた。

 もちろん、そう言われても、その人たちにはその人たちなりの考え方がちゃんとあるのだろうとしか、シャーロットは答えられない。

 それに、これがもし本当に幻聴なのだとしたら――、

 せめて死ぬときぐらい。よくやった、とか、もう頑張らなくていい、とか。そんな、言葉を掛けて欲しかった。都合のいいことを言ってほしかった。

 それなのに――。まさか、死の直前まで責め立てられることになるなんて。物事というのは、どうしてこうも思い通りに運ばないのだろう。

「君にも君なりの考えがある」

 どうやら、心の声はどうしても、シャーロットに言い負けたくないようだった。

 だけど、やるだけやって、もう気力もつきかけている相手に対して、今さらこんな事を言わなくてもいいだろうに。

 今さら自分の間違いに気がついたところで、込み上がってくる感情は後悔くらいのものだろうに。いったいイースは、今の私に何を求めているのだろうかと、シャーロットはぼんやりと考える。すると、

―――――――――223―――――――――

「君は、君の考えを優先すべきだ」

 そう言われて、反応するだけ無駄なのではないだろうかと思いつつも、言われたままにはしておけず、妙に上から目線の心の声に、シャーロットは渋々反論した。

「そうすれば――、私が考えを突き通しさえすれば、状況がよくなるかもしれないって、貴方は本気でそう考えているの? だったら、貴方はやっぱり世間を知らなさすぎるのよ。……たとえ不本意だったとしても、自分の意思を噛み殺して、耐え忍ばなきゃいけないときも中にはあるの。本当に大切な人のことを思っているのなら、涙を呑んで引き下がらなきゃいけないときも中にはあるの。それを無理やり、全部押し通してしまおうだなんて。だいたい、大きなお城に住んでいるような権力者や、手の付けられないような暴れん坊でもない限り、そんなことは、どだい無理な話でしょう?

 私には、正義が何なのか、よく分からない。分からないけれど、悪というのがどういうものかは分かっているつもりよ。それは、他人のことを考えられず、世間と違う発言を、いつまでも続ける人の事。もしくは違う行いを、改心せずに続ける人の事を指すの。そして、その定義に、今の私は当てはまってしまっているのよ。……常識の理から外れた異質な考えで、他人に迷惑をかける存在を、一人よがりな怪物を、正義は、もっといい方法を見つけたあとで、みんなのために退治するものなんでしょ?」

 だが、自分の考えをつまびらかに晒しても、心の声は納得してはくれなかった。

「違う! 僕はそんな、大衆にとっての幸福を語ってるんじゃない。僕は君にとっての正義を、幸福を、君に聞いているんだ!」

 こちらが折れてあげるまで、ずっとそうやって、口うるさく言い続けるつもりなのだろうか。……しつこい。心の声は、本当にしつこかった。

 これは、私の心の声であったはずなのに。その面倒くささや、その諦めの悪さは、まるでイレートス本人と喋っているかのようで。何時とはなしに考え方までうつってしまっていたのかと、シャーロットは心の声を、病気に見立ててうんざりする。

―――――――――224―――――――――

「他の奴が、その結果――、君が判断を下した結果、どう思おうが。悲しもうが、苦しもうが、怒ろうが。そんなことは、どうでもいいことだろう?」

 声は、シャーロットを言葉の物量でねじ伏せ、誘導しようとしていた。

「事情をよく知らないどこぞの馬の骨には、君がひどい悪者であるかのように見えてしまうのかもしれない。確かに、前後を無視して、現状だけを見れば、君は城主の娘を誘拐した、もしくは殺そうとした希代の大悪党だ。でも、君にそんな気はなかった。そうなんだろう? だったら、何を気に病む必要がある。意思を持っているとはいっても、目の前のそいつらは、君ほど物事をよく考えちゃいない。足元はおろか、自分たちが今置かれている状況すらも、ろくに見えちゃいないのさ。今日のことも、よくて晩飯まで覚えているかどうかだろう。なのに君は、その子に捧げてきた――、いや、その子と分かち合ってきた六年間を、そんな適当な奴らに売り渡すのか?」

 そうやって、推測交じりの、都合のいい言葉で、シャーロットの意思を揺らがせ、更なる悪の道へと走らせようとする。

「君自身の目線から見れば、君がやっていることはいつでも正義なんだ。正義なんだよ。だから――、例えそれが、独り善がりに過ぎなくても、自分勝手と言われようとも。どんなにけなされようと、自分が決めたことなら最後まで突き通せよ、シャル」

 この状態で、まだ足掻けと。自分のように敵に食い下がってみろ、食い止めて見せろと、そう言ってきた。

―――――――――225―――――――――

「世間の正義の定義から外れているから何だってんだ。他人と価値観が違うから何だってんだ。自分と全く同じ考え方をする生き物がたくさんいるほうが、気持ち悪いもんだろう? ……いいか、シャル。正義ってのはなあ、数が多い方を指す言葉じゃない。最終的に相手を打ち負かした方が手に出来る、単なる称号に過ぎないんだ。負ける前には――、戦いの最中には、悪も正義も存在しない。そこには、分かり合えない奴らがいるだけさ。どっちも、ただのひとりよがりの集まりなのさ。自分勝手な悪に成りたくないんだろ。正義だったら胸を張って、その子と一緒に歩いて行けるんだろ。だったら、勝って――、生きて、自分を正当化しろ。シャーロット」

 それでも、シャーロットが決断できずに悩んでいると、

 心の声は、どうしても最初の一歩が踏み出せない幼子を後押しするように、もう一度、シャーロットの名前を優しく呼んでくる。だけど、

「じゃあ、私はどうしたらいいの。イレートス、教えてよ」

 ようやく知恵を借りる気になってそう言うと、心の声は、

「知るもんか。そのくらい、自分で考えな」

 たったそれだけの、何の役にもたたない言葉を口にしたかと思うと、かすかに笑って、もう何も喋らなくなってしまった。

 今までさんざん、偉そうに説教をかましていたにも関わらず、まるで霞みか何かのように、ふっと、シャーロットの中から消えてしまった。

 もう自分の役割は終わったとばかりに、どこか遠いところに行ってしまった。


 ……あんなに好き勝手に人の心の中を掻き乱しておいて。

 そう言って、私は怒るべきなのだろうか。

 宙ぶらりんになってしまった気持ちを、どこかにぶつけるべきなのだろうか。

 確かに、色々言って、こちらを焚きつけてきたにも関わらず、最後の言葉がそれだけなんて。心の声の態度は、誰から見ても無責任極まりないものだったのだろう。

 言いたい事だけ、言ってくれちゃって。口に出すだけなら誰にだって――、私にだって出来るのだ。手段が無ければ、理想は夢で終わってしまうのに。

 でも、それが、いつでも適当なイレートスらしくて――、くすっと笑うと、いつの間にか。あんなに固く閉ざされて、言うことを聞いてくれなかったはずのシャーロットの口は、既に小さく開いていた。


―――――――――226―――――――――

「枝の上に上がらせてもらえないかしら」

 シャーロットの申し出に、男のほか、誘拐犯を見上げている五人の追手は明らかに難しい顔をした。

「吊るされたままだと、腕が痛くって。考え付くものも考えつかないから」

 後から付け足すようにそう言うも、

「その行動に、何か意味が?」

「そこまでしてやる義務はない。そこで考えろ」

 若者と厳格な男は、交互にそう言ってくる。

「最後なんだから、ひとつぐらいお願いを聞いてくれてもいいでしょう? 心配なら別に、片手だけじゃなくて、両手も縛ってくれても構わないから」

 そう言って食い下がったが、渋い顔は変わらないままだった。

 しかも、中には、既に此方に向かって指を突き付けてきている者もいて――、

 誰も見ていなかったら、今にも勝手に処刑を始めてしまいそうなほどうずうずしている女の様子を見て、シャーロットは慌ててまくし立てる。

「……警戒したくなるのも分からなくはないけどね。私はこんなに大勢に囲まれて、縄まで付けられてしまっているのよ? 

 それに、貴方たち。先ほどまでの様子を見ていると、少しはこちらの事情も知っているんでしょう? 私がろくに魔法を使えないことも、側仕えに抜擢される前までは、ただのしがない女中でしかなかったということも」

 それが最後の言葉にならないようにと、間をおかずに、シャーロットは続けた。

―――――――――227―――――――――

「それともまさか、これほどまでに数と実力差があるにもかかわらず、逃げられる可能性があるとでも思っているの? ……だったら、相当の臆病気質なのね。一般人相手にここまで警戒しなくても、標的に少しでも怪しい動きが見られたのなら、そこで殺してしまえばいいだけなのに。仮に不意を衝かれてしまったとしても、後から追いかけて魔法を当ててしまえばいいだけなのに。……どうせ、結果はそこまで変わらないんだから構わないでしょう? まあ、私のような大きな的に当てる自信もないくらい、自分の腕に覚えがないというのなら、別に無理にとは言わないけれど」

 不利な交渉をするときは、低姿勢を貫くよりも、煽るくらいの方がちょうどいい。そう教えてくれたのは、少女だったか。それとも、イレートスの方だったのか。

 確か、そのどちらかに聞いたことであったような気がするのだが、全てを言い切ってしまった今となっては、そんな事はどうでもいいことだった。

 それよりも――。失敗しても失うものが無いのだから、リスクはあってないようなものだと、頭ではそう納得していたはずなのだが、相手の返答次第では全ての望みが絶たれてしまうと思うと、どうにも心が落ち着かなくて、

 少女の口調を拝借してしまったことを心の中で謝りながら、シャーロットは追手達の方をじっと見つめて、彼らの答えを呼吸を整えながら待つ。すると、

「まあいい、上げてやれ。その代わり、上がったらすぐに言葉を残すんだぞ。聞いた言葉は、そこの女中が目を覚まし次第、ちゃんと伝えといてやる」

 結果的に、思い切りの良さが功を奏したということなのか。失礼極まりないシャーロットの提案を、男は了承してくれた。そして、

「おい、ヴェンコフ。引っ張り上げてやれ」

 男がそう言ったかと思うと、「へーい」と、すぐ真上から、明らかに面倒くさそうな誰かの返事が聞こえてくる。だが、少し鼻にかかったような喋り方をするその声の主に、シャーロットはちっとも覚えがなく、

 果たして、追手たちの中に、こんな喋り方をする人が居ただろうかと、シャーロットが自分の頭の中で、その人となりを想像していると――、

 レイナという名前で間違っていなかっただろうか。見るからに気の強そうな性格をしている女の人が、ヴェンコフと呼ばれていた追手に対して声を掛けた。

―――――――――228―――――――――

「ヴェンコフ、そのまま殺しちゃってもいいんだからね。そいつが何を言ったとしても、旦那様に逆らったゴミ屑の言葉なんて、誰も聞きたいわけがないんだから」

 それに対してヴェンコフが、

「はーい、姉ちゃん。分かったー」と、こう答えているところからすると、どうやらレイナとヴェンコフには、姉と弟という分かりやすい、関係性があったのだろう。

 少し間の抜けた、女性っぽくもなければ男性っぽくもない、中性的な声が聞こえてくる方を見上げると、まだ年端も行かぬ少年の目がこちらをじっと見返していた。

 少年らしからぬ、長身でスラリとした痩せ型で。だが、見かけによらず力はあるようで。少年は魔法も使わずに、自身に備わった筋力だけで、枝の上で上手く体重移動をしながら、シャーロットを引っ張り上げていく。

 その間、片手に少しだけ負荷がかかったが、特段痛まなかった事を考えるに、どういう訳かは知る由もないが、この少年はこうした作業に充分手慣れていたのだろう。

 そうして、少年が巧みに縄を手繰り寄せ、シャーロットの腰が枝につき、まさに地上の男が再び、シャーロットに最後の言葉を尋ねかけた丁度その時、

「ヴェンコフ! 危ない!」

 今まで周囲に当たり散らしてばかりだったレイナが、悲痛な声を出した。

 ひっぱりあげられている間、ずっとされるがままになっていたシャーロットの片腕が――、縛られていない方の手が、ヴェンコフの左足首をがっちりと掴んでいる。

 言うまでもなく、それは明らかな抵抗だった。

―――――――――229―――――――――


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