第112話 邪魔
「獣風情がぁぁ」
顔の左半分を覆うように当てた手の隙間から、鮮血が零れ落ちている。
「なかなかいい面構えになったじゃないか」
イレートスの煽りに、男は態度を持って答えた。荒い息を大きく吐くと、傷口をシャーロットたちの方に見せつけるようにする。露わになった顔には、あるべきもの――、左目がぽっかりとかけていた。がらんどうになったその場所は、後から後から湧き出てくる自らの血で満たされている。
「それは……貴様の物ではない。返し……たまえ」
男が歯を食いしばって言葉を絞り出すと、イレートスは軽く足を振った。白い眼玉は、一瞬宙をさまよったが、次の瞬間には既に男の手の内にある。男は機能を失ったそれを、しばらく黙って見つめていたが、何を思ったか。不意に口の中に放り込んだ。含んでいるだけかと思いきや、白玉でも食べているかのように、何度か咀嚼して――喉が動く。
「折角、返してやったのに――」
しかし、シャーロットは、イレートスの言葉が途中で止まったことに気が付いた。
それから、いつの間にか、地面に滴り落ちていたはずのおびただしい量の血飛沫が跡形もなく消えてしまっていることに目が行った。
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「ああ、お陰様で」
すっかり平静に戻った声が聞こえる。
「新鮮なうちだと、意外と何とかなったりするもんなんだねえ」
男の目玉は元あった位置に――、口の中でかみ砕かれた形跡も無く、戻っていた。そんなはずがない。はずはないのだが――、男は見せびらかすように目ん玉を左右一緒にぐるぐると回しては、馬鹿にするようによろける真似をしている。
「見えているのか?」
「貴様が私の攻撃を食らったのに生きているなら、眼玉が取れた私が何とも無かったとしても、不思議はないだろう?」
思わず尋ねたイレートスに、男はからかうような調子で言った。
「もっとも、貴様はただ小細工をしただけみたいだがな。その羽の下。何を仕込んでいる?」
「ご明察」
同じトーンでイレートスも返す。
「僕は人一倍臆病なんでね。外に出る時は、襲撃されるのが怖くって、いつもこれをつけてるのさ」
シャーロットはイレートスの黒い羽根の間に、光沢を帯びた小さな結晶が幾つも交じり込んでいるのを見て取った。よく見ると、細く透明な紐が、結晶同士を括りつけている。
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「不魔導体か、どうりでピンピンしているわけだ」
苦々し気な顔で男は言った。
「だが、そいつは見た目こそ小さいが、一粒でかなりの重さがあるはずだ。それを体全体につけるなど――。ましてや、いつも持ち歩いているなんて……嘘をつけ」
「嘘じゃないさ。だから、僕はいつも部屋の中にいる。立ち上がるだけでひと苦労なんでね」
イレートスは自らの境遇を皮肉るように言った。
男が口にした不魔導体というのは、その名の通り、魔法を通さない――正確には極度に魔素を通しにくくする物体のことだ。魔法による襲撃を防ぐため城壁の上に置かれたり、暴徒を鎮圧する際、盾にはめ込んで攻撃を無力化したりと、主に防衛用として広く使われている。が、それを自分の身体に埋め込んだなどという話は聞いたことが無かった。
男が言ったようにその結晶は随分と重いのだ。暗殺を防ぐため服に結晶を編み込んだはいいが、重さに耐えきれず潰れて死んでしまった。そんな王様の話が教訓めいた説話として残っているくらいには、不魔導体を直接身に纏うのは馬鹿げた行為とされている。だからこそシャーロットは、イレートスがどこまで本気なのか分からず、困惑するしかなかった。
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「確かにこれを付けてると身体の自由は利きにくくなるけれど、寒い日に全裸で外に出る奴は居ないだろう? 優れた魔法の使い手に防御策なしで立ち向かうなんて、それこそ馬鹿のやることだ。あとお前。不魔導体が無ければ、死んでいたような言い方をするが、それは違う。こちとら魔獣なんで、後ろまで見渡せる優秀な目を持ってるんだ。避けようと思えば、造作も無かった。ただ――、」
「試してみたら、ちょっとびっくりして気絶しただけ、というわけか」
イレートスの言葉を男が引き継いだ。
防御策なしで挑むのは愚かしい、というのが男に言っただけなのか、遠回しにシャーロットの不手際を批判したのかはわからない。だが、今になってようやく、シャーロットにはイレートスが頼れる存在に見え始めていた。彼も一緒に戦ってくれるのだ。あの一撃をほぼ無傷で受け止められるのなら、男に勝つのも夢じゃない。
「で、これからどうするの?」
シャーロットはイレートスの耳元で囁いた。
「私は何をすればいい?」
男を引き付けるか、それとも――。男が動き出さないうちに、シャーロットは、イレートスが畳み掛けてくれることを期待していた。そして、二人で少女を守って、三人で暮らしていくことを。だが、
「逃げてくれ」
イレートスは素っ気無い口調でこう言った。
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「今すぐ、その子たちを連れて逃げてくれ」
「え? なんて言ったの。もう一度言って」
「逃げてくれ。君の助けは必要ない」
聞き違いかと問い返すと、イレートスはより辛辣に繰り返す。
「そもそも、君が誰かを守れるほど強ければ、この子たちは危険に晒されずに済んだ。そうじゃないのか? いざ、敵を目の前にしてみて、君も自分の無力さに気が付いたろう。正直言って、君は邪魔だ。それに――、僕は君と違って、生きるために戦う。死んでもいいさと、自分の命を簡単に投げ出すような人に後ろを任せるのはごめんだね。君も死ぬ覚悟を固める暇があったら、生きるためにちょっとでも努力してみたらどうなんだ?」
「私が役立たずとでも――」
「ああ、そうさ」
死ぬつもりで立ち向かった。その覚悟を一蹴されたようで、シャーロットの耳は赤く、熱くなっていく。
「魔法の扱いに長けた、その子ならまだしも。シャル、君は日用魔法も碌に使えないじゃないか。そんな状態で力になると言われても――僕は君を守りながら戦えると思うほど、うぬぼれちゃいない」
「で、でも――」
「覚悟があるのか!」
イレートスは、ぐずるシャーロットの肩を掴み、言い聞かせるように言った。
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「同僚を殺す覚悟が君にあるのか! こいつは、今は敵のように見えるかもしれないが、元はと言えば、同じ城で仕事をしていた仲間なんだぞ! 君を捕えようとしているのも、その子を連れ戻そうとしているのも、誰か――、多分その子の父親に命令されたからに過ぎないんだ。それにぶっちゃけ、傍から見れば君はどう見ても悪者だ。城の主の娘を攫った誘拐犯だ。もっとも、僕はそうは思わないが――、君は罪のない者を殺せるか? 躊躇せずに殺せるのか?」
小型の獣なら、それだけで気絶してしまいそうなほど恐ろしい剣幕だった。そのまま膝から崩れ落ちそうになるシャーロットを少女の不安げな手が支えてくれる。
「どうぞ、私は急ぎませんから。気長にやってください」
「早く、こいつが獲物を品定めしているうちに」
男の動向が気になるのか、急き立てるようにイレートスは言った。
「この場は、僕が一人で何とかする。君はその間に、少しでも遠くへ逃げてくれ」
一緒に戦いたかった。誰かに頼るのではなく、自分の力で道を切り開きたかった。少女を守り切って見せたかった。だが、イレートスの言うとおりだ。自分の身さえ守れない女に、どうして少女が守れよう。
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ここで、更に渋るほどシャーロットは分からず屋ではなかった。
「ありがとう」
口を真一文字にして、少女を見たシャーロットに、イレートスは聞き分けの言い子に呼びかけるように言う。
「お嬢様、逃げましょう?」
少女は鼻をひくつかせて、いやいやと首を振っていた。今にも泣きだしてしまいそうで、力は、仕草も、見た目相応に幼くなってしまっている。木々を魔法一つで吹っ飛ばした、したり顔の姿は、今の少女には欠片も残っていないように思えた。
「行け! 早く行けよ!」
無理やり連れていくことを躊躇っていると、激しい語気とは裏腹に、優しい力で背中を押される。
「守るもんがいても、邪魔になるだけなんだよ!」
振り返ると、広げた翼が、大きな足が、震えていた。
「未来ある人が、こんなところで殺しなんてしちゃいけない」
あくまでも男を倒す前提で喋ってはいるが、イレートスからは決死の覚悟が見て取れた。先ほどの攻防で、何かを感じ取ったのかもしれない。
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何か言わなくちゃ。ひと声、何でもいいからかけてあげたい。再び女中を背負いながら、抵抗する少女を抱き上げながらシャーロットは思った。
「絶対追いかけてきてね。全部終わったら、いつもより良いもの、食べさせてあげるから」
「僕は、残り物で十分さ」
男の背後から、何の前触れも無しに、白い光線が山なりに向かってきた。イレートスの背丈をちょうど超えるくらいの軌道を描いている。少し飛び上がって、体全体で衝撃を受け止めるようにしながら、イレートスは言った。
「毎日持ってきてくれてたご飯、美味しかった」
それが、別れの言葉のように感じられて、シャーロットは後ろ髪を引かれながら、それでも前を向いた。振り返らず、走り出す。逃げることが、今自分に出来る一番のことだと分かっていたから。
『死なないで』
そんなありきたりのことしか思えない自分を呪いつつ、イレートスの無事を願いながら走った。
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