第113話 釣り針

 雨の匂いが染み込んだ藪を掻き分けて逃げる。南南西の方角に何があるかなんてもう気にしていない。当初目指していた今晩の寝床も、頭の中に思い描いていた獣がやってこないだろう安全地帯も、全て無視して、シャーロットは森の出口だけを目指して逃げていた。この場所から離れよう。少しでも遠くへ。追手の眼が行き届かない場所に。

 一歩一歩踏み出すたびに、小枝の折れる音がパキパキと後を追って響いた。何度も、まるで悪意を持たれているかのように木々の根っこに転ばされそうになる。これだけ大きな音を立てているのだ。どちらに行ったのか、男が見つけられないはずはあるまい。全てはイレートスにかかっていた。いったい何秒止めていられるか。

 最初にその言葉が浮かんだことで、シャーロットは罪悪感を覚えた。上手く逃げ切れたか。もしかすると倒しているかもしれないのに、イレートスが男に敗れ、地に臥している光景ばかりが脳裏にちらつく。あの覚悟を決めた姿を見せられても、シャーロットは未だに彼を信じ切れていないのだ。後ろは任せた。そう決めたら、互いを信じなければいけないのに――自分がとんでもない悪党のように思えてきた。

 今なら引き返せる。奮闘するイレートスに助太刀できる。心を空っぽにしてがむしゃらに走っていると、そんな考えが、シャーロットを引き留めようと次から次へと湧いて出た。だが、それは――、今振り返ってしまうことは、自分たちを逃がすため、立ち向かっていったイレートスに対する最大の侮辱になるのだろう。だから、

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「振り返っちゃいけない。イレートスなら大丈夫だから」

 シャーロットは、イレートスのことは考えまいと、何度も何度も、自分に言い聞かせるようにして、その文句を呟いていた。そんなシャーロットが怖かったのか、少女はシャーロットの胸に少し爪を立てていた。


 木々の隙間から赤い光が差し込んできていた。夜の訪れは近い。その前に見通しの悪い森を抜けなければ。闇に同化して近づかれてしまえば、夜目の効かないシャーロットにはどうすることも出来ない。そんなことを考えていると、背後で、体の軸が揺さぶられるような大きな音が鳴った。イレートスは大がかりな魔法を放つ男と対峙しているのだから、爆音の一つや二つ。鳴ったとしても少しもおかしくはないのだが――、その直後、木々が倒れていくような音とともにやってきた振動に、シャーロットの胸はざわつき始める。

 幾ら魔法を通さない物質を羽に縫い合わせているとはいえ、倒木に巻き込まれればひとたまりもないだろう。連鎖したかのような、続けざまの衝撃に、眼が自然と背後に向かった。だが、当たり前だが多くの木々に阻まれ、彼の様子は見えなかった。そこには、いつもと変わらない森が鬱蒼と広がっているだけ――。

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 今更、心配したところで何かが変わるわけでもない。そう自分の気持ちに折り合いをつけ、シャーロットは振り向いた。が、振り返った次の瞬間、自らの視界がぐらりと揺れ、違和感を感じる。いつも踏みしめているはずの大地の感覚が伝わってこない。右肩が大きく下がり、顔ごと下に持っていかれるような気がした。

 段差でも踏み外したのだろうか? 少女を抱きかかえているため両手は使えない。となると――、顔をぶつけたとして鼻が曲がらないといいのだが。

 そんな甘い考えでいられたのは一瞬のこと。次に目に入ってきたのは、落ち葉でも木の枝でもなく、底の見えないぽっかりと空いた穴だった。戦闘と逃走で自然と高くなっていた体温が、冷えきっていく。辛うじて穴の端で踏みとどまっていた左足を何とか残そうとするが、元々全力で走っている真っ最中だったのだ。そう都合よく、すぐに静止できるはずもあるまい。左足のつま先は、一瞬落ち葉の上を滑ったが、それで一度崩れたバランスが戻るわけもなく、シャーロットと、その体に引っ付いている少女と女中の体は、あっという間に宙に投げ出され、予想より遥か遠く離れた所にある壁面を見て、シャーロットは絶望した。片足を背後の壁にこすりつけて止めようとするが、触れることも出来ないでいるうちに、落下はどんどん速くなっていく。

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「お嬢様!」

 浮遊魔法でもなんでもいいから使ってほしい。そう思い、シャーロットは胸元の少女に大きな声で呼びかけた。だが、少女は、ますます強く爪を立てるだけで、何も言葉を発しようとはしない。

 このまま下に落ちれば――、どうなるのかは明白だった。しかし、つむじ風程度しか起こせないシャーロットでは、もうどうすることもできないのだ。

 そこで、いよいよ背後のあどけない女中を、魔法避けならぬ、衝撃避けにするしかないかと思い始めたその矢先、一本のロープが、落下する三人を追い抜くようにして、凄まじい速さで視界の端を通過した。底までは達しなかったのか、ぶらんと揺れている。

 手の皮を犠牲にすれば生き残れるかもしれない。シャーロットは目の前に垂れ下がった助けに向かって懸命に手を伸ばした。が、掴む直前。逃げることに必死で他のことを考えられなくなっていた頭が、ここにきて覚め始めたのか。

 出来すぎている。そう誰かに警告されたような気がして、シャーロットは少し思い悩む。確かに、自分たちより遅れて穴に落ちたはずのロープが、あんなに早く落下するなんて不可解だった。それに、そもそも誰がシャーロットたちを助けられるというのだろう。たとえ、イレートスがあの後、男に勝利を収めていたとしても、此処にたどり着くまでには時間がかかる。

 都合が良すぎる時、大抵その救いの糸には釣り針が隠れている。目の前の餌に食いついてなるものか。

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 だが、すがりつかなければ、どのみち死んでしまうのだ。これは、追手が仕掛けた罠だろう。そう薄々勘づきながらも、シャーロットは少女と一緒に心中する気にはなれず、イレートスが再び助けに来てくれたという一縷の望みに賭けて、仕方なく目の前のロープに飛びついた。

 その瞬間、ロープはたちまちシャーロットの左腕に巻き付き、遠くに見えていた土気色の壁面は、すうっと空中に溶け込むように姿を消した。

 ぶらんぶらんと体が前後に揺れている。必死で踏みとどまろうとしていた地面は、遥か下にあった。首を上に向けると、自分の腕から太い枝へ。何重にも巻き付けられた灰茶色のロープが見える。その枝の上には、一人、二人。隣の梢に三人目。こちらを見下ろすように立っている人影があった。取り巻くようにもう五人。穴があったであろう場所の上で、腕組みをしながらシャーロットを見ている人たちがいる。

 木に吊るされてしばらくして、ようやくシャーロットは今まで見ていた大穴が幻覚で、自分は進んで罠にはまりに行った間抜けだということに気が付いた。事実、あれだけ落下していたら、ロープにつかまったとしても肩が外れてしまうはずなのだが、シャーロットの体には、何の痛みも無い。強いて言うなら、締め上げられている片腕が少しだるいくらいだった。

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