第十九章 正義の定義

第111話 この世の見納め

「なんだ、魔獣か」

 目の前の男は、明らかに落胆した様子を見せた。

「その毛むくじゃらが救ってくれるとでも? 一匹、増えただけで何かが変わるとでも? 期待するだけ損だった。話にもならない」

「助けに来た」

 イレートスは、男の挑発を無視し、それだけ言った。

 シャーロットの顔を見ながら、男に背を向けながら。一瞬の隙でさえ命とりになるというのに、男を警戒している様子は全くない。

 助けが来るならば、誰でもいい。それくらい、二人は追い詰められているはずだった。しかし、幾分か良くなっているはずの現状を、シャーロットは少しも喜ぶ気にはなれなかった。いや、確かに馴染みの顔が見えた瞬間は嬉しかったのだが――、今や失望感すら覚えている。自分が抱いていた期待の正体はこれであったのかと。戦闘経験はおろか、引きこもりによる運動不足でなまりきったイレートスと、精鋭の男。シャーロットの頭に、イレートスが無残に切り裂かれる光景が浮かんだ。

 無駄死にだ――。

―――――――――190―――――――――

「もういい、もういいから逃げて!」

 先ほどの男の定義に当てはめるなら、鳥の姿をしているイレートスは魔獣であって、悪魔ではない。男からしてみれば、戦う価値もない、殺しの対象外であるはずだ。だから、手を出さなければ、殺されることはない。そう思い、シャーロットは、自信ありげに翼を広げる黒鳥を怒鳴りつけた。

「本当に殺されるわよ!」

 きっと、イレートスは現状がよく呑み込めていないだけなのだ。ひょっとすると、少女のお芝居ごっこに周囲が付き合っているだけだと思っているのかもしれない。

 ――だからこそ、

「高潔な英雄は遅れてやってくるものなのだ」

 だからこそ、こんな余裕たっぷりなセリフを高慢ちきに吐けるのだ。こんなに余裕たっぷりに構えて居られるのだ。

 それもこれも、自分に死が迫っていると知らないから――。

「遊びじゃないの! ほんとに――」

 場違いな笑顔を浮かべるイレートスの後ろで、男の指が光った。

「イース、後ろ!」

 シャーロットは咄嗟に、イレートスが以前、呼んでほしいといっていた愛称で警告する。その方が早く呼べるから。理由はただそれだけだった。だが、それでも、呪文の速さには到底かなわなかった。

―――――――――191―――――――――

 殺すことに何のためらいもない。自らが言った言葉を、男は証明した。一切の警告も無く、閃光は無関係であったはずのイレートスの体を刺し貫いた。

 何が起きたか分からない。

 そう言いたげに、琥珀色の眼が自分の胸元を見つめている。

 どうなっているのか、確かめようとしたのだろうか。それとも、身体の穴をふさごうとしたのだろうか。翼が弱々しく動いた。だが、胸に触れる前に瞳孔がキュッと縮み、イレートスは倒れ――痙攣一つ起こさず、動かなくなった。

「イレ――」

「動くな、次はお前だ、女」

 男は、表情一つ変えることなく、こちらを見つめていた。甲の骨が角ばった大きな手。その軽く開かれた指先が、シャーロットの正中線、急所の揃った場所に向けられている。しかし、おそらく男に急所を狙う意図はなかったろう。なんせ、木を半壊させる爆発を見て、本気でないと馬鹿にするような力量の持ち主なのだ。呪文がかすりさえすればシャーロットは死ぬ。当てる場所など、どうでもいいことだ。

 直接、指を突き立てられているわけではない。男とシャーロットの間には、まだイレートス一人分の距離があった。が、避けられる気がしない。動けばやられる。

―――――――――192―――――――――

 待っていても、着実に死の可能性は高くなるばかりなのだが、シャーロットは既に魔法に魅入られているのか、身じろぎ一つ出来なかった。垂れ落ちる汗を拭くこともできない。その代わり、眼球だけがひっきりなしに動いている。

 ああは言ったが、少しは少女のことを警戒しているようで、男は片時も二人から目を離すことは無かった。少しずつ、油断とは無縁の態度で確実に、にじり寄るように向かってくる。視界の端で少女が唾をのみ込んだ。男が呪文を放つ、その時を待っている――。

 少女は幾分か冷静だ。私のように叫び声をあげそうになることもなく、緊張な面持ちで男を見つめている。シャーロットは束の間そう思った。が、すぐに思い違えに気が付いた。少女は叫び声をあげることすらできないほど、動揺していただけだったのだ。胸の前で構えた両手が小刻みに揺れている。目の前で誰かが死ぬ。いくら平静を取り繕っても、今は悲しむ時じゃないと自分に言い聞かせようとしても、その動揺は簡単に拭い去れるものではない。シャーロットはもちろん、少女も。むしろ、頭が働いている分、シャーロットの方がまだマシだったろう。

 重ねてきた年が少しばかり多いせいか、それとも自らがもうすぐ死ぬと言い聞かせてきたせいか。この時に至っては、旧知の知り合いを殺されているにも関わらず、シャーロットの方が冷静だった。幾ら優れた魔法の使い手とは言えど、二人同時に殺すことはできまい。このまま萎縮し続けて死を待つより、どうせ死ぬなら、少女を逃がす方がいいに決まっている。

―――――――――193―――――――――

 シャーロットは自らの使命をいち早く思い出した。動け。男に向かって飛びつけ。と、強張った体にそう言い聞かせた。気軽に呼んだせいで。イレートスは、私のせいで死んだのだ。意味も分からず、死ぬ覚悟もできないままに。それなのに、なぜ今になって、覚悟を決めていたはずの私が死を怖がる必要がある? 動け!

 すると何の前触れも無く硬直が解け、体が前につんのめった。自分が前に出て少女を守ろう、攻撃を防ごうと、そればかり考えていたせいだろう。シャーロットは男に飛びつくどころか、地面に向かって倒れ込みそうになる。

 あと一歩、踏み出せれば男を取り押さえることが出来る。だが、その間に男はシャーロットの頭に、体に、呪文を叩き込むに違いない。イレートスの最期のように、何もできないまま死にゆく自分の一瞬後の姿が、容易に想像できた。ありったけの魔法は、シャーロットという存在を、この世界から跡も残さず消滅させるだろう。

 男の周りに、深紅の輪が描かれていく。狙い違えることは万に一つも考えられない。この世の見納めだ。そう思うと、眼前の輪が水に溶けたかのようにじんわりと滲んだ。気が遠くなっただけだとシャーロットは信じたかった。今わの際に、泣いて男を喜ばせるなんてまっぴらごめんだ。命乞いをするくらいなら、笑って逝ってやる。

―――――――――194―――――――――

 そして、その瞬間は訪れた。薄い体験ばかりと判断されたのか、死ぬ前に見ると聞いていた走馬燈はやってこなかった。その代わりに、炎のように武らかに燃え盛る輪があっという間に視界を焼き尽くす。熱が感覚ごと、全てを奪い去って――。


 熱さを感じたのは一瞬だけだった。少女が見せてくれた爆発の呪文のように、痛みを感じる間もないままに、シャーロットの体は塵と消えたのか。大いなるものに抱かれているような安心感があった。人智を超えた未知なる存在に身を委ね、どこまでも。夢心地のまま、ただただ漂う。何もかもを手放したくなる。そして、伝わってくるのはけもの臭――。

 シャーロットは瞬きした。黒い翼が視界を横切る。尻の辺りがこそばゆい。撫でられている。というか、執拗に触られている。普段であれば、気分を損ねるだけの悪戯を、きょとんとしたまま受け入れている自分が居た。

「ったく、危なっかしいったらありゃしない。これが、傍付きだっていうんだから……その仕事、譲ってほしいくらいだ」

 男の呪文は消えたわけでは無かった。翼の背後では獄炎が、隙あらばシャーロットに襲い掛かろうと、暴れ狂っている。心なしか、焼け爛れた肉の嫌な臭いも垂れ込めている気がした。だが、彼はケロッとした顔で、平気でいる。

―――――――――195―――――――――

「私――、死んだのね」

 シャーロットがそういうと、彼は大きなため息をついた。

「何でそうなるかなあ。現在進行形で、君に集るハエを退治してるってのに」

 頭をポリポリと掻くと、羽虫でも見つけたのか、汚いものを見る目で、器用に羽毛を丸めて弾き飛ばしている。

「だって貴方が勝てるわけないもん。それにイレートスは、死ん、しんじゃったし」

「バッカだなあ。流石に、あんな間抜けな死に方するわけないだろう。僕だって、君に言われなくても、少しは考えるさ」

 きっと今、酷い顔をしている。シャーロットは勝手に震えだす声を抑えようと、羽に顔を押し付けたが、やっぱり獣臭い――というより、長らくお風呂に入っていない匂いがしたので途中でやめた。

「びっくりした顔しちゃって……もっと死体が動き出したあ、とか言って、泣き叫んでくれるかと思ってたのに」

 相変わらず、彼は空気が読めないようで、不貞腐れた顔をしている。もしかすると、身体の中はぐしゃぐしゃになっているのかもしれないが、パッと見た限り、光に貫かれたはずの胸は、軽いやけどこそ負っているものの、重大な損傷は見られない。

―――――――――196―――――――――

 炎の後ろから、憎しみに満ちた切れ長の目が覗いた。が、今度はシャーロットが口を開くより前に、彼は流れるような動きで振り返り、その雄大な羽で男の顔面を激しく打ち据える。そのままシャーロットを抱えた状態で飛び上がり、炎目掛けて、鋭く大きなかぎ爪を携えた太く強靭な足を交互に繰り出した。一回、二回。その度に火の粉が飛び散ったが、幸い、下草が掃除されていたおかげで、火は湿った落ち葉の上でプスプスと消えていく。三回目で、長々とした悲鳴が辺りに響き、遠ざかっていった。自らの炎に焼かれたのか、服の端を焦がした男が顔を抑えながら呻き、悶え、地面をのたうち回っているのが目に入る。

「気安く触れてくれるなよ。怪我して晩飯作ってくれなくなったらどうしてくれんだ」

 死んでしまったはずの抜け殻には、確かに魂が籠っていた。

「シャルも、もう少し喜んでくれよ。せっかく地獄の淵から戻ってきたってのに」

 おどけた態度は、元のまま。

「二度目まして、イレートスです。どうぞよろしく」

 イレートスは何事も無かったかのように、そう言った。

―――――――――197―――――――――


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