第105話 ずるい
が、やはり理解は出来なかった。
「見逃してくれない?」とそう言われても、幾つかの疑問が湧いてくる。
「だけど……どうしても分かりません。最初に、私の持ってきた花を食べた時、あの時に死んでしまう可能性もあったわけでしょう? それに今だって、五年間、たまたま症状が出なかっただけで、次の瞬間に死んでしまうかもしれないのに」
たった一つの命。それを自分から賭けようとするなんて。言い方は悪くなってしまうのだが、正気の沙汰とは思えなかった。すると、
「私だって、最初は信じてなかったわよ。切っ掛けがなければ、こんなことを考え付くことも無かったと思う」
少女はシャーロットの手を握り、そう言ってくる。
手を介し、ふっくらとした優しい感触が伝わってきた。
「だって、書物を読んだ限りでは、外に出たら、すぐに死んでしまうとしか書かれていなかったんだから。……だから私は、ずっとそう思って生きてきた」
「なら、どうして!」
シャーロットは訴えかける。
「こんな常識外れなことを」
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「シャルが持ってきてくれた花を見てね。私、思ったの。世界は、自分の小さな物差しで測れるほど単純なものじゃないんじゃないかって。図鑑には載っていない生き物が、そこら中にゴロゴロしてるのよ。だったら、私の病気も意外と何とかなるかもしれない。そう思ったら、試してみる気になったのよ」
「それなら、その、もしかしたらに賭けたって言うんですか! そんな、万に一つみたいな可能性に!」
「でも、そうでもしないと、私は外に出られなかったの。そしてその賭けに、私は勝った。だから、私はいま此処に立っている。……もし、死んでいたら? さっきも言ったけど、そんなこと、今生きているからどうだっていいじゃない」
「良いわけないでしょう。お嬢様が、死んでいたかもしれないなんて。私に何にも言わずに! 私は……私は、早死にしてほしいから、花を渡したわけではないのに!」
シャーロットは腹立たし気に言った。こんなに心配しているのに! 少女が自分の体のことを少しも省みないのが悲しかった。
「もっとご自分のことを大切になさってください」
包み込むように、そっと少女の手を握り直す。だが、少女を覆った決別の意思は固く、消えてくれない。少女はシャーロットの眼を見つめながら、小さな子どもに言い聞かせるように、絡まった指を一本一本ゆっくりとほどいていった。
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「アレニアは美しい花を咲かすの。でも、一年の終わりには枯れてしまう。それは魔素の力を借りてるからなのよ。目立たないように生きれば、もっと長生きできるのに。より美しく、綺麗になろうと、土から欲張って、栄養をひっきりなしに吸うから、すぐに一生分を使い切って枯れちゃう。でも、私は雑草のように、何年も日陰で生き永らえるくらいなら、花のように生きたいの。もちろん、死にたいって言ってるわけじゃないんだけど」
それは何の迷いも感じられないしっかりとした声だった。もはや、どんな忠告も嘆願も、少女の心を動かすことは望めまい。
シャーロットは少女を見返すこともできず、空を流れる白い雲を虚ろな目で眺めながら、少女は何処か遠い所に行ってしまうのだと考えていた。
すると少女は、お嬢様は私のせいで変な考えを起こしてしまったのだろうかと、罪悪感で押し潰されそうになっているシャーロットの心を見透かしたように口を開き、
「あまり気に病まないで、私のことはすぐに忘れてちょうだい」
と、そう告げる。だが、そんなことを言われて黙っていられるほど、シャーロットは達観しているわけでもなく、また、少女の意思一つで全てを受け入れられるほど、できた側仕えでもなかった。だから、
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「いいえ、お嬢様に花を持ってきたのは私、つまり外に興味を抱かせてしまったのは私です。責任は全部、この私が取りますから、お嬢様はひとまず、あの部屋までお帰り下さい。そこでもう一度、二人で話し合いましょう?」
責任の取り方も分からないままそう言うも、
「思い上がらないで」
即座に冷たい、凍てつくような声が返ってくる。
「あなたが居なくても、私はいずれ外に出ていたの。私の欲望は、シャルの存在一つで変わるもんじゃないから」
そう言うと、シャーロットが気圧されている間に、少女は突き放すように続けた。
「もう一度言うわ。見逃してちょうだい。……言っておくけど、これは、要望じゃなくて命令よ。最初で最後の命令。聞いてくれないなら、私はシャルを押しのけてでも行かないといけない。時間は無限にあるわけじゃないんだから」
少女の意思を尊重するか、それとも。シャーロットの心はその狭間で揺れていた。ただ立っているだけでどうしようもなく不安で、自分の家に帰って布団にくるまりたい。気づけば、そんな逃避的な思考に陥っている。
ここで、少女を無理に連れ帰れば――いや、そんなことはそもそも不可能なのかもしれないけれど、もしできるとしたら、多分。いや、確実に、少女は二度とシャーロットと口を聞いてはくれないだろう。自由を手に入れることが出来たかもしれない唯一の可能性、それを潰されたのだから至極当然だ。会話が無くなれば、シャーロットは友だちとしてではなく、また女中として少女に接するしかなくなる。外に出て行くのを防ぐためには、部屋の扉に鍵を取り付けるしかなくなるし、少女から外への興味を無くすため、今後一切、外から生物を持ち込むことは出来なくなるだろう。
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もしかすると、そんなことをする前に、少女の方から直々に、暇を言い渡されてしまうのかもしれない。だが、その場合は、まず間違いなく、少女の父が――、主がその解任理由をシャーロットにも尋ねてくることだろう。
その際に、少女の秘密を守っていられるのか。少女から、世の中には自白用の魔法があると聞いていたシャーロットは、それが拷問の類なのか、それとも精神的なものなのかまでは知らなかったが、どちらにせよも口を割らずにいられるとは思えなかった。むしろ、すぐに苦痛に負け、拷問のごの字も始まる前に、ぺらぺらと吐いてしまうような気がする。自分の精神的な弱さを、シャーロットはよく自覚して分かっていた。そもそも解任したところで、後任の女中が少女の意向を反映してくれるとも限らないのだ。仮に、規則や仕来たりでがんじがらめにしようとする、シャーロットのかつての上司のような人物が側仕えに抜擢されたとしたら――、まず間違いなく少女は不満を溜め込むだろうと、シャーロットは確信していた。
だが、見逃すことも、それはそれで問題だ。此方の選択肢を選んでしまえば、シャーロットは少女の病気が悪化する可能性を知っていながら放置した。そういうことになる。そして、この場合、シャーロットはもはや、側仕えでも、女中でもない。逃亡を手助けした女は、城の人びとや主からしてみれば裏切り者だ。非難の視線を浴び、罵声を受け、当然どこにも居場所は無くなり、最終的にはイレートスのように、暗い家の中に閉じこもり、誰とも会わない生活まで落ちることになるのだろう。拠り所にしていた少女は去ってしまい、シャーロットの手元には何も残らない。
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どちらにせよ、地獄。救いは待っていない。決断を先延ばしに出来たら――、それがどんなに幸せなことか。シャーロットは、少女の眼の前で塞ぎ込んでしまった。自分で選択する努力を放棄し、どちらも選ばずに済む、救いの手が。第三の選択肢が、目の前にひょっこりと降りてきてくれることを待ち望んだ。今までの、少女との幸せな日々が終わってしまうのが怖かった。選択一つで、言葉一つで、関係が全て変わってしまうのがどうしようもなく恐ろしかった。いや、ひょっとすると、シャーロットは人生の決断を自分で下したくなかっただけなのかもしれない。他の誰かが代わりに決めてくれたなら、シャーロットは決定に文句を言いつつも、決められたことだから仕方ないと、渋々従ったのかも――。
その様子を見かねたのか、それとも選択を懼れているシャーロットの代わりに、自ら決断を下したのか。少女は踵を返すと、森の奥へ進み始めた。さよならの言葉も無かった。少女の姿がどんどん小さくなっていく。シャーロットは、帰ってきてください、そう言いたくて、それとも、自由に生きてください? そうも言いたくて、ただ震える自分の手のひらを見つめていた。少女に、自由に生きて欲しかった。それでも、長生きしてほしかった。一緒に居て欲しかった。だが、どれも叶えて欲しい。なんていう我が儘がまかり通るほど、世界は甘いものではない。……そして、
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「ずるい」
考えて、考えて、どうしようもないほど考えて、第三の選択肢など、最初からなかったんだと、シャーロットはついに、現実を受け入れた。
だが、ぐずぐずしていたせいで、少女はもう見えないところまで行ってしまっている。シャーロットは既に、もう一つの可能性すら失いつつあった。今や、出来ることはただ一つだけ。自由な世界に飛び出していく少女を見送ることだけだ。
「ずるい」
そうと分かっているのに、自分の口から、信じられないような言葉が聞こえてくる。ずるい。シャーロットはようやく、自分の本心に気が付いた。それは、少女――お嬢様に向かって、シャーロットが初めて歯向かった証だった。
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