第96話 沈黙の時間


 薄明りの中、見上げるほどに大きい黒々とした扉の前に立ったシャーロットは、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をすると、扉をコンコンと軽く叩いた。

 すると、少しばかりの間をおいて、

「入って」と、中からは、ぶっきらぼうな声が返ってくる。

「失礼します」

 そう言って、シャーロットは扉をゆっくりと押した。扉は重く、両手で渾身の力をこめなければ開かない。鈍い音とともに何とか生まれた隙間から、体を滑らせるようにして部屋の中に入り込むと、

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「こんにちは、シャーロット」

 扉の先では、小さな少女が、ピンク色のこじんまりとしたベッドの上に腰かけて、茜色の表紙に覆われた分厚い本を読んでいた。細い指の合間からは、金字で彫り込まれた本の題名が見え隠れしている。此処まで来る途中にすれ違った新人女中たちよりも、二回りほどは小柄なその少女の髪はとにかく寝癖が凄かった。どう寝たらそうなるのだ、といった具合に四方八方に小さな黒い角が飛び出ている。だが、少し整えれば、立派な黒髪になるだろうに――。

 おそらくは自分の外見を全く気にしない質なのだろう。それは、親密になるまでもなく、着ている物を見てみれば、誰しもが一発で予想し得ることだった。

 飾り気のない白一色のワンピースは、サイズがまったく合っていない。裾はくるぶしほどまではあり、ブカブカという言葉が生易しく感じてしまうほど。下着は脱ぎ捨られ、足元に転がっている。極めつけは靴下で、左右バラバラな柄の物を履いているのはまだ許せるが、片方は裏返しのままだった。

 挨拶だけ適当に済ませると、それからは手元の本に熱中している。しかし、一昨日に訪れてからまだ丸二日も経っていないというのに、よくもこんなに部屋を散らかせるものである。シャーロットは、少女の隣に出来た本の山と、絨毯にこぼれた甘いお菓子の粉。棚からベッドまで、寝る場所を奪うほどに侵略してきている人形や縫いぐるみの数々に絶句した。

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 このところ、というかこの部屋に出入りするようになってからはずっと毎日、一度も欠かすことなく部屋を訪れていたため、日中、少女を一人にしたことは昨日が初めてのこと。少女が本を読むたびに、シャーロットが端から片付けていれば、部屋は汚れることはない。片付ける者を失った部屋はこうなるのか。ともかく、シャーロットは僅かに残っていたスペースに座り込んだ。

「お嬢様、昨日は申し訳ございませんでした。連絡は行っていると思いますが、お休みを頂いておりました」

「お部屋を整えさせてもらいます。少しうるさくなりますが、ご容赦くださいませ」

「此処のタペストリーは、このままでよろしいでしょうか?」

「お茶を淹れてまいります」

 シャーロットばかりが、一方的に話しかける。それは、事情を知らない他者から見れば少し異様な光景だった。

 だが、この部屋の中では、それは極当たり前に行われている事。少女は基本的にシャーロットの言葉に答えることはせず、意思確認は頷きを持って良しとされていた。

 ベッドの清掃を行うため、シャーロットは少女に頼み、そこから降りてもらう。少女は僅かに唇を突き出すと、靴下を団子のように丸めて脱ぎ捨て、ペタペタと歩き、最終的に積み上げられた不安定な本の山にちょこんと座った。

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 部屋は、一時間も立たぬうちにすっかり片付いた。清掃自体は、以前もやっていたことで特に問題ではない。主人が直接頼んでくるような仕事とは考えられないくらいの軽い職務だった。ではなぜ、一年前、主人はああまで必死になっていたのか。そのわけは、やはり最初の言葉に込められていた。そして、それは現在、シャーロットが抱えている大きな悩みの種でもある。

 集めたゴミを捨てるため、少し留守にしていたシャーロットは、また長い廊下を駆け抜け、この部屋に戻ってくる。少女は相変わらず、自分の世界に入り込んだまま。シャーロットは少し離れた所に座り、その様子を眺めていた。部屋は、誰もいないかのように静まり返っている。聞こえてくるのは、ページがめくれる音と、ブラブラと揺れている少女の足が、極稀にベッドの縁に当たる音だけ。

 主人や、他の女中たちの生活空間から遠く隔絶されたこの場所は、言わば陸の離れ小島。外界の音の一切は、分厚い扉で遮断され、此処まで届いてはこない。

『沈黙の時間』 シャーロットは、掃除が終わった後の昼食までの時間。いや、食事の時も少女は喋らないから、日が暮れて部屋を出るまでのおよそ半日のことを、自分の中でそう呼んでいた。必要事項以外の会話がこの場に飛び交うことはなく、ただ黙って、少女は本を読み、シャーロットは少女の顔をぼうっと眺めているだけで、時間は過ぎていく。元来、話し好きであり、人付き合いも好む、喋りたがり屋のシャーロットにとっては、その時間は手持ち無沙汰で――、そろそろ日暮れかと思いきや、まだ昼時を回ったばかりだった。といったことも、しょっちゅうだった。

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 なら、自分から話しかければいいのに。事情を知らない人に相談すれば、そんな呑気な答えが返ってくるだろう。だが、残念ながら事はそう単純ではないのだ。


 配属されたその当初、シャーロットは、友だちになってくれとお願いされていたこともあり、少女に対し、しばしば積極的に話しかけていた。

 急に見知らぬ人と生活することになったことで、少女の方も戸惑っているだろうとそう思い、一回や、二回、冷たくあしらわれたところでめげはしない、とそんな精神で、シャーロットは居た。だが、今では考えられないことに、最初は少女も好奇心旺盛だった。二人の間に多少の温度差はあったものの、少女はシャーロットの対話にいつでも応じ、優しく、明るい笑顔を見せてくれていた。何気ない一言にも興味を示し、最近あった出来事や、シャーロットの出で立ちについて、朝から夜遅くまで談笑していた時の少女の笑顔をシャーロットはよく覚えている。

 だが、そんな理想の空間は、最初の何日かだけで終わりを告げる。ある時を境に、少女の態度は、露骨につまらなそうなものへと変わっていった。話しかけると、最初こそふんふんと聞いてはいるが、そのうちに本に手が伸びて、気が付くと、自分の世界に入ってしまっている。結局、ひと月も経たぬうちに、返答もすることなく、気のない頷きを繰り返すだけに変わってしまった。

 いったい何がいけなかったのだろうか? 

 そう考え、嫌われたのかと思い込み、過去の言動を洗いざらい思い返していたシャーロットがたどり着いたのは、とある可能性。

 試しにその日、まだ誰にも話したことがない自分の過去について打ち明けると、少女は目線を少し上げ、その間だけシャーロットのいうことを片耳で聞いていた。

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 少女は、新しいことを知りたがっている。逆に言うと、既知の事柄には全く興味を示さない。シャーロットが見出した結論は、少女は、自分との対話を楽しんでいたわけではなく、ただ情報を引き出したかっただけだったという事だった。

 そして、その頃には――、ふた月も経った頃には、シャーロットの元に、少女が食いつきそうな情報は既に残っていなかった。城中から、興味をそそられるだろうエピソードを必死にかき集めたところで、少女はどんどん吸収していく。水を吸い込む真綿のようなその知識欲には敵わない。情報を小出しにして騙し騙しやってきたにも関わらず、一年が経つ頃になると、それも尽き果てた。

 そうでなくとも少女は絶えず、手元にある本から、毎日莫大な量の情報を取り入れているのだ。今や、シャーロットが少女に与えられるものは何もない。空飛ぶ鳥の名前から、地を這う獣の好物まで。少女は全てを知っていた。

 それに、毎日ただ黙って座っているだけで、物事が上手く回り出すはずもない。ここ数月はずっとこんな調子で、半日あまりを無言で耐え抜くと、家に帰って不貞寝する。沈黙の時間は、シャーロットの日課となりつつあった。そして、それはこの先も続いていくのだろう。と、昨日までシャーロットは展望の見えない日々に絶望しかけていたのだが――、シャーロットはゴクリと一つ、唾を飲みこんだ。

 今、シャーロットは全てを打開できるかもしれない一つの策を持っている。

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