第97話 正確に、かつ不確かに

 少女が決して、手にすることのない情報。それはシャーロットが今まで気が付かなかっただけで、すぐ近くに、それも当たり前のように大量に転がっていた。図鑑や本を読むだけでは、得られない体験。他者の経験を聞きかじっただけでは感じ取ることが出来ない知識を、昨日シャーロットは、たった一日の休暇の合間に見つけ出していた。だが、その前に、少女に話をする前に、シャーロットは今一度、部屋全体を舐めるような目つきで見渡す。

 事は慎重を要する。念には念を入れ、会話を有利に進めるために、事前に確認すべき幾つかの事柄があった。此処に、それが無ければ良し。あったなら大人しく、持っている物を後ろ手に回し、一時撤退。後日、改めて話しかけることにする。

 そして結局、たっぷり半時間は眺めた結果、部屋内に懸念事項は見つからず、シャーロットはようやく少女に話題を振った。

「お嬢様は、此方の物を見たことがありますか?」

 シャーロットが手にしているのは、一輪の花だった。白い花弁に、ピンクの花芯。この街で盛んに育てられている園芸用の花の一種で、よく玄関口――シャーロットの家の庭先にも咲いている。言わば街の花であり、その情報を少女が本で見て知らないはずはなかった。だが、それを見た少女はあんぐりと口を開き――、自分の目論見が当たったことを悟ったシャーロットは、内心しめしめと密かに喜んだ。

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 少女は、この部屋の中で毎日を過ごしている。主が、外に出せない理由があると言うのだから、シャーロットが仕える前も外に出た経験は無い、もしくは物心ついた時には、もう部屋の中に居たと見て間違いはないだろう。普通なら、世間知らずの箱入り娘になってしまうところを、自ら多くの分野の本を読み漁り、教養を深めることで、曲がりなりにも人並み以上の知恵と、知識を身に着けていた少女。彼女が本を読む目的は、知識を得る以外、他に無い。長い時間をかけて一ページを読み込み、そこに書いてあることを全て自分の物にしてしまえば、他者から説明を受けずとも、各々の事柄を深く知ることは可能だろう。しかし世の中には、文字や絵だけでは伝えられない物がある。昨日、シャーロットはぼんやりと湖畔を眺めていた時、暖かな陽気の中でまどろんでいた時、同僚と水かけに勤しんでいた時、そのことに気が付いたのだった。図鑑よりも正確に、かつ不確かに。実物の花は、言葉では表現しきれないほどの多くの情報を少女に与えていた。

「ね、ねえ、シャーロット」

 初めの挨拶以外では久しぶりに、本当に久しぶりにシャーロットは少女の声を耳にした。

「どうされましたか?」

 明らかに好意的な、下手に出てでも、どうしても知りたいといったその態度に、自然と顔が緩んでいくのを感じる。

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「これ――、何なの……生き物?」

「アスニア、お嬢様も良く知っている花ですよ。この街に、たくさん咲いている――そこにある図鑑にも大きく取り上げられていた、と思いますが?」

 予想通りの反応が返って来た。そう思っていることを悟られないように、シャーロットはあくまで不思議そうに答える。

「でも……」

 少女は、目にも留まらぬ速さで、本棚から数冊の図鑑を引っ張り出すと、それぞれのアスニアの項目をじっくりと眺めた後、シャーロットに言った。

「そんなの、アスニアじゃない。だってそれ……見たことない形をしてるもん」

 図鑑に描かれたアスニアは、淀みない綺麗なピンク色。大輪の花をつけ、明るい黄緑色の茎や、鮮やかな深緑色の葉も、力強さを感じさせる。だが、シャーロットが今持っている花は――、実物の花というのは、そんな単純な物でも、美しい存在でもなかった。光が届きにくい木陰に生えていたその花は、図鑑で言及されているほど、大きく綺麗には育たず、魅力的な花弁も持っていない。ひょろ長な茎をもち、半ば萎れかけている。ところどころ、葉には虫食いの跡や、病気に侵されたかのような、ブツブツの斑点が出来ており――、そんな個々の事情までは、図鑑は書いていないのだ。

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「ですが、新種ではありません。アスニアです」

「色も少し、違うのに?」

「それは、土壌の影響でしょう。この辺りの地下水を吸い込んだアスニアの花弁には、薄紅色が混じることがままあります。基本となる色が、ピンク――、というのは変わりありませんが」

 少女は、興味津々といった様子で、シャーロットが持ってきた花を様々な角度から見て、確かめていた。どこからか取り出してきた羽ペンを、紙に慎重に走らせ、線の強弱や重なりで、生物の息遣いを忠実に再現していく。

 そしてその工程が終わると、花を手で擦り、感触を確かめ、臭いを嗅ぎ、図鑑と照らし合わせ、最後は口に含んで――、美味しくない。そう言った。

「この図鑑。全然、正確じゃなかったのね」

 目を宙に泳がせ、ぼんやりと何かを考え込んでいる。

「それなら――」

 しばらくした後、少女の口元には、悪戯を思いついた時のようなキラキラとした笑みが浮かんでいた。

「ねえ、シャーロット。これ、どこで見つけたの?」

「湖のそばで取ってまいりました」

「じゃあ今度は、湖ごと持ってきて!」

「お嬢様、流石にそれは……」

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「出来ないの?」

「仮に、出来たとしても、部屋には入りきらないかと」

「それもそうね。じゃあ、今度は湖に生えている草木を出来るだけ持ってきて!」

 何をするつもりなのかと思案していると、少女はさらに嬉しそうに言う。

「私たちで、図鑑が作れるわよ!」

「図鑑……ですか?」

「うん、今までの簡潔なことしか書いてない図鑑じゃなくて……、もっと詳細に、香りや、感触。その他すべて、私が感じたことを全部書き記すの。見分ける方法や、実用性について。……可食について書くのもいいわね。文字と絵だけで、どこまで本物に近づけるのか。うん、絶対に面白いわよ、これ!」

 シャーロットの思っていた展開とは少し別の物になってしまったようなのが、少女は目を輝かせている。明らかに、今回の試みは成功した、と言って良いだろう。

「失礼ながら……それは、出来上がったら誰かに読ませるのですか?」

「うーん、特には考えてないけど。私は、後々自分で楽しめればそれでいいかな」

 そう言うと少女は、残った花を――、土臭いはずの根っこの部分を何のためらいいもなく口に放り込んだ。それから本当に、味や、臭いについて、何もかもを詳細に、自らが描いた絵のそばに書き加えていく。

 生物の育つパターンには限りが無い。法則はあれど、細かな違いに興味を持ってくれたのなら――、もう新しいものを探すのに困ることは無いだろう。

―――――――――107―――――――――

「ねえ、シャーロット。あなたは、どこまでも行けるの?」

「ええ、お嬢様が命じてくださったところへなら、どこまでも」

 会話が出来る。それだけで嬉しかった。

「じゃあ、私の知らないこと。……ううん、知りたいことを見つけてきて。私が、それを図鑑にする」

「はい、お嬢様」

「責任重大だからね。シャーロットが持ってきてくれないと、私、なんにも出来ないんだから」

 頼られている。そう考え、シャーロットは身震いした。しかし――、いくら外には未知が溢れているといっても焦ってはいけない。少しずつ、そして丁寧に、お嬢様が求めている物を選び出さなくては。

 そんな思いを抱えたままシャーロットは微笑んでいた。少女も笑っていた。一日、ひと月、一年で終わることがない。予てから求めていた少女との楽しい日々。シャーロットにはそれが今、始まったように思えた。


―――――――――108―――――――――


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