第95話 雇い主

 ボーン、ボーンと続けさまに八回、重低音が城全体に鳴り響いた。鐘が一日の始まりを告げている。余韻を感じさせる暇も無く、次の音が聞こえてくるのが、忙しさを象徴しているようだった。

 最後の鐘が鳴り終わるとともに、目の前の扉が勢いよく開いた。開くと同時に部屋の中から、リスのようにくりくりした黒い眼の、まだあどけない一人の少女が焦った様子で飛び出してくる。そして、それを追いかけるようにもう一人。

 出来るだけ早く、かつ、長いエプロンドレスの裾を踏まぬようにと小走りで去っていく。そんな姿を見送ったシャーロットは、扉の造りを見て、ひとりで頷いた。

「住み込み部屋かあ」

 シャーロットは今でこそ、城外に住まいを構えているのだが、働き始めて最初の三年間は、あの二人と同じように此処で生活を送っていた。

 礼儀や作法を身に着けるために、一年目から三年間、ほんの一日の例外も無く、十人単位で共同生活をする空間。そこが住み込み部屋という場所なのだ。

 シャーロットにも、まだ毎日同じ時間に起きるだけでも億劫で、シーツの畳み方を間違っては、先輩たちに何度もやり直しをさせられて……、とにかく朝から晩まで怒られていた頃の記憶がある。

―――――――――091―――――――――

 周りに誰もいないのを確かめてから、こっそり中を覗くと案の定。部屋の右隅のところに、脱ぎ捨てられた服が落ちていた。入口から見て左側と、右側に大きな見栄えの差があるのも、住み込み部屋の特徴だ。右側には新人たちの、そして左側には、お勤め一年目の彼女らにしてみれば、この世で一番恐ろしい先輩たちのベッドがある。

 きっと彼女らは部屋に戻ったら、こっぴどく叱られるのだろう。シャーロットは半ば同情し、もう半分でエールを送りながら、ゆっくりと廊下を歩いて行った。

 城の入り口や、大広間で毎朝感じる喧騒は、遠く彼方に遠ざかり、コツコツという自分の足音だけが響いている。居館から別棟へ。長い廊下を進んだが、あのお転婆な二人以外、シャーロットは誰ともすれ違うことは無かった。外は晴れていて、普通なら開放的な両開きの窓から、すがすがしい朝の陽ざしが差し込んでくるはずなのに、暗色のカーテンに光を遮られたこの廊下は、ここだけ夜に取り残されてしまったように薄暗闇に包まれている。進む先はさらに暗かった。

 そしてやがて、視界に入る光が何も無くなった頃、ゆらゆらと揺れる青白い炎がひとりでに、壁に取り付けられた燭台に次々に灯った。暗闇に包まれている間に、豪勢な装飾はすっかり消え去り、蝋燭の火に照らし出されたのは、青く塗られた冷たい石の壁。此処に肥え太った鼠でも居れば、さながら地下牢のようにも思える、城の中にしては似つかわしくない道を無言でしばらく進んでいくと、ようやく長い長い通路の終わりが見えてくる。待っていたのは、重厚感を感じさせる大きな扉。その前で、シャーロットは立ち止まると、自らを鼓舞するように頬を何度か軽く叩いた。大きく息を吐くと、扉に手をかける。そこが、シャーロットの今の仕事場だった。


―――――――――092―――――――――

 ほんの一年前までシャーロットは、イレートスに箒を投げつけていた女性の下で、おそらくはあの二人の少女たちと同じような職務。城の清掃、それから事務作業に携わっていた。早朝、八つの鐘が鳴り響くより前に掃除を終わらせ、午前の間に、特に急を要するものではない書類を機械的に処理すると、大抵、午後から夕方にかけて、人が慢性的に不足している炊事場に駆り出され、日が暮れる前にはまかないの料理を片手に家に帰る。代わり映えのない毎日ではあったが、身分は保証されているし、何より同僚たちは皆優しい。シャーロットは自分なりに、その環境に満足していた。

 そんな、遥か昔のことに思えるような安息の日々が終わったのは、とある朝。いつものように掃除を終わらせ、欠伸を我慢するのが日課になっている形式的な朝礼を終えた後のこと。普段なら顔を合わせることも無い、この城の主。その側に仕えている女性から手招きされた。有無も言えずにいるうちに瞬く間に目隠しをされ、幾つもの階段を上り下りし、何度か躓きながらもたどり着いたのは、とある一室。他の部屋と特に構造も変わらない部屋の中。いや、むしろどの部屋よりも狭いように思える居室の中に、所狭しと、シャーロットと同じくらいの年に見える女性がずらり。その中央で、一人の男が肘掛椅子にゆったりと腰かけていた。

―――――――――093―――――――――

 これが、私の雇い主、そしてこの城の主なのだ。シャーロットは、男が名乗らないうちから本能的にそう悟っていた。仮に、一対一で向かい合っていたとしても、出会ったのが暗い路地だったとしてもすぐに分かっただろう。男の身体からは、目には見えないが、妖気のようなものがメラメラと立ち上っている。異様な気配に当てられたのか、シャーロットはたちまち、背中にびっしょりと汗をかいていた。

 だが、シャーロットを何より動揺させた出来事は、そのあと起こった。あの時言われた内容を、今でもたびたび夢に見る。

「私の娘と、友だちになってはくれないか?」

 急に呼びつけた非礼を詫びたあと、男は唐突にそう言うと、立ち上がり、深々と頭を下げた。側に控えている女性たちも、自分の主が、単なる召使いに過ぎない存在に低姿勢から物を頼んでいるという異質な光景に直面しているにも関わらず、男を止めるわけでもなく、シャーロットに向かって礼をする。慌てて、同じようにお辞儀をしたはいいものの、当時のシャーロットの胸中は、戸惑いでいっぱいだった。

 シャーロットは、この城の主について何一つ知らなかった。思えば、名前ぐらい耳にしたことがあったような気もするが、末端の仕事をしている身としては、主人は雲の上の存在。関わり合うことも無ければ、何かの折に話題に出ることも無い。日常に忙しく、使わないでいるうちに忘れてしまったのだろう。

 自分の雇い主のことすら分からないのだから、その家族構成について知っているはずもない。妻が誰なのか。此処に控えている女性のうち、一人がそうなのか。はたまた、全員なのか。それとも妻は妻で別のところにいるのか。子どもの数や、その性別すら聞いたことのない始末だった。

―――――――――094―――――――――

 そんなわけで、何故よりにもよって私なのか。シャーロットが最初、手違いを疑ったのも仕方がないと言えよう。が、その疑いは主の言葉によってすぐに否定された。

「娘はわけあって、部屋の外に出られない身なのだ。今は、此処から少し離れた別棟の方で暮らしている」

 あまりにも衝撃的過ぎる話。何度生まれ変わっても、巡り合えなさそうな出来事だったせいか、シャーロットはその時の会話を一字一句覚えている。

 たしか、次に主はこう言った。

「私は娘を、少し一人にしすぎた。そのせいか娘は本ばかり読み、未だに他者と関わることを苦手としている。……もちろん、それが悪いことだと言うつもりはないのだが。私としては――、親としては、あの子がまだ子どもでいるうちに、どうにかその苦手を直してやりたいのだ」

 それから、こう続けた。

「此処に別棟までの地図がある。どうだろう。まずは試しに一度。娘に会ってみてはくれないか? ――もちろん無理にとは言わないし、会ってからでも合わないと感じたら、いつでも戻って来てくれて構わない。要るものがあるなら言ってくれ。私にできることならば、何でも用意させよう」

 与えられた情報は断片的で、頼まれている内容も、何もかもが曖昧だった。

 だが、おそらくは、自分の頼みを受け入れてくれるかどうか分からぬ者に多くを話すことは出来ないと、主は当時そう思っていたのだろう。今から思えば、それは当然のことであり、何ら不思議なことではない。

 ただ、当時のシャーロットは、自分のこれからの事で頭がいっぱいで、主の意にまで気を回すことが出来なかった。自分の上司のさらに上の立場。逆らえば首が飛ぶかもしれないのに、咄嗟に質問していた。それほどシャーロットは当時の職場が気に入っており、変化を求めていなかった。

―――――――――095―――――――――

「他に誰か――、娘さん……お嬢様にお仕えしている方は、いかほどおられるのでしょうか。大体で構いませんので、お教え下さるとありがたいのですが」

「それが――、あの子は、身の回りの世話は全部自分ですると言って聞かないのだ。だから、決まった時間に一日三回。朝、昼、晩と食事を差し入れている者を除けば、私の娘に仕えていると呼べる者は誰もいない」

「それでは……、お嬢様は誰とも顔を合わせていないと?」

「ああ、私も娘とは長らく会話もしていない。日夜、何を考えているのか。どんなことをしているのかさえ、恥ずかしながら私にはまったく分からないのだ」

「お嬢様は……、外に出せない理由をうかがってもよろしいでしょうか」

「後々、教える」

「監禁……しているのではないんですよね?」

「無論。だが、見方によっては確かにそう見えるかもしれん」

「会ってあげるべきです」

 何も知らない癖に、あまりにも失礼な、深い詮索をしてしまったと後悔している。それは明らかに、主人に対する振る舞いの範疇から大きく外れた行為だった。だがその時、シャーロットが咎められることは無かった。男は、くどい、とも、しつこい、とも言わなかった。もちろん手をあげることもない。男は質問に真摯に答え、命令すれば従わざるをえない立場のシャーロットに対して、選択肢をくれていた。

―――――――――096―――――――――

 主人の力になりたい。身分が下の者にも優しく接してくれるその態度に、少し前まで、考えることと言えば毎日の食事と睡眠のことぐらいだった女は、そう思った。

「やらせてください」

 娘に会うこともせず、その場で反射的に答えていた。こうしてシャーロットは、新たな職務を得たのである。 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る