第93話 カッとなって、つい
「死者八名、重傷者三名。もっとも症状が軽い者でも右手首切断。これが、お嬢様の輝かしい戦績です」
それは昨日。ユリが路地で見た光景。その被害を、シャーロットは説明していた。忘れたくても忘れられない、あの淀んだ空気。鼻が曲がりそうな異臭。そして目の前に広がる死。今を生きるために、ルーツを助けるために、無理やり心の奥にうずめた感情が、安全圏にいる今、あの時よりリアルに、ユリに襲い掛かってきた。
血は洗い流してもらったはずなのに、確かに臭いは取れたはずなのに、自分の身体から死臭が漂ってくる気がする。先ほど食べた鍋料理が、食道をさかのぼってくる。
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「お嬢様、どうかなさいましたか?」
必死で吐き気をこらえ、ゼエゼエと息をしていると、シャーロットは心配そうな様子で、こちらをじっと見つめてきた。
その声には不安気で、当惑したような調子がこもっている。
「こんな話をして……あなたは気持ち悪くならないの?」
てっきり苦しませるために、私を責めるために、そんなことを言ったのだろうと思っていた。だが、シャーロットは心から、ユリを気遣っているようだった。
「人の死を嬉しそうな顔で語るなんて、どうかしてる……」
「ご自分で、なされたことなのに……ですか? であれば、記憶が完全に戻っていないせいかもしれません。全て戻れば、きっとお嬢様も――」
「そんなはずない!」
ユリは叫び、こびり付いてくる言葉を振り払うように、虚空を掻き分けた。
記憶が戻ったからといって、何かが変わるわけがない。あの路地の出来事が、いい思い出に変わる日なんて、未来永劫来るはずがない。
仮に、そんな日がやって来るのだとしたら。その時ユリは、既にユリではなく、ユリの皮を身にまとった、別の誰かに成り果てていることだろう。
「この話は止めて! 違う話をしてよ!」
忘れることで、楽になろうと考えていたわけではない。
だが今は、思い出したくなかった。
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「一撃で、人の命を刈り取るあの技術。正直、私も少し憧れました」
しかし、シャーロットは聞く耳持たず、話題を変えることは無かった。それどころか逆に、ユリの行為を正当化するような、酷い言葉を並び立てていく。
「魔法のみならず、自分の身体までもを生かして、相手を殺そうとするあの熱意。そして、その姿勢。これは、全ての魔物がお手本にすべき、素晴らしいものでしょう」
ひょっとすると、私が気を失っていた間のことを、言っているのだろうか。
ユリは、シャーロットの話が進むごとに、ぽっかりと抜け落ちていたその時の記憶。空白の時間のようなものが、だんだんと補完されつつある気がしていた。
意識が無い時に――。兵士たちは、ユリが知らぬ間に死んでいたはずなのに。
見たことがないはずの光景が、自分が兵士の血を浴び、悦び、無差別に攻撃を仕掛けている映像が、頭のどこかに浮かび始める。
また、暗闇から声がやってくる。心の奥底から攻撃的な衝動が溢れ出て、頭を埋めていく。自分という存在が消えて無くなってしまうような、そんな危ない不安。路地で覚えたあの悪寒が、ふたたび、ユリの身体をむしばみ始めていた。
「ですが、相手も見事でしたね。まさか手首を、自らちぎって逃れるとは……。新しく生えてくる訳でもないのによくやります。私も流石に、あれには少し驚きました」
ユリは、自分でも気付かぬうちに歯ぎしりをしていた。ギリギリと、他の人からしてみれば威圧にもとれる音量で、歯が欠けてしまいそうなほど擦り鳴らす。
これ以上、好き放題に言わせておくと、何だかおかしくなってしまう気がする。自分が壊れてしまう気がする。それだったらいっそのこと――、
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「殺した方がいい、なんて思いましたか?」
からかうような軽い調子の声が聞こえた。
「そんなわけ――」
そこまで言っておいて、ユリはかすかに違和感を覚える。自分の手のひらに、何かをギュッと掴み込んでいるような感触が存在していた。
両手にすっぽりとちょうど収まるくらいの弾力のある何か。それをユリは握りしめている。加えて、まるで影の中にいるみたいに視界が暗い。
はっと気が付くと眼の前に――、おでことおでこがくっついてしまいそうな位置に、シャーロットの桃色の唇があった。
どういうわけだか知らぬ間に、ユリは、テーブルの反対側に腰掛けている彼女の所まで、大きく身を乗り出してしまっていたらしい。
だが、慌て、謝ろうとするユリをよそに、シャーロットはゆっくりと自分の顔を、天井を見上げるように上へと向けていく。
そして、見えてきたのはしなやかな首。それから――、ユリの細い十本の指が、食い込むほどに、彼女の首を絞め上げている様子だった。
背筋が凍った。
「ここ、少し苦しい……ので、離してもらえると嬉しいのですが」
そう言われる前に、ユリは既に手を離していた。椅子の方に体を預けるように倒れ込むと、彼女の首全体があらわになる。シャーロットの首筋には、うっ血を起こしたような赤い手形が、まだくっきりと残っていた。
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自分のしたことが信じられなくて、何故そうしたのかも分からなくて、ユリはガタガタと震えながら、彼女の首を絞めた両手を見つめていた。
そして、何度か握ったり、開いたりを繰り返す。だが、ユリの意思に反する……ということは一切なく、手は思い通りに、ユリに従って動いた。
殺そう、としたのだろうか? 気に入らないことを言われたから。たったそれだけの理由で、目の前にいる女性の命を、私は奪おうとしたのだろうか。
心臓をギュッと握られているような恐怖を感じた。どうしようもない不安が体中を駆け巡り、息苦しさを感じた。自分で自分が恐ろしくなり、当ても無く、どこかに逃げてしまいたくなってくる。
カッとなって、ついやってしまった、ということなのだろうか。
首に残る圧迫痕は、冗談で済まされるものには見えなかった。正気に戻った後で見てみると、殺すつもりで絞めていた。そんなふうにしか思えない。
「そういえば、表の路地には、窒息死と見受けられる死体はありませんでしたね」
存外、平気な様子のシャーロットの声に、ユリはびくりと身を震わせた。
まさか――、こうやって一人一人、ユリは兵士たちを殺していったのだろうか。
ルーツが殺されそうだった。だから、今みたいにカッとなって、殺してしまったとでもいうのだろうか。
シャーロットの首を絞めていた時、その間の記憶がユリには無い。
現状は、昨日の――、気が付けば兵士たちが倒れていたあの時に酷似していた。
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「嘘……。そんなはずない」
シャーロットの顔を見たユリは、全てを拒絶するようにぼそぼそ言った。そして、自分に言い聞かせるように首を振る。
あれは、あの惨劇は……自分がやったことだ、ということは理解しているつもりだった。口の中には証拠も残っていた。言い逃れは出来やしない。
ただ――、ユリの知らない間に事は済んでいた。
もしかしたら、私の中に潜んでいる違う人格がやったのかもしれない。別人格のせいで、私はこんな目に合っているのかもしれない。
そうやって、自分の運命を理不尽なもの、不合理な物と呪うことで、ユリは、少し押せば壊れてしまいそうな心のバランスを無理やりとっていた。無理矢理、自分を納得させたばかりだった。
だが、彼女の首に残っている、生々しい手形を見て思い浮かんでくるのは、『怒りに身を任せて我を忘れていた』という理不尽とはかけ離れた現実的な見方だけ。
つまり、兵士を殺害してしまった時、私は意識を無くしていたというよりも、理性が吹っ飛び、感情的になっていただけなのではなかろうか。
結果、導き出されたのは、ユリは単なる一介の殺人者で、そこに一切の弁解の余地はないというあまりに残酷すぎる結末。感情に任せ、大罪を犯したという事実。
ルーツより、やっぱり私が刺されるべきだったんだ。そう思い、ユリは血がにじむほどに、唇を噛みしめた。……すると、
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「此方を」
シャーロットはそう呟いて、ふたたび、一枚の紙きれをユリの前へと差し出してくる。先ほどまでその紙は、怪しい存在でしかなかった。破るのは最後の手段、少なくとも彼女の話を聞き終えてから考えるつもりだった。
だが、心のよりどころも、すがれるものも失ってしまった今となっては、それはまるで救いの糸であるかのように見えた。
自分の正体を知りたい。そんな純粋な思いもあった。だが何より、次の瞬間に自分が何をしでかすか分からない、という恐怖が勝っていた。
このまま座っていたら、私はまたシャーロットの首を絞めてしまうかもしれない。もしかすると、殺してしまうかもしれない。いや、今度被害に会うのはルーツかも。
もう一秒だって、意識を保っていたくなかった。無意識の世界に逃げてしまいたかった。誰の目も届かない所に――ひとりになりたかった。
「あなたは私の正体を知っているの? これは、あなたの記憶なんでしょ?」
「ええ、ありのままのお嬢様を見ることが出来ますよ」
そう言うと、シャーロットは微笑みかけてくる。だが、騙されていたとしても、陥れられていたとしても、もう構いやしなかった。
「あの頃のお嬢様は、本能で動かれていましたから。私を介して見たとしても、問題は無いと思われます」
本能だけで動いた時、私はルーツを殺すのだろうか。村の人も、出会った人も、全て見境なく、殺してしまうのだろうか。
泣きたいはずなのに、涙は出なかった。叫びたいのに、声も出なかった。自分のことが、感情が削げ落ちた後の抜け殻であるように思えてくる。
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ユリは何も言わず、紙をつかむと、力任せに引っ張った。
けれどもシャーロットは、何を考えているのか。手を離そうとはしてくれない。そこでユリは、不思議そうな顔でシャーロットを見ると、同じ力で、もう一度引っ張った。特に何も考えてはいなかった。理由があるのだろう、とも思わなかった。
ただ、考え無しにぐいぐいと両手で紙を奪い取るようにすると、更にシャーロットは、強い力をかけてくる。
すると、両側から力を加えられたことで、紙はあっけなく真っ二つに破れた。そして、支えを失ったユリは、頭から床に倒れていく。
だが、衝撃は伝わってこなかった。
「私と一緒に、記憶の中に参りましょう」
シャーロットのその言葉だけが、頭の中をグルグルと回っている。ユリの意識は、まるで渦の中に吸い込まれるように、どんどん消えていき――、視界は暗転した。
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