第92話 悪趣味な問い
「お嬢様は、魔獣というものをご存知ですか?」
いきなり何なのだろう。
「いえ、あんまり……会ったこともない……と思うし」
戸惑いながらボソボソ喋るユリの姿を、シャーロットは、見る者すべてが心を奪われてしまうような、優雅な微笑みをたたえながら見つめていた。
「知っている限りのことで構いませんので、お話しください」
そう言うと、女性はどうぞ、と促してくるのだが。知っている限り……と問われても、そう簡単にポンポン浮かんでくるものではない。
頭を悩ませていると目が泳ぎ、女性の手元が見えてきた。
女性の手の爪は――、ユリのそれと変わらないくらいの長さに、綺麗に切り揃えられている。その様子を目にしながら、昨日ルーツを手当てしてくれた時に見えていた、あの異常に長い爪は何だったのだろうか。と、ユリは考えを巡らせた。
わざわざそんなことを聞いてくるということは、もしかすると、この女性自身が魔獣なのかもしれない。昨日から見ている限りでは、そう思わないでもなかったが、失礼だという考えがその想像を打ち消した。
「えっと……これは、私が見た……とかじゃなくて、本とか、人とかから聞いた話なんだけど……。獣の姿をしていて、凡人がいくら集まっても勝てないくらい強くって、見上げるくらい大きい……ってことぐらい」
ユリは、ルーツの部屋で見た図鑑の記憶を頼りに、恐る恐る口にする。
そうだ、この女性が魔獣であるわけがない。魔獣というのは、大きくて、強くて、そして怖いものなのだから。
図鑑にはこうあった。
訓練された兵士が数十人集まっても、勝てるかどうかわからない。食べるためではなく、殺すという目的で人を襲う。まさしく常軌を逸した存在。
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どうしてその説明を、そのまま引用しなかったのか。
そう問われると、自分でもうまく説明できないのだが、おそらくは。以前ルーツに教えてもらっていた、体験談に引きずられてしまっていたのだろう。
怖かったが、優しくもあった。取っつきにくそうではあったが、頼もしそうでもあった。とにかく理解を超えた存在で、僕にはよく分からない。
森の中で目にした魔獣の性分について、ルーツが言ったのはそんなこと。どんな図鑑にも、どんな書物にも書かれていないことだった。
もちろん、図鑑を見ている限りでは、優しいなんてもってのほかで、どのページをめくっても、書いてあることは悪行ばかり。
村を襲い、一度に何百人もの人を焼き殺した。わざと急所を外し、長く苦しませては楽しんだ。女子供をかっさらい、自らの欲望のために奉仕させた――。
残虐、非道。存在悪。そんな一般的な印象を考えるに、人前でルーツの語った魔獣像を持ち出すのは、あまり好ましいことだとは思えなかった。
だが、ルーツからいろいろ聞いていた以上、魔獣を一概に悪いもの。そう切って捨ててしまうことも、ユリには出来なかった。
いずれにしても、ユリが知っている魔獣というものの特徴は、目の前の女性に当てはまりそうにない。昨日のあの爪は――。もしかしたら、疲れた脳が見せた幻だったのかもしれない。それに――。魔獣でなくても、奇妙な特徴を持っている。そんな種族のことを、ユリはよく知っていた。
『半獣人』
ルーツが育った、そして、ユリを受け入れてくれた村の人たちのことを指す言葉。しかし、これはおそらく差別語なのだろう。
この王都で……、いや、おそらくは、エルト村以外のすべての場所で。半獣人は差別されている。忌み嫌われている。だから、シャーロットが半獣人であって、それを隠そうとしていたとしても、何ら不思議なことではない。……ただ、
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「他にも、出来ればもう少しお話を……。性格については、どう思います?」
随分と食い気味な女性の態度に、もう少し、何か言った方がいいのだろうかと、ユリは頭を悩ませることになった。
やはり、ルーツの体験談に出てきたような、性格の良い魔獣について話してみるべきなのだろうか? それで変に思われるようなら、気のせいだった。そう言って、誤魔化してしまえば問題ない。考えていると、そんなふうにも思えてきた。
「それじゃあ……優しい?」
自分でも疑問だったことを、誰かに聞いてみたかったのかもしれない。しかし、口に出してから二秒もたたないうちに、ユリは自分の判断を後悔することになる。
気がつけば、女性の眉間には皺が寄り、眉の方は苛立たし気に、ぴくぴくと動き始めていた。それでも女性はあくまでも、にこやかな表情を保とうとしているようなのだが、目がほとんど笑っていない。微妙に引き攣っている偽りの笑顔で、じっと見つめられるのは不気味だった。
「優しい、とおっしゃったのでしょうか?」
「あの、やっぱり、優しくないっていうか、気のせいっていうか……」
取り繕おうとして、逆に不自然になる。
「それは、単なる憶測でしょうか? それともどなたから、教えてもらった――、ということなのでしょうか?」
シャーロットは、ユリの弁解は聞こうとせず、探りを入れてきた。
ここらで話題を逸らした方がいいのではないか。そう思ったユリは、シャーロットの方をおずおずと見たのだが、彼女は既にユリの方を見てはいない。その眼はテーブルの脇、ルーツの方に向けられている。
魔獣のことに限らず、この人は、今まで私たちが交わしてきたやり取りを、全て把握しているんじゃないか。
ユリに向ける視線とはまるで違う、あからさまに見下すような冷たい眼でルーツを見るシャーロットの態度は、ユリにそんなことを思わせた。
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「治さなければ……」
不意に、シャーロットがそう呟く。語尾は急に小さくなり、聞こえなかった。
だが――、よかった。治さなければ、良かった。そう言ったのだろうか。
ユリが唾を呑み込んでいる間に、シャーロットはいつもの笑顔に戻っている。しかし、束の間見えたその表情のせいで、ユリは彼女の笑顔が、先ほどまでのように眩しくは思えなくなっていた。
疑心が膨らみ、ユリは現在、見ず知らずの人と一緒に居る、という忘れかけていた重要な事実を思い出していく。向こうがどこまで知っているかは別にして、ユリ本人はこの女性のことを知らない。そう、本来は何も知らないはずなのだ。
だから、心を簡単に許したり、赤の他人の事情に余りにも踏み込み過ぎると――、
ユリにも、ルーツの寝顔が見えた。
あの男を、そして、貧しい身なりの少女を助けようと思わなければ。無関心を貫いてさえいれば。二人は今頃、村に帰る魔脚の中で、ぬくぬくとしていられたのだ。どうせみんな死んでしまうのなら――、悪人を助けたのは失敗だった。
「それとも、優しいではなく、生易しいと言ったのでしょうか?」
聞こえてくるのは、頭に残るような厄介な言葉。聞くことに、注意を向けていなかったせいか、ユリは彼女の言うことが理解できない。
テーブルの方に視線を戻すと、やはりシャーロットはいつものように、こちらを笑顔で見つめていた。
その笑顔が、狂気を孕んでいるように映るのは、ユリの主観が入っているからなのだろうか。或いはこの女性は、ユリがいま思った通り、どこか人格的に破綻しているのかもしれない。でなければ……、狂っているのは、実はユリの方なのだろうか。
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「たしかに。一瞬で数人を殺せるほどの力の持ち主なら、窓の一つや木々の二つ。消し飛ばすことなんて訳も無い話だったのでしょう」
また、よく分からないことをシャーロットは言った。だが、相手が話すたびに水を差していては進むものも進むまい。そう思い、ユリはとりあえず話の区切り目までは大人しく黙っておこうと考えていたのだが、その試みは失敗に終わる。
「正直私にも、なぶり殺しにしないと気が済まない連中の心情は分かりかねるのです。その時間があれば、人間の一人や二人、多く片付けることができるでしょうに」
結局、口を噤んだままでいると、シャーロットの言葉が益々理解しえぬものになっていってしまうので、ユリはどうしても口を挟まずにはいられなかった。けれども、
「本当に――。あなた、さっきから何を言ってるの?」
口を挟んだところで返答はなく、前後不覚に陥ってしまっているような謎めいた台詞の意味を問いただそうとしても、シャーロットは多くを語る暇を与えてくれない。
「ねえ、お嬢様」
眉と同じように、今度は口元がヒクついていた。
「衝動的に、誰かを襲いたくなる……というのはどうでしょうか?」
まるで本物の顔の上に無理矢理、偽りの笑顔を貼り付けているかのように、シャーロットの表情筋は小刻みに動いている。
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「魔獣の特徴に、ぴったりだと思いません?」
思うか、それとも思わないか。
これは、そのどちらかを選んで答えるだけの簡単な話であるはずなのに、ユリはなぜか、ひどくソワソワし始めている自分の身体の変調を感じ取っていた。試しに深呼吸をしてみるのだが、心はちっとも落ち着かない。
「何が言いたいの?」
やっとのことで出た声は、震えていた。そして、
「たとえば、急にムラムラッときて。街の兵士を、七、八人くらい殺したくなってしまったりとか……。そのようなことに、心当たりはありません?」
シャーロットは、ユリの質問を、奇妙な問いで返してくる。
その態度からするに、話の意図を教えてくれるつもりは無いようだった。
「久しぶりのあの感覚。堪らなかったんじゃないですか? それとももしかして、私が見ていないところでは、毎日楽しんでいたりしていたのでしょうか?」
その言葉に、眉をひそめてシャーロットを見ると、ついに彼女の口元は、笑顔の仮面を引っぺがし、上品なものとはかけ離れた、酷く歪んだものに変わっていた。
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「人間たちの断末魔はお聞きになりましたか?」
「いい加減に――」
悪趣味な問い。そう言い切って、話を終わりにしてしまえるくらい能天気だったなら、ユリは幸せな毎日を送れていたのだろう。
だが、いい加減にして! そう言いかけたところで、彼女が何を言わんとしているのか、ユリは悟ってしまった。いや、きっともうずっと前から、薄々は気が付いていたのだろう。それでいて、察しの悪いふりをしていたのだ。
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