第91話 うつらうつら

 トントンと、何かをリズム良く、刻む音がしていた。合わさるように聞こえてくる、機嫌よさげな鼻歌が心地いい。うつらうつらしていたユリの鼻を、温かみを感じる匂いがくすぐった。香りが体に染みわたり、お腹の虫が小さな音を立てる。腕を目一杯、上に伸ばして背伸びをすると、ユリは目をしばたたせながら大欠伸をした。

 天井が高い……。二階の床が崩れ落ち、三階が見えてしまっている。おんぼろ宿屋もここまで来ると――。匂いに釣られて体を起こすと、女性の後ろ姿が目に入った。

 女性は、真っ赤に焼けた石の上で煮えている鍋の前に立ち、手にした玉杓子で小皿によそった煮汁を啜っては、うんうんと満足そうに頷いている。途端、寝起きのダラダラした思考は掻き消えて、ユリは今、自分が置かれている状況を思い出した。

―――――――――055―――――――――

 夢は見なかった。宿屋に泊まっている時は、毎晩のように変な時間に起こされていたせいなのか、嫌な夢ばかり見たのだが――。人を殺めてしまった直後であるにもかかわらず、ぐっすり眠れてしまうなんて。相当疲れていたということなのだろうか。

 今度は少し上品に、手を口に当てて欠伸をすると、爽やかな柑橘系の香りが鼻につく。眠っている間に、生臭い血の匂いは消えていた。髪にも、手にも、そして身体にも。血や体液は、どこにもこびり付いていない。

 しかし、こうも完全に消されてしまうと、裏路地で兵士を惨殺した。という事実そのものを疑いたくなってくるのだが……。それに関しては、ユリの身体を綺麗にしてくれたであろう張本人の存在が、あの惨劇が、虚構では無かった事を物語っていた。

 にしても――。よく見れば、衣服も違う物に変わってしまっている。

 獣の毛をふんだんに使った、肌荒れの原因になりかねない地味柄の服から、白地を基調とした高貴な服へ。はっとなり、ルーツの掛け布団をまくりあげると、此方も上品な恰好になっていた。だが、ということは……。二人一緒に身体を洗われ、意識のないまま、お人形のように着替えさせられたのだ。

 そう思い、血の匂いが消えたことへの感謝の気持ちと、勝手に裸を見られたことへの恥ずかしさが綯い交ぜになり、もじもじとしていると、白髪の女性――シャーロットがこちらを振り向いて、赤面したままのユリの傍に、大きな深鍋を運んでくる。

 しかし、そんなところを持ったりして、シャーロットは熱くないのだろうか?

 取っ手が付いているにも関わらず、素手で鍋を持ってくる女性を見て、ユリは独りでおろおろするが、女性は鍋を床に置くと、ユリと対面になるように正座した。そして、一度どこかに消え去ると、小さなお椀と、木製のスプーンを持って戻ってくる。

―――――――――056―――――――――

「お口に運びましょうか?」

「自分で食べられるからいい……です」

 ちょうど、お腹も空いていた。こんなに尽くしてくれて、感謝の言葉もない。だけど、それでも。息遣いが聞こえるほど、密着してこられるのは困ってしまう。

 眠りに落ちてしまう前のことを思い出し、ユリは軽く身体を引く。そして、不審がられない程度に、シャーロットから少し遠ざかった。

 内股座りを見ていたい。そんな訳の分からないことをシャーロットは言ったが、食べにくいからというと、彼女は即座に、鍋をテーブルに運んでくれた。

 瓦礫によって潰れた椅子は、既に修理されており、ユリは今、そこに座りながら食事をとっている。頬杖をつきながら、幸せそうな顔で見つめてくるシャーロットの視線に耐えられず、ユリは鍋の中身もろくに見ずに適当によそうと、喉に刺さりそうなトゲトゲしい形の青々とした草を口に運んだ。

「ん……美味しい……」

 予想とは異なる、滑らかな食感が舌の上で転がった。

 とろけ、小さくなっていく塊を飲み込むと、まるで甘露を飲んでいるように甘い液体が喉を伝って、心から温まっていくような気がする。

―――――――――057―――――――――

「さあ、此方もお食べになって下さい」

 シャーロットが、小さな卵のようなものを、底が深く楕円形をしているスプーンに乗せて、こちらの口元まで差し出していた。色合いは紫に近く、おどろおどろしい見た目をしている。だが、意を決して口に入れると――、甘い出汁が良く染みていた。白くゼリー状になった塊も、口の中でぷるんと震えたかと思うと、じゅわ~と溶けて広がっていく。食欲がそそられない外見とは裏腹に、気づいた時には、ユリは鍋の中身をすっかり完食していた。

「ところで、お嬢様」

 ユリの手が止まるのを待っていたのか、ひと息ついたところで、シャーロットが話しかけてきた。鍋の残り汁に浸して柔らかくなった大きな小麦色のパンを頬張ろうとしていたユリは、期せずして飲み込んでしまい、胸を数度叩くと涙目になる。

「どうぞ」

 グラスに注がれた水をひと飲みすると、ようやく息苦しさが紛れてきて、ユリはシャーロットにお礼を言った。

「昨日の件、どこまで覚えておいででしょうか?」とシャーロット。

 ――十一年前だか、云々。

 そう答えようとしていたユリは、『昨日』という言葉に引っかかり目を落とす。それからそもそも、どうして自分が狭い路地に行きついたのかを思い出し青ざめた。

―――――――――058―――――――――

「えっ、もしかして……というか、私――どのくらい寝てたんですか!」

 村に帰るには、迎えの役人の魔脚に乗るしかない。ユリは、がばっと立ち上がり慌てたが、その直後。

「丸一日――くらいでしょうか? もうすぐ日が暮れます」

 シャーロットの言葉を聞き、へなへなと椅子に崩れ落ちた。少しの遅れならまだしも、一日となっては、役人はもう同じ場所で待っていてはくれないだろう。力が抜けた両手からグラスがすっと滑り落ち、カランと小さな音を立てる。僅かに残っていた水が、テーブルの上に薄く広がり、シャーロットは慌てて布巾を取りに行った。

 もちろん、この女性が真実を言っているとは限らない。だけど、最近溜まりがちだった眠気がすっかり吹き飛んでいるところをみるにやっぱり――。

 事実を認めたくない自分自身と格闘していると、女性の後ろ。流し台だと思われる場所に、現在テーブルの上にあるのと同じくらいの大きさの鍋がいくつも並んでいる。そんな奇妙な光景に目が留まった。女性も、ユリの目線の行き先に気が付いたようで、少し照れくさそうな笑みを浮かべる。

「いつでも温かく、作りたての物を食べていただけるようにと……。未熟ゆえに、お嬢様の起きる時間すら分からなかった私をお許し下さい」

 鍋の数は、十を超えていた。これを一つ作るのにかかる時間は推し量ることもできないが、ユリが眠ってしまってから相当長い時間が経っていること。それはほとんど確定的なようだった。だが、そんなことよりも、まるで神様でも相手にしているような敬い慎むような態度を向けられているのがどうにも気持ち悪くて、場の空気を変えるためにも、ユリは話を元に戻す。

―――――――――059―――――――――

「それで、十一年前がどうとか、そんな話をしていた気がするんだけど……どうも信じられないというか、なんというか……」

 なぜ助けてくれたのだ、とか、どうやってあの量の瓦礫を止めたのだ、とか、他にも聞きたいことは山ほどあった。だが、変にこちらから質問して、機嫌を損ねられてはたまらない。女性の性格や素性がよく分かっていない以上、出来るだけ当たり障りのないように尋ねられた質問に素直に答えていく。今はそれが最善策だろう。

 そう思い、まずは相手を理解する所からと、ユリは女性の眼を見つめたのだが、

「この紙を破っていただき、記憶を見てもらえれば、全てがはっきりするかと」

 シャーロットはまどろっこしい交渉事が苦手な質なのか、それだけ言うと、一枚の紙をテーブルの上に滑らせた。やはり、あの出来事は妄想では無かったのだ。そう、ユリは確信し、ゆっくりと息を吐く。城に戻ってほしい。そう言われたことも、その後で、深い森の中に居るような奇妙な景色を見たことも。

 紙を手に取り、眺めてみるが、やはりそこには何も書かれていない。ユリは念入りに調べたうえで、紙をシャーロットに突き返した。

「やっぱり、直接話して欲しいです。それに――」

「信用できない、でしょうか?」

 意中の事を言い当てられ、ユリはぎくりとのけぞった。もちろん、直接話したいというのも、まるっきりの嘘というわけでは無かったのだが、それはあくまで建前のこと。自分とルーツを手厚く介抱してくれたことに対する感謝の気持ちと、信頼して身を預ける気分になれるかどうかは、また別の話だった。

―――――――――060―――――――――

 それに正直、ただの真っ白な紙を見せられて、これこそが貴方の過去を知るための重要な手がかりです。なんて言われたところで、信用なんかできやしない。

 もっとも、役所で目にした記憶の紙が、綺麗に区分けされていたことを考えるに、記憶を見分ける方法は確かに存在するのだろう。が、その見分け方を知らない以上、この紙に封じられている記憶が、見ず知らずの人のものだったとしても、ユリにはまったく判別することが出来ないのだ。

 だから、記憶の中に入ったっきり数十年間も出られなくなってしまうことだって、可能性としては考えられる。それに、記憶を見るという決断は、そう簡単に下していいものではない。ともすれば好奇心に負けそうになる身体に、ユリの理性が必死に警告していた。

 すると、シャーロットは姿勢を正し、わかりました、とユリを見つめる。

「説明するという行為が得意ではありませんので、どうしても伝わらないところが出てきてしまうのですが……」

 そして、そう前置きをすると、髪をいじった。今から語られるのは、事の成り行き? それとも遠い昔の記憶? もしくは自分の身の上話? いずれにせよ、話の芯に至るまでには時間がかかるだろう。と、ユリは当たりをつける。だが、ポツリと話し出したシャーロットの言葉は、あまりにも唐突で――、もしや、時が飛んでしまったのではなかろうか。そう考えたくなってしまうほど、謎めいていた。

―――――――――061―――――――――


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