第90話 夢うつつか、幻か

「どうされましたか、お嬢様?」

 名前に、女は反応した。ユリは、キョトンとした顔で此方を見る女の様子に、頭を抱えて立ち尽くす。

―――――――――050―――――――――

「何か思い出されたのですか?」

 思い出す? そういえば、前にもそんなことを言われた気がするのだが……。とするとこの女性は、ユリが忘れてしまった過去について、何か知っているのだろうか。

 美麗な身なりに、品のある言葉遣い。それに、ユリのことをお嬢様といい、従事するその態度。記憶を無くす前は、良い所の子女だった。そんな夢物語を、ユリは一瞬思い描いた。が、女性の長く伸びた、人のそれとはかけ離れたかぎ爪と、自分の今の状況が、可能性をすぐに否定していった。

 貴族、王族の娘が、森に捨てられた挙句、記憶喪失になり、終いには気を失っている合間に人を殺す――? 高貴な身分というものは、どれもこれも、ユリが今まで歩んできた、見てきた光景とは釣り合わない。

「シャーロット……さんで、合っているんですか?」

 躊躇いながらそう言うと、女はユリをまた抱きしめた。

「失礼ながら昔のように、シャルと気軽に呼んで欲しいのです」

 そう言うと、突然耳元で、ふっと息を吹きかけてくる。甘く囁かれてしまったユリは、耳を押さえたまま、飛び跳ねるようにして距離を取った。

―――――――――051―――――――――

「また会える――この日をずっと待ち望んでおりました。本当に、以前と変わらず、可愛らしいことこの上なく……」

 女はどういうわけなのか、心底嬉しそうに言葉を紡いでいる。二つの目玉がギラリと光り、身体がわなわなと震えていた。

「あー、もう我慢できない! 不肖、シャーロット。このまま、お嬢様のところへ飛び込ませていただきます!」

 その言葉にうそ偽りはなく、本当に飛び込んできた女の姿に、自衛本能が働き、ユリの足は自然と上がった。そしてそのまま、脳天にかかと落としを食らわせようとする。が、決まる直前、何故だかルーツの顔がちらついて――、攻撃は外れ、ユリは女に押し倒された。自分で押し倒しておきながら、女は不満そうな顔をしている。

「……お嬢様。腕、いいえ、足さばきが鈍りましたね。もしや、あまり栄養のある物を召し上がってらっしゃらなかったのですか? 心無しか、少し痩せてしまっているような……胸もへっこんだような……」

 赤面しながら押しのけようとすると、女はユリの手を引っ張って、立たせた。

「私、あなたが――」

「シャルで、お願いします」

「シャ……シャル……さんが、誰かとか、何者かとか何にも分かってないの。正直、助けてもらったのは感謝してる。だけど――」

―――――――――052―――――――――

 続きを言おうとすると、不意に指で、唇に蓋をされた。

「お嬢様は知りたいですか? それとも、知りたくない?」

 女の目が怪しく光る。その左手には、白い一枚の紙が握られていた。そして女は、それを破る真似をする。

 ――此処には悪い記憶が収められているのです。

 ルーツが手紙を見てしまった夜。役人とともに記憶の部屋に入ろうとした時に、言われた言葉が蘇った。

「もしかして……それが、私の記憶なの?」

「間違ってはいませんが……正しくもありません」

 そう言うと、女は、自分の頭をコンコンと叩く。

「お嬢様の記憶は、ここ。そして、いま目の前にあるのは、私の悪しき記憶。十一年前、お嬢様がお城から逃げ出された日の、私の記憶です」

 女の一言一言が、キンキンと頭に響いた。ひどい耳鳴りが頭を襲い、目の前にあるはずの紙が歪んで見える。そのうえ、見たことがないはずの光景が、ふたたび脳裏に浮かび上がり始め――、ユリは反射的に手をかざし、目を覆った。

 が、それでも。どれだけ固く目をつぶろうと、その光景は消えることがない。

―――――――――053―――――――――

 人の姿とは思えない、全身に真っ黒い毛が生えた怪物が――。異形な風貌をした怪物が、何かを訴えかけていた。どこからか飛んできている閃光を、全て自分の身体で受け止めながら、誰かに逃げろと叫んでいる。

 だが、次の瞬間。怪物は、結晶の中に囚えられ、爆炎とともに、その場から跡形もなく吹き飛んでしまった。

 そしてユリは、誰かに抱きかかえられ――、いや、ユリが誰かを抱えているのだろうか。薄暗い森の中を走り、木の根につまずき、そこへ大きな蛮刀が――。

 気が付けば、ユリは顔から滝のように汗を流し、不規則な呼吸をしていた。

 十一年前? 女の話には明らかに、辻褄の合わない箇所があった。

 十年以上も前に、城から逃げ出せるほどの年だったならば、ユリはもう、とっくに大人になっているはずであろう。が、ユリは現時点で、やっと十一歳。誰かに教えてもらわずとも、体のつくりや、声などから、自分の大体の年は分かっている。どう多く見積もったとしても、十五を超えているなんてことは無い。だけど――。

 そんなことはあり得ないと分かっているはずなのに。さしたる証拠もないと分かっているはずなのに。女の言葉には、信ぴょう性を感じさせる何かが有った。

「どうか、この紙を破り、私とともに戻って下さい」

 そう言われ、ユリはフラフラと、まるで立ちくらみを起こしたように後ずさった。青みがかった霧に包まれた、幻想的な森の風景と、廃墟と化した埃臭い暗室。この二つの光景が代わる代わる現れて、どちらが現実なのか分からなくなっていく。

 そして、とどめを刺したのは、数種の果実を混ぜ合わせたような甘い香り。

―――――――――054―――――――――

「ですが、今はお疲れでしょう。ゆっくりお休みになったら、その後でうかがわせていただきます」

 シャーロットの落ち着いた声質に、意識がだんだんとぼやけていく。

 引き込まれるような不思議な感覚に、全てがどこかへ遠のいていく。

「お休みなさい、お嬢様。そして……お帰りなさい。我らが――」

 夢うつつか、幻か。

 最後の言葉が届く前に、ユリの意識は落ちていった。

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