第十六章 再会

第89話 治らなければ死ぬだけ

 知らない名前。知らない声。だけども、目の奥が熱くなったり、頭が痛くなったりすることは無い。シャーロット。その言葉は、口に馴染んだ。

 が、馴染みはすれど、身に覚えがあるわけではなく。ユリは、名前をつぶやいてから我に返り、途方に暮れたように立ちすくむ。

「あれ……私、何を……?」

「良いんですよ、お嬢様。おいおい思い出していきましょう」

 そう言われると、ふたたびふんわりとした柔らかな感触に包まれた。とともに、どこからか、ほんのりと漂ってくるのは果実の香り。甘い雰囲気の中でまどろんでいると、自分を見失ってしまいそうな気がしてくる。……だけど、

「っつ……」

 肩の痛みが、現実を思い出させてくれた。すると、ユリを抱きしめている何者かは、暗闇の中でも物を見通すことが出来るのか、

「大丈夫ですか、お嬢様! ああ、肩に酷い怪我をしていらっしゃる。どうして黙っていたのです!」

 慌てたようにそう言うと――。薄暗い光が、部屋の中に現れる。

「すみません、今は見つかると厄介ですので……」

 数個ほどの豆粒大の光。それが眼前でゆらゆらと漂い、ユリを抱きしめている――いや、ユリの傷を食い入るように見つめている、何者かの顔を照らしていった。

―――――――――045―――――――――

 まったく日焼けの痕が認められない、雪のような白い肌。細長く切れ込んだ目尻に、少しぷっくらとした色っぽい唇。鼻筋の通った高い鼻。それから、シャープで美しい顎のライン。だが、端正な顔立ちや、均整の取れたスタイルよりも。ほとんど白に近いような浮世離れした金髪に、ユリの眼は吸い寄せられた。

 お嬢様――と言っただろうか? だが実は、この女性本人がお嬢様。いや、どこぞの王国の妃であったとしても、ユリは全く不自然には感じないだろう。

 そう考えて、少しどぎまぎしながら、女性と床を交互に見つめていると、

「失礼します」

 肩にピリッと痛みが走る。

「こうしないと、魔法が身体に回ってしまいますので――、お許しください」

 やってきたのは、一瞬の気持ち悪さ。だが徐々に、軟膏のようなぬめりとした何かが、肩の熱を冷ましていった。

「他にお怪我は――」

 そして、そう言われたところで、ユリはルーツのことを思い出す。

「私より、ル――、ルーツの方が危ないの! 背中に、大きな槍が刺さってて……息をしてるのかも分かんないし、目も開けてくれないし……」

「承知しております」

―――――――――046―――――――――

 そう言い終わる前から、女は既に、ルーツの傍にしゃがみ込んでいた。しかし、精神統一でもしているのだろうか。その両手は微動だにしていない。

 かと思うと、右手が高々と振り上げられ――、聞こえてくるのはカランという軽い音。気が付けば、根元から切断された槍の残骸が、ユリの足元に転がっていた。そしてルーツは横向けにされ、女にまぶたを覗かれている。

 だが女は、ルーツの状態を確かめるばかりで、一向に処置を施そうとしないので。その様子に、ユリはひどくうずうずした。

「どうなの? 大丈夫よね?」

 大丈夫、という言葉以外、許さないような口調でそう言うと、女は振り返ってこちらを見る。目の前にいるこの人物は謎だらけだった。だが、治してくれさえするならば、そんなことはどうだっていい。

「何とも言えませんね。厳しく見積もって三対七。助かる方が、七といったところでしょうか。流れ出ている赤黒い血と、その勢いを見て取るに、そこまで危険な箇所が傷ついているとは思えませんが、ここでは、安全で新鮮な血を補充することすらままなりませんので。それに、抜いた後の出血のことを考えますと……。私には、この方の気力も体力も分からないので、正直判断しかねます」

 女は落ち着いた声音で、ユリの疑問に答えた。

―――――――――047―――――――――

「ですが――、傷口が熱を持ち、この方の体力は徐々に奪われています。いずれにせよ、この劣悪な環境の中、ただ傷を放置するというのは、悪手、悪手です」

 その言葉とともに、何もなかったはずの空間から、モワモワとした湯気を放っている、液体が張った桶が湧いて出る。

 それから少し遅れるようにして――。青臭い雑草が、床に小高い丘を作り、女はその中から慎重に、一本の草を手に取った。

「……ほんの少しの事ですので。出来れば後ろを向いていてもらえると、とてもありがたいのですが」

「見ていたいの」

 逆らう気なんてなかったはずだった。だが、気付けばユリはそう言っていた。

「見たい、というならお止めは致しませんが……」

 すると、ぽきりと折れた茎の中から、大量の粘液がこぼれだし、女の腕を伝っていく。そして、粘液が指になじんできたところで、女は細心の注意を払いながら、両手を桶に近づけた。が、液体と両手が触れた瞬間、いったい何が起こったのか。女は我を忘れた様子で、桶を勢いよくひっくり返してしまう。

 一瞬の後、ユリの視界に入ってきたのは、異常に鋭く、フックのような形をした長い爪。ふたたび見えた女の指は、明らかに異様なモノへと様変わりしていた。

 そして、植物から出た粘液とは思えないほどサラサラとした、まるで糸のような物体が、指の合間で時折光り、女の手の内で、自由自在に形を変えていく。

―――――――――048―――――――――

 だけど、怪我の治療というからには。てっきり、人差し指でもルーツに向けて、魔法をごにょごにょ唱えるものだと思っていたのに――、

 魔法一つで即完治、という訳にはいかないのだろうか。女のやり方は、ユリが想像していた治療法とは、何もかもが異なっていた。

 とはいえ、それでルーツが治るのならば構わない。けれど、出来ることならこれ以上、ルーツの身体を傷つけたくない。……そう考えて、

「できれば、なるべく痛くないやり方で治してあげてください」

 ユリはそれとなく、便利な魔法を使ってくれるようにと、女に頼み込んでみる。だが、その返答として、女がさり気なく口に出したのは、今までユリが魔法に対して抱いていた、一種の万能感ともいえる考えをぶち壊す一言。

「……残念ですが、魔法は、魔法によってできた傷にしか効きませんので。擦り傷とか、それに刺し傷とか。こういう不慮の事故で負った傷は、地道に治していくしかないのです。大切になってくるのは、一に清潔。二に睡眠。三に本人の気の持ちよう。傷口を綺麗に保ち続けて、今しがた、この方がしているようにたっぷりと睡眠をとって、それから治ると信じれば、大抵の傷は治ります。治らなければ死ぬだけです」

 そう言われ、青ざめるユリを他所にして、ですが、そう天任せにもしておけないので、と何食わぬ顔で女は続けた。

「他でもないお嬢様の頼みとあらば、私も少し力をお貸ししましょう。補充がなければ無くなる前に。手早く終わらせてしまえばいい。つまりは、そういう事なのです」

 女がそう呟いたかと思うと、ルーツの背中から、一筋の血しぶきが噴き出した。そして棒状に近い塊が、宙で一瞬煌めいて、女の足元にポトリと落ちる。

―――――――――049―――――――――

 背中の槍が引き抜かれた。

 ユリがそう理解する前に、噴き出していた血は収まっていた。

 そして女はと言えば、既に一仕事終えたような様子で、額にじんわりと滲み出ている、玉のような汗をぬぐっている。

「……とりあえず。ある程度の処置はしておきましたから」

 そう言われ、ルーツの傷口を目にすれば、そこに巻かれていたのは白い包帯。その上、自分の前方に目を向ければ、そこには既に、フカフカの布団が敷かれてあった。

 ――手品みたい。

 そんな陳腐なセリフを、前にも口にしたことがあるような気がする。

 だが、この早業を、いや、この衝撃を。

 驚愕以外の言葉で、何と表すことが出来るだろう。

「驚かれました?」という女の言葉に、ふたたび奇妙な映像が頭に浮かんだ。

 ユリは、誰かと一緒に食事を取っていた。場所は先ほどの通り、本に埋め尽くされた小さな一室。口周りの些細な汚れを、その誰かが拭いてくれていた。どうしてこぼさずに食べられないんですか。と、少したしなめるように言いながら。そして――、

「シャーロット」

 ユリはまた、気付けばその名前を口に出していた。


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