第88話 懐かしさ
バーン、という何かが破裂したような大きな音。とともに、建物全体が大きく揺らぎ、ユリは向かい側の壁まで吹き飛ばされた。今にも踏み込んできそうだった男の姿が掻き消え、代わりに、緊迫した大きな声が所々から聞こえてくる。
「先輩! 居ました! 魔獣です!」
「馬鹿! 直接、連絡しに来るな。耳のそれは何のためについてるんだ! それに、さっきは確かにそう言ったが、王都内に魔獣が突然現れるわけが――」
「見間違えじゃないんです。私たちだけじゃ、もうどうにもできなくて――」
再び、バーン
「二番隊が全滅しました! 先輩も早く!」
通り全体が崩れていく。
そんな錯覚を抱いてしまうほど、大きな地鳴りがユリを襲った。身体が大きく跳ね上げられ、腹から床に、ひじゃけた蛙のように無様に叩きつけられる。
ルーツの頭が机の下に隠れていたことは、不幸中の幸いだった。もっとも、元は見つかりにくいようにそうしていたのだが――。
大きな木杯が落ちてきて、ユリの頭にコツンと当たる。先ほどの地響きで、地盤が傾いてしまったのか。食器が棚から、雨あられのごとく絶え間なく降り注ぎ、頭を抱えるユリの近くで、床を大きくへこませていった。
そして終いには、轟音とともに棚が倒れ、ユリは、空中に舞い上がったホコリをまともに吸い込むことになる。思わず咳き込んでしまい、辺りをうかがうが、人気は無い。ユリの咳を耳にしたものは、誰もいないようだった。
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……今なら。今なら、此処から出られるかもしれない。
しかし、喜んだのも束の間に、みしりという嫌な音が天井から聞こえてきた。
重みのせいか、それとも年月のせいなのか。天井に生まれていた小さな割れ目が、見る見るうちに大きくなっていく。
崩壊はあまりにも早かった。ルーツに向かって手を伸ばすよりも早く、声をあげるよりも尚早く。バツ印のように、斜めに亀裂が入っていた天井がすっぽ抜ける。そしてそのあとを追うように、無数の瓦礫が、二人の上に降り注いできた。
だが、落下する寸前で――。
瓦礫はそこが、地面だと言わんばかりにピタリと止まると、目を丸くし、呆然としているユリを避け、弧を描きながら左右に落ちていく。
最後まで残っていたのは、兎の縫いぐるみ。それは、重力など歯牙にもかけていないように、たっぷり十秒間は空中に留まっていたが、やがて力を無くした様子で、ユリの手の中にふわりと収まった。
けれども、どんな超常現象が起ころうが、魔法が使われようが。そんなことはどうでも良かった。
「怪我してない?」
答えが返ってこないのは分かっていた。それでも、ユリは縫いぐるみを放り投げると、一目散にルーツの元へと駆け寄った。
声を出してはいけない。そんな一番大事なことをすっかり忘れたまま、ユリはルーツの身体を撫でまわし、無事を確認する。……そして、
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「はあ……よかったあ」
結局、更なる傷は見当たらず、ユリは、安堵のため息をこぼした。
が、その直後。何かに身体をまさぐられたような気がして、また表情を硬くする。
伝わってきたのは、ごわごわとした感触。いつの間にか服の中に、正体不明の何かが入り込んできていた。しかもその上、その何かは腹を伝い、首の方へと近づいてきている。そして次の瞬間、服と胸元との合間から、小さな顔をひょっこり出した。
「うさぎ――の、縫いぐるみ?」
「だい、だい、だいせいか~い!」
陽気な声が、部屋の隅から聞こえた。瞬間、暗闇の中で光った何かに、ユリは小さく息を呑み、声の主はクスクスと笑う。
「私を……殺しに来たの?」
「そうだと言ったら?」
今度は、試しているような口調でそう続ける。そして、聞こえてきたのは指を鳴らしたような破裂音。とともに、ふたたび地鳴りがやってきて。わずかな光を与えてくれていた穴が、瓦礫によって押しつぶされた。
「もう、逃がしはしませんよ。こんなに待ったんですもの」
暗闇の中から聞こえてくるのは甘い声。声色が、喋るたびに変わっていた。
元より、誰かが助けに来てくれた――などとは思っていなかった。が、逃げ場を失った。その衝撃は大きかった。危害を加える意思が無いのなら、逃げ場を塞ぐ意味はない。ということは、瓦礫に押しつぶされるままにしておかなかったのは、自分の手で仕留めたかった。そういうことなのだろうか。
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いずれにせよ、もうどうすることも出来ない。此処で――、此処で死ぬんだ。
ユリは理不尽な運命を呪い、そして覚悟を決めた。魔法? それとも刃物? 痛いのは嫌だ。だけど――、口の中に入っていた指のことを思い出す。
兵士たちも、赤い鎧を着たあの人も、死ぬときは痛かったんだろう。と考えると、穏やかな死を望むのはいけないことなのだろうか。
だが、伝わってきたのはとても暖かな感触だった。まるで夢を見ているよう。お日様の光をたくさん浴びた、フカフカな羽毛布団に包まれているような――。
廃墟と化した住宅には場違いすぎる感触に、ユリは自分が、既に死んでしまっているのではないかと錯覚する。しかし――、背中に回されたのはしなやかな両腕。豊満な胸を押し付けられているような柔らかな感触。そして、耳に当たっているのは、とろけそうなほど甘い吐息。
「冗談ですよ、ユリお嬢様。さあ、一緒にお城に帰りましょう」
初対面なはずなのに、何故か懐かしさを感じる声がした。
幼いころから、ずっと一緒に居たような。全てを包み込んで受け止めてくれそうなその声が、ユリをうっとりとさせていた。
「さぞ、辛かったことでしょう。こうして生きていてくださっただけで、私にとって、これ以上の喜びはありません」
そう言って、乱れた髪を優しく撫でてくれる。
前にも、こんなことがあったような――。既視感を感じた。四方を、天井に届かんばかりの本棚に囲まれた、小さめの部屋。そこにユリは居て、誰かと楽しそうにしゃべっている。そんな、見たことも無い映像が頭に浮かんだ。そして――、
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「ええ、帰りましょう。シャーロット」
ユリの口は、また勝手に声を発していた。
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