第87話 満身創痍
「でも、一撃でこんな……人間業じゃない。よく平然としていられますね。私は先ほどから震えが止まりません」
「案外、こいつは本当に、人間以外の仕業かもしれんぞ」
不安に怯えた弱々しい声と、年季の入った声が交互に聞こえてくる。
「そこの兵士なんて……」
「ああ、単に二階の屋根から落ちただけじゃ、こうまで酷くはならんだろう。六階、いや、少なくとも五階以上。かなり高所から放り投げられたか……それとも、人ならざる力で、余程強く地面に叩きつけられたのか」
「先輩、人が亡くなってるんですよ。まじめにやって下さい! 魔獣が王都の門をくぐれるわけがないでしょう?」
「まあ、それはそうなんだが……。まさかこんなところにはないだろう。と思っていたところから、無くしたはずの物がひょっこり出てきた。そんな経験は、誰しもあるものだろう? 普段、当たり前だと考え、疑ってもみないようなところに手掛かりは転がっているもの。初めからそう心がけておけば、見落としは少なくて済む」
二人の牧歌的な掛け合いに、ユリはため息をつきかけて、慌てて口を覆った。
もし、軽はずみに音を立ててしまえば、その時が最後。外にいる人々は、建物の中にまで、ユリを探しにやって来るだろう。だから、気を緩める余裕などあるはずも無いのに――、軽率な自分を殴りつけたくなってくる。
―――――――――034―――――――――
「ちょっと、本当に困りますって……事によっては貴方が捕まりますよ!」
しばらくの沈黙の後、ふたたび遠くの方から、別の若者の諫める声が飛んできた。そしてその声に被さるようにして、年季の入った声も聞こえてくる。
「なんだ、やかましい。……誰も入れるなと言っておいただろ」
どうやら、野次馬たちの大声に集中が削がれてしまったらしい。老練さを感じさせる声は、面倒くさそうにそうぼやいていた。……だが、
「役人さん、聞いとくれ。私は血まみれの女の子を見たんだよ!」
場の空気は、張りのある女性の声で一変する。
息を呑む音が重なり、大きな音となっていく。視覚的な情報は欠けているが、議論の余地も無い。現場が色めき立っていることは、騒めきからも明らかだった。
「本当か? いったいどこへ――」
「この路地の中さ。それはもう、勢いよく飛び込んでいったよ。こう、たたーっと、な。ほら、あんたたち、そうだったろ?」
「ああ、姐さんの言う通りだ。チムの奴なんか可哀そうに、この前買い替えたばかりの植木棚を、すっかりおじゃんにされちまって――」
「あんなのが居るとなると、安心して街を歩けやしない。憲兵の旦那、今日こそはとっちめてやって下さいよ!」
女性は何人かを引き連れて来ているようで、大勢の男たちの賛同する声が上がっていた。だが、そんなことはどうでもよかった。
それよりも――、
血まみれの女の子。この言葉は、今のユリの見てくれを正確に言いなすことに成功している。これはどう考えても、偶然の一致などでは片付けられない。
それではやはり、意識を失っている間に私は――。いや、そもそも私は本当に、気を失っていたのだろうか?
―――――――――035―――――――――
他人の口から語られる自分の姿。その情報は、大きな衝撃を伴った。
少しの間に、いったい何が起きたというのだろう。何を間違ったら、あれほど悲惨な現場が出来上がってしまうのだろう。
女性の話は断片的で、全体像は見えてこなかった。ただユリは、自分が兵士たちを殺した殺人鬼だったという仮説。その説が、紛れもない事実であった可能性が、ますます深まっていくのを感じていた。
「分かった。ありがとう、もう下がってくれ」
興奮するように言う女性とは対照的な、暗い声がした。
「ちょっと何さ。せっかく教えてやったんだから、せめて一杯ぐらい、うちで引っ掛けて行ってくれよ。それが、付き合いってもんじゃ――」
つれない兵士に、強気に迫ろうとした女性の言葉が、宙ぶらりんに立ち消える。
ふたたび聞こえてきた声は、怯えたものへと変わっていた。が、情報源を音に頼るしかない現状では、何が起こっているのかさえ分からなかった。
「な、なんて顔してるんだい。喧嘩とかじゃなかったのかい。もしかして殺し――」
「より悪いやつさ」
だが、事態が良からぬ方向に動いていることだけは、何となく伝わってくる。
「おい、そのままゆっくりと後退しろ。現場が荒れると俺がどやされることになる」
その声を最後に、話し声はパタリと止んだ。それからは、どんなに神経を研ぎ澄ましても、音は何一つとして聞こえてこない。
此方の居場所に気がついたのならすぐに突入してくるはずだ。そうは分かっていながらも、唯一の手掛かりを絶たれたことで、ユリの緊張はますます高まった。
―――――――――036―――――――――
「あった、これだ。一つ目……と、もう一つ」
ふたたび声がするまで、どれほどの時間が流れたのだろうか。もしかすると、それは瞬きする程度のわずかな間のことだったのかもしれない。だが、実際の時間の進みがどうであれ、今にも死んでしまいそうなルーツとともに沈黙の中にいるユリにとって、何も出来ずにただ待つ瞬間は永遠にも感じられた。
「全部で二つ。お前は、こっちを探ってみてくれ。……分かっているとは思うが、相手は相当の使い手だ。幾ら手負いであったとしても深追いするなよ。くれぐれも注意しながら事に当たるんだ」
その言葉とともに、また一人。軽い足音が遠ざかっていった。
そこで、沈黙に耐えかね、もう誰もいないのかと勘違いし、危うく顔を出すところだったユリは、深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとする。だが、
「おい、出てこい!」
外からは、こちらの姿は見えていないはずなのに。それに、悲鳴はちゃんと噛み殺していたはずなのに。
怒声とともに放たれたのは、見るもまぶしい一筋の光。光は壁を貫いて、いともたやすくユリの足元に突き刺さった。そして、続けざまに放たれた閃光も、まるで狙いすましたかのように、頭上すれすれを通過していく。
―――――――――037―――――――――
見つかったのか。でも、どうして――?
その疑問は、簡単に解かれた。ルーツの背中から血が滴り、一定間隔でポタポタとユリが入り込んできた場所まで続いている。
あの女の指摘がなかったら――。路地には、あれだけの量の血痕が残っていたのだ。不幸の女神に愛されてでもいない限り、そう直ぐに見つかることは無かったろう。が、一度目に留まってしまえば、これほど怪しいものも他にない。
焦りすぎた。兎に角、ルーツを隠すことだけを考えていたため、血のことにまで頭が回っていなかった。そう思うも、今さらどうすることも出来ず、ユリは唇を噛む。
大人しく出て行った方がいいのだろうか?
そう考えていると、魔法が、水の張っていない陶器の花瓶を直撃し、乾いた派手な音を立てた。一瞬遅れて、破片が二人のもとに降り注ぎ、ユリはルーツを守るように四つん這いになると、その姿勢のまま思考を巡らせる。
今出て行けば――? ユリはもう、幾人もの人間をこの手に掛けてしまっているのだ。ニーナの父親の例から見ても、降伏したからといって許されるとは思えない。おそらくは、話も聞いてもらえないまま蜂の巣になり、形も残らないのがオチだろう。
それよりも――。実行犯が此処に潜んでいると分かっているのなら、大勢で踏み込んできても良さそうなものなのに。誰ひとりとして家の中に入ってこないのは、ひょっとすると、ユリのことを懼れているからではなかろうか。
正直、殺すどころか。今のユリには、誰かに怪我を負わせられる自信すら無いのだが。向こうが勝手に怖がってくれているのなら、これを利用しない術はない。
―――――――――038―――――――――
そう考え、声を出さずにじっと耐えたまま、ユリは今までの姿勢を貫くことを決心する。しかし――。先ほどから、あと僅かと言ったところを通過していた呪文が、ついに右の肩に命中した。
いつかは当たるだろう。当たってしまうのも時間の問題だろう。そう覚悟は決めていたはずだった。だが、伝わってきたあまりの衝撃に、ユリはその場に倒れ込むと、考えていたことを全て忘れて、傷口を押さえながら悶絶する。
それは、予想以上の痛みだった。まるで火かき棒を押し当てられているような、ジンジンとした鋭い痛み。熱いどころの話ではない。苦しいどころの話ではない。焼けつくような熱感が、身体に絶え間なく押し寄せてくる。
ユリにしてみればその間中、声をあげずにいられたのが不思議なくらいで。次々に傷口を狙い撃ってくる、無慈悲な呪文の数々に、無力な少女は恐れおののいた。
それに、いくら此処で耐えしのいだとしても、そう遠くないうちに、兵士はこの中に入ってくるだろう。だから結局、自分が今やっていることは問題の先送りでしかない。ユリはそのことに薄々気が付いてはいた。しかし、だからと言って、傷ついたルーツを担いだまま、逃げ切れるとも思えなかった。
去るも地獄。残るも地獄。万に一つの可能性でもすがりつきたいくらいだったが、馬鹿げた案すら浮かんでこない。
すると、今度は呪文が耳を掠めた。と同時に、ユリたちが入ってきた穴のすぐ傍に人の気配がする。肩の痛みが残る中、ユリは這いずるようにしてそこを目指した。覗き込まれる前に、穴を自分の体で塞いでしまえば、もしかするとルーツは見つからないかもしれない。そんな自殺のような、なおかつルーツも助からない可能性が高い案が、咄嗟に思いついた最後の手段だった。
しかし、肩の傷は外気に触れただけでもうずき、両手で無理やり口を塞いでいないと悲鳴がこぼれてきてしまう。これでは動こうにも動けない。
―――――――――039―――――――――
結局、半分も進めないでいるうちに、穴の周りに、錆び付いた槍の先端が突き出された。……まったく、用心のいいことだ。敵はこんなに満身創痍で、一歩動くことすらままならない状態だというのに。
付近の安全を確認し終えたのか、大きな足音が近づいてくる。
此方の実力を看破し終わったのか、ゴツゴツとした手が穴に掛かる。
その時だった。
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