第86話 生き延びるために
ドッ、ドッ、ドッ。
意識が消えたと思ったのは、一瞬だけの事だった。ユリは、痛いくらいに跳ね上がる自らの心臓の音で、暗闇の世界から帰って来たことを実感する。もう奇妙な声は、そして激痛も感じなかった。あれは幻聴だったのだろうか、それとも――。
手を握ったり、身じろぎをしたりして、自分の存在を確かめる。だが、その直後。気道の奥から込み上げてきた猛烈な臭気に、ユリは身体を震わせた。
口の中から腐臭がする。それは、失神しかけるほどの耐えがたい臭いだった。まるで、肥溜めに捨てられていた魚を、鼻先に突き付けられているような不快感――。思わず口を押さえたが、吐き気を留めることは出来なかった。
次の瞬間には、見られることも気にせずに、喉の辺りを押さえつけ。這いつくばるようにしながらゲエゲエと、胃の中身を吐き出している。
―――――――――028―――――――――
目に入ってきたのは、変色した血。ただ、自分の口内には何の傷も見当たらない。不思議に思って顔をしかめていると、喉の辺りに違和感が一つ。魚の骨のような尖ったものが、引っかかっている感触があった。
涙目になりながら咳き込むと、コトン、と小さな音がする。そして、長細い形の物体が、手のひらの上に落ちてくる。それは、誤飲したにしては大きすぎる、真っ黒に焦げ付いた塊だった。だが、皺と、わずかに残ったいびつな爪。その存在が、それが指であることを告げていく。すると、案の定なのかもう一本。第一関節のあたりで、ねじ切れてしまった太い指が、苦みの混じった唾液とともに喉の奥から現れた。
「う……ぁ……」
まともな声も出てこなかった。
目にした現実が信じられず、カタカタと震える一方で。口の中にこんなものが入っていたことが、どうしようもなく気持ち悪くて。気持ち悪くて。吐いて、吐いて、何もなくなっても吐き続ける。口から唾液が無くなって、もうどうにも出来無くなってしまったところで、自傷行為はようやく止まった。
シャンシャンという早鐘の音が、どこかから聞こえてきている。そこで、ユリは初めて顔を挙げ、それから路地の惨状に気付き、目を見開いたまま硬直した。
――兵士たちが、私を取り囲むようにして倒れこんでいる。
それは、近くに倒れていたルーツの太腿に新たな傷が出来ていることを認め、青ざめた顔で近寄ろうとした直後のことだった。
ある者は顔面を陥没させて、ある者は助けを求めるように壁にすがりつき――。身体中に眼球ほどの大きさの穴を幾つも空けられたその姿を見れば、素人目にも既にこと切れていることぐらい分かってしまう。
―――――――――029―――――――――
ポタリ、ポタリと髪からは冷たい血が降ってきていた。
これも、どう考えても私の血ではない。ほんの一瞬、クラっときたくらいに考えていた。考えたかった。だが、自分の体内から出てきた、千切れ飛んだ二本の指の存在が、事実から逃れることを許してくれない。自分が長期間気を失っていたこと。そして、その間に重大な何かが起こったことは明らかだった。
未だルーツに突き刺さったままの槍。千切れ飛んだ指。死んでいる兵士たち。居なくなった赤鎧。そして、怪我一つ負っていない自分。その意味するところは――、
頭にとある可能性がよぎった。そしてそれは、考えれば考えるほど否定できない強固な確信へと変わっていく。
……私だ。この惨事は、私自身が引き起こしたものなのだ。
でなければ、他に誰がやったというのだろう。よく見ると、丸太のように転がっている兵士たちの数は数名足りなかった。だが、路地に撒き散らされた血しぶきの痕を見る限り、赤鎧たちが五体無事で帰りついたのだとは思えない。なら、まさか――。ユリは、指が自分の口の中に入っていたことからおぞましい懸念を抱いた。まさか私は、赤鎧を食べてしまったのだろうか――?
あり得ないことだ、とは思った。人を一人まるっと食べてしまうなんて、明らかに常軌を逸している。しかし、今ユリの前で起きているのはまさしく、あり得ないことだった。目を覚ましたら、自分を取り囲んでいた屈強な兵士が死んでいて、口の中には切り飛ばされた指が入っている。頬をつねったり、自分の頬を力一杯殴っては見たが、願いもむなしく、ただ時間だけが過ぎて行った。
―――――――――030―――――――――
鐘の音が大きくなっていく。と同時に、遠くからパラパラと足音が聞こえてきた。一方だけではなく、手前からも奥からも。ユリを挟むようにして、足音は近づいてきていた。どこにも逃げ場は残されていない。半ば放心状態だったユリは、その時になって、ようやく正気を取り戻した。周囲を見渡すと、路地に面した家々にも、大きな岩の直撃でも受けたのか、無数の大きな穴が開いている。他に選択肢は無かった。ユリは槍が突き刺さったままの痛々しいルーツを何とか担ぐと、右に左によろけながら、そのうちの一つを目指して進んでいく。傷口が揺れれば、容体が悪化するかもしれない。だが、後のことを考えている余裕が無いほど、事は差し迫っていた。
騒ぎに驚き、逃げてしまったのか、家の中は人気が無かった。なるべく衝撃を与えないようルーツをゆっくり寝かせた瞬間、外の足音が止まる。ユリは両手を重ねるようにして自分の口を塞ぎ、足音の持ち主たちが早急に立ち去ってくれることだけを願った。だが――、一人、二人。そんな数ではない。数えきれないほどの人びとが、この狭い路地に集まって来ていた。待てば待つほど、人の気配は多くなる。ユリは自分の袖を噛んで、今にもカチカチと打ち合ってしまいそうな歯を押さえながら時が過ぎるのをじっと待った。
―――――――――031―――――――――
「むごいことをする」
最初に聞こえてきたのは、引き攣ったようなしゃがれ声だった。
「元の顔が分からないくらい変形している。これじゃあ、身元すら分からねえ」
これを皮切りに、家の壁を一枚隔てた向こう側では、老若男女、様々な人々が次々に感傷の言葉を述べ始める。
「誰がこんなことを……王都の中でなんて、ましてや憲兵が……」
絶句する者。
「こっちにもいるが……既に息がない。可哀そうに」
「ああ……こいつ。この前まで、補助隊にいた奴だ。まだ、若いのに……。願わくば、神々のお導きがあらんことを。何物からも解放されるように」
嘆く者。祈る者。
「どいてくれ、ゼーミャ。ゼーミャじゃないか。俺の友だちだ。どけ、どけよ!」
錯乱し、暴れる者。
「おい、お前! 勝手に遺体に触るな! 誰か取り押さえろ!」
「ここは我々だけでやる。お前たちは周辺の警備を強化しておけ。……いいか。憲兵隊の面子に賭けて、鼠一匹通すんじゃないぞ!」
先ほどのユリのように、ゲーゲーやる音が一通り聞こえた後、何人かの足音がドタバタと、勢いよく走り去っていった。
―――――――――032―――――――――
「誰だ、新兵や、関係者を連れてきた間抜けは……」
そして、しばらくすると、辺りはようやく静かになり、疲れ切った男の声がユリの耳にも届いてくる。
「何が起こってるんだ!」
「私たちにも見せとくれ!」
野次馬らしき大勢の騒めきは、すっかりどこかに遠のいて、
「ですから……今は通れないんです! 他の道を使ってください!」
遠くの方からは、先ほど周辺の警備を任されていた兵士の声だろうか。
女性にしては、ちょっぴり低い声の持ち主が、懸命に民衆を止めている様子が聞こえてきていた。――そして、
「おい、ここの創傷を見てみろ。どれも形がおんなじじゃないか。こりゃあいっぺんにやられたみたいだな」
「……そんなふうに見えますか? でも、それが本当なら、急いでどこかに移動させた方がいいかもしれませんね。騒ぎが大きくなってくると面倒ですし」
路地に残った二人の会話を耳にして、ユリはにわかに、このまま兵士たちが此処から立ち去ってくれないだろうかと、僅かな期待を抱き始める。
が、事がそんなに、上手く回り始めるはずもない。
どうやら兵士たちは、遺体を運んでいこうとしているわけではなく、あくまでもこの路地に留まったまま、何かを調べる気でいるようだった。
……いや、本当はそれさえも定かではないのだ。
こちらの存在に気づいていないふりを装って、動向や物音を探っている可能性だって、ゼロであるとは言えないのだから。
そう疑って、時おり呪文のような言葉が唱えられるたびに、ユリは身を縮こまらせる。しかし、幸いにも今のところ、それは杞憂に終わっていた。
が、誰も近づいてこない代わりに、誰も立ち去ろうとしない。こんなギリギリの状態で、いつまでも自分を保ち続けるのは無理があった。そして、逃げ道のない部屋の中で、普段通りに頭を働かせるのも、可能であるとは思えない。
だから、ユリは生き延びるために心を殺した。
ルーツを助けるために、全神経を張り巡らせた。
そして、少し湿った壁に片耳を押し付けながら、人々の会話を聞いていた。
―――――――――033―――――――――
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